リシテア悩み
もう、時間がない──。
最近の奥様のご容態を見ていると、残された時間があと僅かしかないことは、医術の心得などない私にさえ分かるほどだった。
……どうしたらいいの?
本当にこのまま、旦那様には何もお知らせしなくていいのだろうか。
私の心は、大きく揺れていた。
最初は、奥様をあれほど傷つけた旦那様になど、知らせるつもりは微塵もなかった。
けれど、奥様は確かに一度はあの方を愛していた。そして、離縁届を置いて屋敷を出たとはいえ、正式に離縁が成立したわけではない。今もなお、お二人は夫婦であることに変わりはないのだ。
このまま何も知らせず、旦那様が奥様の最期に立ち会うことすら叶わなかったとしたら──それは、本当に正しいことなのだろうか。
何度考えても答えは出ない。
だから私は、一人で抱え込むことをやめ、先生に相談することにした。
「……先生、少しよろしいでしょうか」
医院が休憩時間に入ったのを見計らい、淹れたてのお茶を手に診察室を訪ねる。
扉を開けると、先生はいつもと変わらない穏やかな笑みで私を迎えてくれた。
「どうぞ。……何か悩み事でもあるのですか?」
椅子を勧められ、お茶を差し出した途端、そんなことを言われてしまう。
「えっ……どうして分かったんですか? 私、そんなに顔に出ていましたか?」
できるだけ心配をかけまいと、平静を装っていたつもりだった。それなのに、あっさり見抜かれてしまったらしい。
少し気まずくなって俯くと、先生は優しく私の肩へ手を置いた。
「私はね、リシテアのことなら誰よりも分かるつもりですよ」
その穏やかな声に、思わず顔を上げる。
「何と言っても、あなたは私の愛する伴侶ですから。当然でしょう?」
あまりにも自然にそう告げられ、今度は頬がかっと熱くなった。
……これでは相談どころではない。
「あ、あの……先生。今日は、その……真面目なお話をしに来たんです」
「おや?」
先生は少しだけ目を丸くしたあと、くすりと笑う。
「私は至って真面目に話していたつもりですが……違いましたか?」
「い、いやっ……そういうことじゃなくて……」
やっぱり駄目だ。
恋愛経験なんてほとんどない私では、先生を相手に口では到底敵わない。
ぷうっと頬を膨らませながら、私は先生と出会った頃のことを思い返した。
奥様をお守りするため、この医院で住み込みで働き始めたあの日。
そこで私は、先生の底知れない優しさに触れた。
旦那様の捜索の手が及びそうになれば何度も助けてくださり、奥様のご容態が悪化して私が不安で押し潰されそうな時には、いつも隣で励まし、寄り添ってくださった。
……もっとも、その優しさが私だけに向けられたものではないと知った時は、少しだけ落ち込んだけれど。
先生は誰に対しても分け隔てなく優しく接する、本当に素敵な人だった。
だからこそ、先生に想いを寄せる女性は少なくなかった。
そんな中で、私のように先生よりずっと年下の、子ども扱いされてもおかしくない女が恋愛対象として見てもらえるはずがない──そう思って、一度は諦めようとした。
それでも、この気持ちだけはどうしても諦めきれなかった。
だから奥様のお傍を離れても差し支えない時は、できる限り先生のお手伝いをした。
一緒にいる時間を少しでも増やしたくて。
少しでも私を見てほしくて。
自分にできることは、何でもした。
それがいつ実を結んだのかは分からない。
けれど、気づけば先生は、以前とは違う熱を宿した眼差しで私を見つめてくれるようになっていた。
あの頃は、まさか先生と夫婦になれる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
だから今こうして、先生が何気なく「伴侶」と口にするたびに、胸がくすぐったくなる。
「……リシテア?」
先生の優しい声に呼ばれ、私ははっと我に返った。
いけない。
昔を思い出している場合じゃない。
「す、すみません。少し考え事をしてしまいました」
「構いませんよ。ですが、その表情を見る限り、悩み事は相当深そうですね」
先生は笑みを消し、静かに私を見つめる。
その眼差しに、自然と私の胸も締めつけられた。
「先生……」
意を決して口を開く。
「私……旦那様に、奥様のことを知らせるべきなのか分からないんです」
その一言で、診察室の空気が静かに張り詰めた。
先生は何も言わず、私の続きを促すように静かに頷く。
「奥様は、旦那様には絶対に居場所を教えないでほしいと仰いました。だから私は、そのお約束を守ってきました」
一度息をつき、震える指をぎゅっと握り締める。
「でも……調べたところ、旦那様はまだ奥様との離縁届を提出していないんです。そうなると、お二人はまだ夫婦のままということになりますよね。夫婦なのに、このまま何も知らせなくていいのか分からなくて……」
「なるほど……」
先生は顎に手を添え、静かに考え込む。
それは、先生が真剣に思案する時の癖だった。
「確かに、書類の上では今もご夫婦です。たとえ別居していたとしても、ご主人として知るべきことがある、という考え方もできますね」
そこで一度言葉を切り、先生は穏やかな眼差しを私へ向けた。
「ですが、それ以上に大切なのは奥様のお気持ちです。私は医師として、患者様ご本人の意思を何より尊重したいと思っています」
その言葉に、私は小さく息を呑む。
「どうしたらいいでしょうか……」
答えを見つけられず、縋るような気持ちで尋ねると、先生は少しだけ考えた末、静かに口を開いた。
「……一度、奥様にお聞きしてみましょう」
「奥様に……?」
「ええ。今のお気持ちは、以前と変わっているかもしれません。残された時間が少ない今だからこそ、ご自身で決めていただくべきことです」
先生の言葉を聞き、私はゆっくりと頷いた。
「……そう、ですね」




