セルディオの嫌悪
ニーナの部屋の中は、しん──と静まり返っていた。
彼女がいなくなってから、もう何度ここへ訪れただろう。
扉を開けるたび彼女はいないと思い知らされるのに、それでも僕はここへ通うことをやめられなかった。
「ニーナ……どこにいるんだ……」
見つけたら今度こそ、絶対に離しはしない。甘い腕の檻にとじ込めて、一生そこから逃さない。
そしてもう二度と、彼女を悲しませたりしない。
そう決めているのに、彼女はどこにも見つからなくて。
日だけが無情に過ぎていく毎日だった。
「ニーナ……僕が悪かった。僕が悪かったんだ……」
掠れた声が零れる。
「認める。全部僕が間違っていた ……。だから頼む……もう一度だけ、僕にやり直す機会をくれ……」
返事はない。
静まり返った部屋に、自分の声だけが虚しく響いて、そして消えていく。
その時だった。
僕の背後で、部屋の扉がゆっくりと開く音がした。
「……っ」
反射的に振り返る。胸の奥に、ほんの僅かな期待を抱いて。
しかし──。
「……あ、セルディオ。やっぱりここにいたのね」
姿を現したのは、リンカだった。
その瞬間、胸に灯った小さな希望が音を立てて砕け散る。
代わりに込み上げてきたのは、煮えたぎるような怒りだった。
僕がニーナを失うことになった──その元凶。
「お前……リンカ……お前のせいで……っ」
気づけば、僕は足早に彼女へと歩み寄っていた。
そして乱暴にその首を掴み、逃げられないよう壁へと押しつける。
「っ……!」
リンカが苦しげに息を呑んだ。
「アタシの……せいじゃ……」
「まだそんなことを言うのか!」
怒声が部屋に響く。
至近距離で睨みつければ、リンカの顔がみるみる青ざめていった。
「僕は知っているんだ……。お前、ニーナに“子供ができた”と嘘をついたな?」
刹那、リンカの目が大きく見開かれる。
その反応だけで十分だった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちる。
「……やっぱり、そうなんだな」
低く漏れた声に、リンカの肩がびくりと震えた。
「ち、違……」
「違うだと?」
怒りに震える声で問い返す。
「ニーナは、お前からその話を聞いた直後に姿を消したんだ……! それなのに、まだ嘘をつくつもりか!?」
リンカは何も答えない。
ただ唇を震わせ、怯えたように僕を見上げているだけだった。
その姿が、今の僕にはどうしようもなく腹立たしくて。
「……チッ」
舌打ちとともに、僕はリンカから手を離した。
まるで不要な荷物でも投げ捨てるかのように。
「げほっ……! ごほっ……!」
どさり、と床へ倒れ込んだリンカが、苦しげに咳き込む。
だが、そんな姿を見ても、僕の心は微塵も揺れなかった。
同情も、憐れみもない。
ただ一つ、はっきりと理解しただけだ。
──こいつが、全ての元凶だったのだと。
「ここまで可愛がってやった恩も忘れ、それを仇で返してくるとはな……」
自嘲混じりに呟く。
するとリンカは顔を歪め、縋るように僕の足へとしがみついてきた。
「違っ……違うの! アタシは、ただ……セルディオのことが好きで……! 本当に好きになっちゃったから……あなたの心が欲しくて……!」
その言葉を聞いた瞬間、ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
反射的に、僕は足にしがみつく彼女を振り払う。
「きゃあっ!」
短い悲鳴を上げ、リンカの身体が再び床へと崩れ落ちた。
「……僕に触るな」
吐き捨てるように告げる。
「穢らわしい」
「そんな……」
信じられないものを見るように、リンカが目を見開く。
だが、今の僕には、その顔すら見るのも不快だった。
「お前とは最初から契約だけの関係だったはずだ。それなのに約束を破って屋敷へ押しかけてきた挙げ句、僕を好きになった? そのせいで子供ができたと嘘をつき、ニーナを追い出しただと? ……ふざけるのも大概にしろ!」
床へ倒れ込んだリンカを、僕は冷え切った目で見下ろす。
僕を本気で好きになった?
だから子供ができたなどという愚かな嘘をついた?
……馬鹿馬鹿しい。
そんな身勝手な理由で、ニーナは深く傷つき、屋敷を去ってしまったというのか。
そんなくだらない嘘ひとつで、僕は最愛の妻を失い、終わりの見えない絶望と後悔に苛まれているというのか。
「は……ははっ……」
乾いた笑いが喉から漏れる。
信じられなかった。
あまりにも愚かで、あまりにもくだらない。
「ははっ……そんな……まさか……。そんな理由で僕は……ニーナを……愛する妻を失ったというのか……」
もし全ての発端がリンカの嘘だったのなら──。
僕の失敗は、この女を浮気相手に選んでしまったことだけだ。
もっと自分の立場を理解し、契約を守れる女だったなら。余計な欲など抱かなければ。
こんな結末にはならなかったはずだ。
そう思った瞬間、胸の奥で煮えたぎっていた怒りが一気に噴き出した。
「お前はニーナがいなくなったのは僕のせいだと言ったな……。だが、結局はお前が全ての元凶じゃないか!」
床に膝をつくリンカの胸ぐらを乱暴に掴み上げ、そのまま力任せに頬を打ち抜く。
「きゃあっ!」
リンカの身体が勢いよく吹き飛び、壁へ激しく頭を打ちつけ、鈍い音が部屋に響いた。
だが、そんなことを気遣う気持ちは、もう欠片ほども残ってはいなかった。
「ニーナは確かに苦しんでいたのかもしれない。僕の嫌がらせに耐え続けていたのかもしれない。……だが、それでも最後の一歩を踏み出させたのは、お前の嘘じゃないか!」
「そんなこと分からな──」
「分かる!」
怒鳴り声が部屋に響く。
「ニーナの置き手紙に書いてあったんだ。『リンカと子供と共に、幸せに暮らしてください』と。『役立たずな妻で申し訳ありませんでした』と。お前が子供を身ごもったなどと嘘をつかなければ、ニーナがあんな言葉を残すはずがないだろう!」
その瞬間、リンカの表情が強張った。
まるで悪戯を見破られた子供のように唇を噛み締め、目を泳がせる。
ニーナの置き手紙に、自分の嘘が記されているとは思ってもいなかったのだろう。
その動揺が、何より雄弁に物語っていた。
「ニーナのことで、散々僕を責め立ててくれたな……」
怒りに震える声が、低く漏れる。
「だが、ニーナを追い詰めた決定打は、お前だったじゃないか……!」
「違う、セルディオ! アタシは──」
最後まで言わせる気はなかった。
振り上げた手を、そのままリンカの頬へ叩きつける!
「きゃあっ!」
悲鳴とともに、リンカが床へ頽れた。
もう彼女の言い訳など、一言たりとも聞くつもりはなかった。




