ここへ来た意味
シルは最初、私の言葉に躊躇いを覚えたようだった。
それも当然だ。
私が今日ここへ来たのは話し合いをするためだったけれど、肝心のセルディオ様の様子は、とても正気とは思えなかったのだから。
あれほど常軌を逸した相手に、まともな話が通じるとは思えない。
案の定、シルは不安そうな眼差しを私へ向けた。
「俺は……反対だよ。あの人、何だか危ない気がする。本気でニーナさんに手を出してきたら、今度こそ俺とリシテアさんだけじゃ守りきれないかもしれない……」
肩を落とすシルに、私は安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ。私だって、単にやられっぱなしじゃないわ。これでも公爵夫人だったんだから。……信じて」
「ニーナさん……」
私はシルの手をぎゅっと握り、大きく頷いてみせる。
するとシルも、決意を固めたように小さく頷き返した。
「……分かったよ。俺、ニーナさんを信じる」
その瞬間だった。
――バンッ!!
激しい音とともに扉が開き、セルディオ様とリシテアがもつれるようになだれ込んできた。
「奥様、お逃げください!」
「ニーナ!!」
セルディオ様が真っ直ぐ私へ手を伸ばす。
シルは咄嗟に車椅子を押そうとした。
けれど私は、それを制するように静かに口を開いた。
「皆、落ち着きなさい」
凛と響いたその一言に──。
室内から、すべての音が消えた。
誰もが息を呑み、誰一人として動けない。
まるで時間だけが止まってしまったかのような静寂が、その場を支配していた。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
「セルディオ様、まずは落ち着いてください。私は今日、あなたと話し合うために参りました。ですが、そのようなご様子では、話し合いになりませんわ」
真っ直ぐにセルディオ様を見つめながら告げる。
本当は緊張で胸が張り裂けそうだった。
心臓は激しく脈打ち、指先は冷たく震えている。
それでも──この場で怯える姿だけは見せられなかった。
「ニーナ、しかし君は……」
「あのような窮屈なお部屋では、落ち着いてお話などできませんもの。ですが、私が何も告げずに姿を消したことで、あなたがそのようになってしまったのだとしたら……そのことについては、私にも責任があります。本当に申し訳ございませんでした」
私は車椅子に座ったまま、深く頭を下げる。
一瞬だけ、『そもそもリンカ様を屋敷へ迎え入れなければ、こんなことにはならなかったのでは』という思いが胸を過った。
けれど、そのことを口にするつもりはなかった。
もう終わったことだから。
リンカ様のことなど、今の私にはどうでもいい。
私はもう長くは生きられない。
私がいなくなったあと、彼女がセルディオ様を支え、彼が少しでも穏やかに生きていけるのなら──それでいい。
そう思った。けれどセルディオ様は、そんな私の考えに反論するかのように口を開いた。
「……いや、違う。悪いのは僕だ」
震える声で呟くと、セルディオ様もまた深く頭を下げる。
「リンカの嘘を信じ、君に酷いことをした。それだけじゃない……。僕は君を苦しめると分かっていて、あんな真似までした」
拳を強く握り締める。
「リンカのことなど、最初から何とも思っていなかった。ただ……君に嫉妬してほしかったんだ。僕だけを見てほしかった。その一心で、思わせぶりな態度を取り続けた」
掠れた声が震える。
「それがどれほど君を傷つけるかなんて、考えもしなかった。……君がいなくなってからだ。リンカに『そんなことをしても嫌われるだけ』と言われて、ようやく自分の愚かさに気づいたんだ」
一度言葉を切ると、セルディオ様はさらに深く頭を下げた。
「本当に……申し訳なかった」
今さら謝られたところで、心に刻まれた傷が消えるわけではない。
苦しかった日々が、なかったことになるわけでもない。
それでも──。
私がどれほど傷ついていたのか。
ようやく理解してくれた。
それだけでも、今日ここへ来た意味はあったのだと思えた。
何も知らないままで終わるより。
私の痛みに気づき、それを悔いてくれたことが──ほんの少しだけ、救いだった。




