運命が変わった日
「……残念ながら、もう手の施しようがありません」
何度目かになる入念な診察の後、医師は哀れみのこもった声で、そう告げた──。
以前から身体に不調を感じていた私が初めて街の医院を訪れたのは、まだ暖かい春の日だった。
その頃の私は結婚してからまだ一年も経っておらず、毎日が充実していて、まさに順風満帆といった人生を歩んでいた。
そんな時──ふと感じた胸焼け。
さほど酷いものではなかったけれど、それから頻繁に胸焼けを感じるようになり、そのせいで少しずつ食欲が落ちていった。
まさかこれは、妊娠では?
毎日のように夫と閨を共にしているのにも関わらず、私にはまだ懐妊の兆しがなかった。
そのことを周囲も気にしていながらも、「まだ結婚一年目だから……」と気遣ってくれていることにも気づいていて。できることなら一刻も早く懐妊したいと望んでいた私は、愚かにもその体調不良を妊娠のせいだと思い込んだ。
幸いにも悪阻──と誤解したもの──は軽い方であったため、私はもう少し後になってから医師に診せても大丈夫だろうと軽く考え、診察を後回しにした。まさかそれが、自分の命運を分けることになるなんて気づかずに。
そうして体調不良を理由に子作りを断るようになってから、最初のうちは私のことを心配して「僕は君と一緒に眠れるだけで幸せだから」と言ってくれていた夫も、それが一ヶ月続く頃には「まだ体調は回復しないのか? 実は体調不良なんて嘘っぱちで、単に僕との子作りが嫌になっただけなんじゃないだろうな!?」などと、私に不満をぶつけるようになっていた。
決して夫に不満があるわけじゃない。私はただ周囲を糠喜びさせないために、もう少し時間が欲しいだけなのに……。
貴族学園で夫と出会い、愛し合って結婚しただけに、私は自分の気持ちが彼に理解されないことが、とても悲しかった。
──そんなある日のこと。
夫の嫌味にとうとう耐えきれなくなった私は、信頼できる侍女を一人だけ連れ、お忍びで平民街の医院を訪れた。
貴族街の医院になど行けば、いくらお忍びでもすぐに身バレしてしまう。だからこそ、慎重を期して平民街の医院へと赴いたのだけれど──どうやらその選択は正しかったらしい。
私の診察を終えた後、医師は難しい顔をして、端的にこう告げたからだ。
「貴女様のお身体は……何回かに分けて入念に検査する必要があります。今日一日だけの診察では、なんとも申し上げられません」
と──。
「先生……私は、妊娠しているのではなかったのですか?」
妊娠ならば、すぐに分かる。入念な検査などする必要はない。
けれど、違うということは──。
「ご婦人、きちんと検査をしましょう。今の段階で詳しく申し上げることはできかねますが、検査の結果によっては今後妊娠の可能性も──」
「やめて!」
私はそこで、思わず医師の言葉を遮った。
今後? 今後ってなに? 私にとって大切なのは“今”なのに。“今”妊娠していなければ何の意味もないのに。
「今後なんて……ないのよ……」
自嘲するように言い、平らな自分のお腹にそっと手を当てる。
もしもここに赤ちゃんがいれば、拗れてしまった夫との仲を修復することができたかもしれない。
今はもう私に見向きもしなくなってしまった夫の心を、もう一度取り戻すことができたかもしれない。
けれど実際は──。
「……奥様」
俯いて平らなお腹を無心のまま撫でていると、ふと背後から気遣わしげな声がかけられた。
「何かしら?」
表情を取り繕うこともできずに振り向くと、そこには痛ましげな表情でハンカチを差し出す侍女のリシテアの姿があって。
「…………?」
なぜハンカチを差し出されたのかが分からず、首を傾げた刹那──胸元に、ぽたりと冷たいものが落ちた感覚があった。それにより、初めて自分が涙を流していることに気づく。
「あ……私……」
「奥様、ここにはお医者様と奥様、そして私だけしかいません。ですから我慢をなさらずともよろしいのですよ」
私への気遣いに溢れるリシテアの声に、胸の内から熱いものが込み上げてくる。
彼女は私の乳母の娘であり、嫁入りの際に唯一私が実家から連れてきた侍女だった。まるで実の姉妹のように育ってきた私達はとても仲が良く、彼女がいてくれたからこそ、私が夫による冷遇に耐えられたと言っても過言ではない。
「……さ、奥様」
リシテアに両腕を広げられた瞬間、私は縋り付くようにして彼女の腕の中へと飛び込んだ。
「リシテア……私、ここに赤ちゃんがいると思って……。でも、実際には何も……なくて……」
「ええ、奥様。お辛いですね……」
「赤ちゃんがいれば、やり直せると思ったの。あの人がもう一度、私を見てくれるかもしれない、子供ができれば、家族として一からやり直せるかもしれないって。でも……」
その先は言葉にならず、ただ嗚咽を漏らすだけになってしまう。
「ええ、ええ、奥様。分かっていますよ……」
ひたすらに泣き続け、リシテアの服を濡らす私を、彼女は私の気が済むまで、ずっと支え続けてくれていた──。




