幻であった日々
しばらく泣き続けた後、ようやく気持ちが落ち着いた私は、ゆっくりとリシテアの腕から離れた。
いつまでも泣いてばかりいるわけにもいかない。あまり長い時間私が屋敷を不在にしていると、火のない所に煙は立たぬ使用人が出てくるかもしれないから。
加えて今は、夫との仲が冷え切ってしまっている関係上、屋敷内でほぼ孤立しているも同然の状態となっている私の立場は、とても微妙なものになってしまっている。そんな時に少しでも怪しまれるような行動は慎むべきだし、ほんの少しでも付け入られるような隙は作りたくない。だというのに、リシテアはどこか残念そうな表情で、「……奥様、もうよろしいのですか?」なんて聞いてくるのだ。
夫の家に入ってからは周りの目が気になって以前のようにリシテアに甘えることが格段に少なくなっていたため、久しぶりに私に甘えられて嬉しかったのかもしれないけれど。そんな彼女の様子を見ていると、つい「じゃあ、もう少しだけ……」と言ってしまいたくなる。
だけど今日はもう既に十分甘えさせてもらった。
あとは明日からどうするかを考えていかなければならない。
「みんなに内緒にしていたから、きっとバチが当たったのね……」
次の診察予約をした後、帰りの馬車内で私は誰にともなく呟くように、そう言った。
こんなことなら、体調の変化に気付いた時点ですぐに受診すれば良かった。夫や周りに変に隠さず、本当のことを素直に話していれば良かった。
そんな後悔が全身を駆け巡るも、全てはもう手遅れだ。今更過去に戻ることはできない。
なんて、割り切ることができたら苦しまなくて済むのに──。
私は、なんて愚かだったのかしら……。
リシテアが私を慰めるかのように手を握ってくれるも、冷え切った私の心の奥底までは、残念ながらその温もりは届かなかった。
「奥様、このこと……旦那様にお伝えしますか?」
いくらか躊躇するように何度か戸惑いを見せてから、リシテアがそう尋ねてくる。けれど私はしばらく考えた後、首を横に振ることで彼女に応えた。
「伝えたところで、どうにもならないわ。それに、もし言ったところで、信じてもらえるかどうかも怪しいもの……」
「そんな……。ですが旦那様は、奥様のことを大切に思っていらっしゃるのでは……」
不意にそこで、彼女が言葉を途切れさせる。そしてそれは、彼女が意識的にそうしたのだと私はすぐに気づいた。
私付きの侍女であるリシテアは当然知っているのだ。ここ最近の私に対する夫の態度が、如何に酷いものであったのかを。
ほんの一ヶ月──いや、夫の態度が変わってからなら、半月ほどだろうか。たったそれだけの間に私達夫婦の心は見事にすれ違い、夫の心は面白いぐらい簡単に私から離れていった。
そうして彼は今、私ではない別の女性を傍に置いている。
まるで、彼と私が愛し合っていた日々の全てが、幻であったかのように──。




