痛む頬
涙がこぼれる。
知らず頬を伝った雫が、ぽたりとドレスの上に落ちた。
「……っ」
それを見た瞬間、セルディオ様が息を呑んだような気配がする。
まるで初めて私を傷つけたことに気付いたかのように。
けれど──今、私を泣かせているのは、間違いなく貴方様なのですよ……などと、口にするつもりはなかった。
そんなことを告げた所で、きっと何も変わらない。
私が傷ついたことも、悲しかったことも。
今更なかったことにはならないのだから。
「奥様、早くお部屋に参りましょう」
リシテアが、私とセルディオ様の間へ割り込むようにして立つ。まるで私を守る壁のように。
その背中が、今はとても頼もしかった。
このままここにいたら、きっと私はもっと泣いてしまう。
頬が痛くて。でもそれ以上に心が痛くて。胸の奥から溢れてくるものを、もう抑えきれそうになかった。
「さ、奥様……」
促されるまま歩き出そうとした、その時──。
「ニーナ!」
背後から名前を呼ばれた。反射的に足が止まりかける。
長い間、そうして呼ばれれば振り返ってきたから。どんな時でも、彼を優先してきたから。
けれど──。
「奥様は体調が悪いんです。お話なら後にしていただけますか」
私が振り返るより先に、リシテアがぴしゃりと言い放った。
そしてセルディオ様の返事も待たず、私の手をとる。
「参りましょう、奥様」
ふん、とでも言いたげな勢いで歩き出す彼女に引かれながら、私は唇を噛み締めた。
もう振り返らない。
そう決めるように前だけを見つめて。
「ニーナ!」
セルディオ様は、まだ私を呼んでいたけれど。
私は一度も振り返ることなく、その場を後にしたのだった──。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
「まったく、旦那様は一体何を考えているんでしょうね? 本当はまだ医院にいてもおかしくない体調の奥様を、なんの言い訳も聞かず、容赦なく殴るだなんて」
ぶつぶつとセルディオ様への文句を並べ立てながら、リシテアは私の寝支度を整えていく。
本当は主人の文句なんて言ってはいけないと嗜めなければいけないけれど、彼女のそれは私の為だと分かるから、窘めることができない。
「殴るだなんて人聞きが悪いわ。少し頬を叩かれただけよ」
リシテアの気遣いに心が温かくなり、それだけを言う。すると彼女はぴたりと手を止め、信じられないものを見るような顔でこちらを振り返った。
「はあ!? こんなに真っ赤に腫れ上がってしまっているのに、どこが《《少し》》なんですか? あんな男、庇う必要なんてありませ──」
コンコン。
不意に扉が叩かれた。
リシテアは弾かれたように口を閉ざす。
今の話を聞かれていなかっただろうか?
二人で顔を見合わせ、少しの間を置いてから、私は入室の許可を出した。
「……どうぞ」
その声に応えるように、ゆっくりと扉が開く。
そこにいたのは、冷やしタオルを手にしたセルディオ様だった。
「先ほどはすまなかった」
その姿を見た途端、びくりと肩が震えた。
痛む頬が、先ほどの出来事を思い出させる。
一体、何をしにいらしたのだろう?
「ニーナに……謝りにきたんだ。入っても良いだろうか?」
どこか気まずそうな声だった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間──。
胸の奥で、ほっとしたような気持ちが生まれてしまった自分がいた。
ああ。
だから駄目なのだ。
たった一言「すまなかった」と言われただけで。
こんなにも嬉しいと思ってしまうのだから。




