止まらない涙
そんな、まさか……。
信じられない思いを抱えたまま、私はゆっくりと声のした方へ視線を向ける。
そこには──別れた頃とは見違えるほど痩せ細り、頬をこけさせたセルディオ様が、信じられないものを見たような表情で立ち尽くしていた。
「ニーナ! ニーナ!」
庭園の入口を見つけるなり、彼は転ぶことも構わず駆け出してくる。
その必死な姿は、私が知る今のセルディオ様ではなかった。
結婚してからは一度も見せることのなかった、余裕も威厳もかなぐり捨てた表情。それは、まだ学園に通っていた頃の彼が、ときおり見せてくれた顔によく似ていた。
「セルディオ様……」
呆然と名を呼んだ、その瞬間。
私は勢いよく抱き締められた。
「ニーナ……! ああ、ニーナ……! よかった……本当に、よかった……!」
耳元で震える声が繰り返し私の名を呼ぶ。
肩に触れる彼の身体も、小刻みに震えていた。
どうして……?
どうしてセルディオ様が、こんなにも取り乱しているの?
私は嫌われたはずの妻だった。愛想を尽かされ、「さよなら」と言われて終わった相手だったはずなのに。
「あの……セルディオ様?」
戸惑いながら背中をそっと叩く。
すると彼は離れるどころか、私を壊れ物でも抱くように、さらに強く抱き寄せた。
「ごめん……! 本当に、ごめん!」
掠れた声が、途切れ途切れに零れる。
「『さよなら』なんて、本心じゃなかった。あれは……言葉の綾というか、売り言葉に買い言葉というか……つい口を滑らせてしまっただけなんだ。君と別れるつもりなんて、少しもなかった。まさか、あの一言で君が本当にいなくなってしまうなんて……思ってもいなかった……」
腕の震えが、更に強くなる。
その震えが、後悔なのか、恐怖なのか、それとも安堵なのか。私には分からなかった。
あまりにも予想外の出来事が立て続けに起こり、私の頭は現実を受け止めきれずにいたから。
「ニーナ……ああ、ニーナ……」
じわりと肩へ、生温かい雫が落ちる。
その感触で、私はようやくセルディオ様が泣いているのだと気づいた。
「どうして……」
驚きと困惑が胸の中で入り混じる。
あんなにも私を冷遇していたのに。
してもいない浮気を疑い、何度も私を責め立てたのに。
最後に「さよなら」と告げたのも、セルディオ様だった。
それなのに──どうして今、あなたは泣いているの?
「……帰ろう、ニーナ」
震える声が耳元で囁く。
「もう二度と、君に冷たくしたりはしない。だから、一緒に帰ろう」
その言葉を聞いた瞬間だった。
私は残された力を振り絞り、セルディオ様の胸を思い切り突き飛ばした。
「うわっ!」
まさか抵抗されるとは思っていなかったのだろう。
不意を突かれたセルディオ様は、そのまま尻もちをつき、呆然とした表情で私を見上げた。
「な、何をするんだ、ニーナ……」
私は静かに首を振る。
「それはこちらの台詞です」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「セルディオ様には、リンカ様がいらっしゃるではありませんか」
一年半前、私の心を砕いた名前を口にする。
「しかもリンカ様は、セルディオ様のお子様をお産みになられた、大切なお方です」
胸は少しだけ痛んだ。
けれど、その痛みも昔ほどではない。
「そんな今になって、私を連れ帰って……どうなさるおつもりなのですか?」
「違う……それは違う!」
セルディオ様が焦ったように何度も首を横に振る。
「リンカは妊娠なんてしていなかった! そもそも僕とリンカは、そういう関係ですらなかったんだ! 全部誤解なんだよ!」
涙ながらに訴えられても、私の胸に浮かんだのは驚きではなく、戸惑いだった。
──何を今さら。
そんな思いしか湧いてこない。
私の目の前で何度も親しげに寄り添い、腕を組み、肩を抱いていた。
夜会でも、公爵邸でも、まるで恋人同士であるかのように振る舞っていたではないか。
それなのに今さら、「何もなかった」などと……。
そんな言葉を、どうして信じられるというのだろう。
あの頃の私は、セルディオ様の言葉を信じたかった。
どんなに冷たくされても、嫌われていないのだと信じたかった。
けれど、その願いは何度も裏切られ、最後には「さよなら」の一言で打ち砕かれた。
だからもう──。
私は、あなたを信じられない。
「……シル、行きましょう」
私は黙って見守ってくれていたシルへ声をかけ、セルディオ様に背を向けようとした。
けれど。
「待ってくれ!」
セルディオ様は慌てて立ち上がると、私の車椅子の取っ手を強く掴んだ。
「ニーナ……どうして君は車椅子なんかに乗っている? ただの体調不良じゃなかったのか? 君の病は……一体、何なんだ?」
「……それを、お答えする義務がありますか?」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
どうせ私は、もう長くは生きられない。病名を告げたところで、何が変わるというのだろう。
以前の私は、同情されたくなくて病気を隠していた。
けれど今は違う。
これ以上、セルディオ様に執着してほしくない。
だからこそ、何も話したくなかった。
「あなたはただ、長い間そばに置いていた私を手放したくないだけなのでしょう」
静かに言葉を紡ぐ。
「それはきっと、子どもがお気に入りのおもちゃを取られたくないと思う気持ちと同じです」
セルディオ様の瞳が大きく揺れた。
「あなたは私を愛してなどいなかった。そして私も……あなたを本当の意味では愛していなかったのです」
「そんなわけ──」
「もう、お帰りください」
私は首を横に振る。
「どうか、車椅子から手を離して」
震える手を、シルが静かに、それでいて有無を言わせぬ力で引き剥がした。
そのまま車椅子は、セルディオ様とは反対の方向へゆっくりと動き出す。
「ニーナさん……」
しばらくしてシルが遠慮がちに口を開いた。
「あの人、まだ立ち尽くしてるけど……本当にこれでいいの?」
私は小さく頷いた。
──これでいい。
セルディオ様は、リンカ様のもとへ帰るべき人だ。
死を待つだけの私に、いつまでも縛られていてはいけない。
私はもう決めたのだから。
彼の幸せだけを願って生きよう、と。
「……っ、……ふっ……」
そう決めたはずなのに。
頬を伝う涙は、どうしても止まってくれなかった。
泣いてはいけない。シルを心配させたくない。嗚咽なんて、聞かせたくない。
そう思えば思うほど、胸の奥から込み上げるものは抑えきれず、視界は滲んでいく。
そんな私に、シルは何も言わなかった。
ただそっとハンカチを差し出し、黙ったまま車椅子を押し続けてくれた。
その優しさが、今はただ、痛いほど胸に沁みた──。




