リンカの逃亡
その日はなぜか、本邸が慌ただしかった。
やたらと人の出入りが激しいし、普段は別邸担当となっている使用人達までもが本邸へと呼び出される始末。
一体何があったのかと試しに聞いてみるも、誰も答えてはくれなかった。
「なんだって言うのよ、もう……」
相変わらず暇を持て余し、別邸の窓から本邸を見つめながら、アタシはため息を吐く。
みんなはあんなにも忙しそうにしているのに、アタシだけが籠の外に取り残されているみたいで、どうにも面白くない。
しかも、それだけじゃなく、廊下ですれ違った使用人達は、アタシを見るなり口を噤み、足早に去っていく。
視線が合えば、気まずそうに逸らされる。
まるで──アタシに知られてはいけない何かがあるみたいに。
「……気持ち悪い」
胸の奥が、ざわりと騒いだ。
嫌な予感しかしない。
だけど、その正体だけは誰も教えてくれなかった。
「なんなのよ……。これから何があるって言うのよ……」
仕方なく別邸を抜け出し、本邸へ忍び込むことにした。
玄関ホールへ滑り込み、大きな花瓶の陰へ身を潜める。
すると──慌ただしく行き交う使用人達の声が耳に飛び込んできた。
「屋敷中の花を奥様がお好きだったものに替えろ!」
「お食事も奥様のお好みを最優先だ! できる限り当時と同じものを用意しろ!」
「奥様がお戻りになられる。必ず『帰ってきてよかった』と思っていただけるよう、全力を尽くすんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、アタシの思考は真っ白になった。
──奥様が、この屋敷に戻ってくる?
どうして?
だって奥様は、もう二度と戻らないんじゃなかったの?
じゃあ、アタシは……?
心臓が嫌な音を立てる。
今でさえセルディオに煙たがられ、別邸へ押し込められているというのに。奥様が戻れば、アタシの居場所なんて完全になくなってしまう。
一瞬だけ、淡い期待が頭をよぎった。
また奥様に嫉妬させるために、セルディオがアタシを傍へ置くかもしれない。
けれど、その考えはすぐに打ち消した。
「……ない」
あれほど狂ったように奥様を捜し回り、見つからないだけで正気を失いかけていたセルディオだ。
ようやく取り戻せたのなら、今度こそ宝物のように大事にするはず。二度と逃げられないよう、鳥籠へ閉じ込めるくらいに。
そしてアタシは──。
別邸の隅で、誰にも見向きもされず、生かされるだけの存在になる。
ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がった。
嫌だ。
そんなの、絶対に嫌。
セルディオにも会えず、誰にも必要とされず、豪華な屋敷で何もせず歳だけを重ねていくなんて。
それは屋敷なんかじゃない。豪華な牢獄だ。
「……逃げなくちゃ」
気づけば、その言葉が、震える唇から零れ落ちていた。
できることなら、今すぐにでも。
使用人達が本邸のことで手一杯になっている、この隙に逃げるしかない。
アタシは花瓶の陰から飛び出すと、本邸へ忍び込んだ時と同じように人目を避けながら、急いで別邸へ戻った。
そしてベッドの下から大きなトランクを引っ張り出し、衣服や宝石、高価そうな装飾品を次々と詰め込んでいく。
「ここでもらった物は全部アタシのものよね。純潔まで奪われたんだから、これくらい当然の権利だわ。これを元手にして、今度こそ自由で楽しい人生を送るんだから……」
本当は公爵夫人になりたかった。
けれど、それはもうセルディオ相手では叶いそうにない。
それどころか、彼は見た目も家柄も申し分なかった反面、中身は最低最悪の男だった。
愛する女の気を引くためだけに、別の女を傍へ置いて利用する。
契約で彼に侍っていたアタシが言えた義理じゃないけれど、もし自分が同じことをされたら、絶対に許せない。
「……よし。こんなもんね」
トランクいっぱいに荷物を詰め込み、蓋をしっかり閉める。
重たい荷物を引きずりながら、アタシは玄関へ向かった。
「まずは、どこへ行こうかな……。前に働いてた店は、さすがに危ないわよね……」
独り言を漏らしながら歩く。
奥様とは違って、セルディオはアタシがいなくなったところで必死に探したりはしないだろう。
それでも、念のため遠くへ逃げた方がいい。
そう考えながら玄関の扉を開けた、その時だった。
「どちらへ行かれるのですか?」
別邸担当の使用人と、真正面から鉢合わせになった。
「えっ!? えっと……ちょっと散歩でもしようかなって……」
思わず笑って誤魔化そうとする。
しかし使用人の視線は、すぐにアタシの手元へ落ちた。
「そのような大きなお荷物をお持ちになってですか?」
「そ、それは……」
返す言葉が見つからず、思わず目を逸らす。
「リンカ様……まさか」
しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
「ご、ごめんなさーい!」
叫ぶように謝ると同時に駆け出す。
すると背後から、屋敷中に響き渡るような声が飛んだ。
「リンカ様がお逃げになります! 誰か、捕まえてください!!」




