セルディオの困惑
ニーナに告げられた言葉が信じられず、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
『あなたは私を愛してなどいなかった。そして私も、あなたを本当の意味で愛してはいなかった』
ニーナは確かにそう言った。
だが、それは一体どういう意味なんだ?
僕は誰よりも彼女を愛していた。そして、彼女もまた僕を愛していると信じていた。
それなのに、どうして突然そんなことを言う?
しかも彼女の病は、自力で歩くことすらできず、車椅子を使わなければならないほど悪化していた。
公爵邸にいた頃は、ただの体調不良だと言っていたはずだ。
まさか……本当の病名を、僕に隠していたのか?
いや、それはあり得ない。
公爵家お抱えの医師は何も報告してこなかった。
当主である僕に妻の病を隠すなど、重大な規約違反だ。知っていたのなら、必ず何らかの報告があったはず。
「訳が分からない……」
考えれば考えるほど、疑問ばかりが増えていく。
やはり、もう一度ニーナ本人から話を聞かなければ。
そう決意し、彼女達が去っていった方へ足を踏み出そうとした、その時だった。
「……旦那様。申し訳ありませんが、これ以上先へは行かせられません」
進もうとした先から現れたのは、リシテアだった。
彼女は僕の前に立ち塞がるように両腕を広げ、鋭い視線を向けてくる。
その姿を見た瞬間、やはりそうか、と確信した。
ニーナが姿を消したあの日、この女もまた忽然と姿を消していたのだ。
ずっと怪しいと思っていたが、案の定、今もニーナと行動を共にしていたらしい。
公爵邸にいた頃から、この女は何よりもニーナを優先し、僕の命令に従おうとはしなかった。
名目上はニーナ付きの侍女だったとはいえ、給与は公爵家が支払っていた。つまり、雇い主は僕だ。
それなのに、この女は最後まで僕ではなくニーナだけを見ていた。
以前から気に入らなかった。
だが、その程度で済んでいた感情が、今この瞬間、はっきりとした嫌悪へと変わる。
彼女を傷つければニーナが悲しむ。
それが分かっていたから、これまでは手を出さずにいた。
だが──ようやく再会できたニーナとの時間まで邪魔をするというのなら、話は別だ。
「どけっ!」
僕は乱暴にリシテアの肩を掴み、そのまま力任せに突き飛ばした。
「きゃあっ!」
リシテアの身体が大きくよろめき、そのまま草むらへ倒れ込む。
だが、そんなことは知ったことではない。
悪いのは僕ではなく、僕の邪魔をしたリシテアだ。
愛し合う夫婦がようやく再会したというのに、その逢瀬を妨げようとするなど、罰を受けても文句は言えない。
少なくとも、この時の僕は本気でそう信じていた。
なのに──。
「……聞いていた通り、あなたは随分と傲慢で、自分勝手な方のようだ」
不意に低く落ち着いた声が響き、僕は反射的にそちらへ視線を向けた。
そこには、倒れたリシテアを気遣うように抱き起こす、白衣の男がいた。
医者か?
そう思った次の瞬間、男は真っ直ぐ僕を見据え、静かに言い放つ。
「あなたがもう少し思いやりを持ち、相手の心を理解しようとする方であったなら……奥様が黙って屋敷を出ることはなかったかもしれない」
一拍置いて、男は淡々と言葉を続けた。
「今あなたが置かれている状況は、すべてあなた自身が招いた結果です。どうか一度、ご自身のこれまでの振る舞いを振り返っていただきたい」
「なっ……はあ!?」
あまりにも一方的な物言いに、怒りが一気に込み上げる。
何も知らない部外者が、偉そうに説教するな。
そう怒鳴りつけようと男を追いかけた。
だが、男はリシテアを支えたまま医院の中へ入ると、僕の目の前で扉を閉めてしまった。
「待て!」
何度も扉を叩き、大声で呼びかける。
しかし返事はなく、重厚な扉は微動だにしなかった。
「なんなんだ、あの無礼な医者は……」
苛立ちを吐き捨てながらも、一つだけ気になることがあった。
あの男は、ニーナが去っていった方向から現れた。ということは、今のニーナの主治医なのだろうか。
以前ニーナを探した際、この近辺の医院も調べさせたはずだ。
それなのに、なぜこの場所だけ見落としていた?
釈然としない思いは残ったものの、それ以上考えるのはやめた。
何より、ニーナが生きていて、居場所も分かった。その事実だけで、張り詰めていた心が幾分軽くなっていたからだ。
いずれ必ず、もう一度ニーナと話す機会は訪れる。
そう信じた僕は、一度屋敷へ戻ることにした。




