リシテアの祈り
屋敷の混乱に紛れ、なんとか屋敷を抜け出した私は、奥様が待つ医院へとわき目もふらず走っていた。
早く、早く、早く──奥様の無事な姿をこの目で確かめたい。
その一心で、女性が人前を走るなどはしたないという常識さえ、とうに頭から吹き飛んでいた。
早く、早く、早く──。
息は上がり、胸は苦しい。それでも足を止める気にはなれなかった。
一歩がまるで百歩のように遠い。奥様と並んで歩いた時にはあっという間だった道が、今日はどこまでも長く続いているように思える。
奥様、早くお会いしたい……。
たった一晩お姿を見なかっただけだというのに、もう何日も、何ヶ月も離れていたような気さえした。
奥様。
奥様。
どうかご無理をなさらないでいて下さい──。
祈るように心の中で呼び続けていると、やがて視界の先に目当ての医院が見えた。私は最後の力を振り絞って駆け寄ると、勢いのままに扉を開け放つ。
「奥様!」
瞬間、中にいた二人が、弾かれたようにこちらを向いた。
「お、おお……なんだ、君か」
「び、びっくりした~……」
いつも奥様を診てくださっている医師の方と、朝方に奥様からの文を届けてくれた少年。
二人の反応を見て、相当驚かせてしまったらしいと気づく。
「す、すみません……」
途端に頬が熱くなり、小さな声で謝ると、医師の方は優しい笑顔で頷いてくれた。
「構いませんよ。ご夫人を心配していらしたのでしょう? ご夫人は、貴女のように慕ってくださる方がいて幸せですね」
「あ、ありがとうございます……」
まさかそんな風に言ってもらえるとは。
予想外の言葉に、私はますます頬に熱を感じた。
けれど、それもほんの一瞬だけのこと。
次の刹那には、私の視線は落ち着きなく室内を彷徨っていた。
奥様はどこ?
無事なの?
「そ、それで奥様は……」
周りを見回しながら尋ねると、それまで黙って座っていた少年が、ピョン!──と立ち上がり、奥の廊下を指差した。
「こっちだよ!」
どうやら、奥様のもとまで案内してくれるらしい。
少年は先頭に立って進むと、やがて幾つもある部屋の中の一つのドアの前で止まった。
「先生の医院は大きいからね。療養用の部屋がいくつもあるんだ。その中でも、この部屋の豪華さはちょっとしたもんなんだぜ」
「まあ、そうなの。奥様に気を遣ってくれたのね。ありがとう」
自慢げに言う少年を微笑ましく思いながらも、私は待ちきれずドアノブに手をかけようとする。が、寸前のところでなぜか少年に遮られた。
「あら……?」
「ちょっと待って! 面会はお姉ちゃんが起きてる時だけって先生に言われてるから、先に起きてるかどうか確認しないと……」
そう言って、少年は慎重な動作でドアノブにそっと手をかける。けれど──。
「起きてるわ。シルの声が大きいから、眠ってなんていられないわよ」
と言う声が、部屋の内部から聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、胸が大きく跳ねる。
聞き間違えるはずもない。ずっと会いたかった人の声だ。
「奥様……!」
思わず零れた声は、自分でも驚くほど震えていた。




