シルの決意
「えっ……ニーナさんが、まだ離縁してない……だって!?」
ニーナさんが眠ったのを見計らい、おやつでも持ってこようと部屋を出た時だった。
廊下でリシテアさんと鉢合わせ、ニーナさんに用事があると言うから、今は眠っていることを伝え、代わりに話を聞くことにしたんだけど──。
まさか、旦那さんがまだ離縁届を提出していないなんて、夢にも思わなかった。
「なんでまだ出してないんだよ! もう一年以上も前に家を出てるんだぞ!? 普通なら、とっくに諦めて離縁してるだろ!」
「それが……旦那様は普通じゃありませんから」
リシテアさんは困ったように息をつき、小さく首を横に振った。
……なんだよ、普通じゃないって。
ぼんやりと、一度だけ会ったことのあるニーナさんの旦那のことを思い出す。
確かに、あの人は普通じゃなかった。
こっちが全く予想もしていないことを言い、愛人までもニーナさんの部屋に連れてきて……俺なんかには考えもつかないほど酷いことばかりをする人だった。
離縁したからって、俺がその人の代わりになれるなんて思っちゃいない。
それでも──。
ニーナさんには、もうあの人に縛られたままでいてほしくなかった。
残された時間くらいは、何にも囚われず、穏やかな気持ちで笑っていてほしい。
なのに──まだ離縁していないなんて、冗談じゃない。
「それでね、実は先生と相談して……」
リシテアさんは少し言いづらそうに視線を伏せ、それから意を決したように口を開いた。
「旦那様にお知らせするかどうか、一度だけ奥様のお気持ちを確かめようという話になったの」
「はあっ!? 何だよ、それ!」
思わず声が裏返る。
「そんなの、俺は絶対反対だ!」
胸の奥が熱くなった。
ニーナさんの病気を旦那さんに知らせるかどうかを、ニーナさん自身に聞くだって?
そんなことをしたら──。
「なんでだよ! そんなの、ニーナさんに聞くまでもないだろ!」
思わず一歩踏み出す。
「……いや、聞いちゃ駄目だ」
首を強く横に振った。
「聞いたら、ニーナさんは絶対に自分のことより相手のことを優先する。あの人はそういう人だから」
リシテアさんは悲しそうに目を伏せ、小さく頷く。
「ええ……。最後に一度だけでも、旦那様に会おうとなさるかもしれないわね」
「だったら尚更だ!」
思わず語気が強くなる。
「何でそんなことをさせるんだよ!」
あの旦那のせいで、ニーナさんはどれだけ泣いて、どれだけ苦しんできたと思ってる。
命懸けで屋敷を飛び出したんだ。
今さら会わせるなんて、そんなのあんまりじゃないか。
俺には、どうしても納得できなかった。
「だけど、本当に最後なの。できれば私も会わせたくない。でも、奥様にとって旦那様は、本当に好きだった人……心から愛した人なの。そのお気持ちまで私が否定することは、どうしてもできないわ……」
リシテアさんの声は、小さく震えていた。
その声を聞いただけで分かる。
彼女だって、本当は俺と同じ気持ちなんだ。
できることなら、最後まで旦那さんを近づけたくない。
もうこれ以上、ニーナさんに傷ついてほしくない。
そう思っているはずなのに──。
それでもリシテアさんは、侍女として主人の想いを尊重しようとしている。
自分の願いではなく、ニーナさんの願いを優先しようとしているんだ。
だから俺は、それ以上強く責めることができなかった。
「……分かったよ」
絞り出すように、小さく呟く。
「だったら俺は、もう反対しない。どうするかを決めるのは……ニーナさん自身だ」
そう言いながらも、胸の奥は少しも晴れなかった。
本当は会ってほしくない。
また傷つく姿なんて見たくない。
最後くらい、穏やかな時間を過ごしてほしい。
そんな願いは、今も変わらない。
だけど、それは俺の願いでしかない。
ニーナさんが最後に何を選ぶのか──その権利まで俺が奪ってはいけない。
「……だから、ニーナさんが決めたことなら、俺も受け入れる」
不本意ではあった。
それでも、俺は静かに頷いた。




