第9話 加速する情熱、揺らぐ均衡
第9話 加速する情熱、揺らぐ均衡
キャンパスを鮮やかに縁取る銀杏並木は、いよいよ燃えるような黄金色へとその姿を変えていた。
木々から吹き抜ける風が冷たさを増し、吐き出す息がうっすらと白く染まり始めるこの季節、大学二年生の秋は、周囲から就職活動への足音が微かに聞こえ始める焦燥の時期でもあった。
だが、古い木製机が並ぶ講義室に座る春原昴の頭にあるのは、教授の退屈な板書ではなく直近に迫った『オータム・カップ』の冷徹なシミュレーションだけだった。
鮫島との因縁……。
俺はあいつに手も足も出ずに敗北し、それをきっかけとして格ゲーから離れることになった。
だが、今の自分には三十八歳まで地獄の泥水をすすりながら積み上げてきた最高峰の知識と、それを寸分の狂いもなく実行できる二十歳の瑞々しい肉体がある。
それでも、脳の最深部にある「予感」という名の防衛本能が、心臓を急かすような不穏な警告の鐘を鳴らし続けていた。
自分が過去に介入して歴史を塗り替えた歪みにより、鮫島の行動もまた、かつての記憶にある軌道から不気味に変容し始めている。
「……ねえ、昴。またそうやって、眉間にシワ寄せて難しい顔してる」
すぐ隣の席から、蘭がシャープペンの先でノートの端を小さく突きながら、心配そうに覗き込んできた。
今日の彼女は、首元まで包み込む厚手の白いタートルネックに、落ち着いたキャメル色のダッフルコートを羽織るという、いつもより少し大人びた装いを選んでいた。
「いや、少しオータム・カップの戦い方を考えてたんだ。……蘭、そっちの仕上がりはどうだ?」
「バッチリだよ。草野くんに何度もガチ戦の手伝いをしてもらって、対ケイン戦の勝率はついに八割を超えたよ」
そう言ってはにかむ蘭の瞳の奥には、かつての「お遊びの趣味」の域を完全に超越した、冷徹な勝負師としての鋭い光が宿り始めていた。
格闘ゲームにおける女性プレイヤーの絶対数がまだ極端に少なかった二〇〇九年というこの時代において、彼女はこのわずか二ヶ月間で、界隈の猛者たちが決して無視できないほどの手強い存在へと急成長を遂げつつあった。
放課後。
夕闇が迫り、筐体から漏れる電子音の地鳴りが響くいつものゲームセンターへ向かう道すがら、草野が普段のお調子者のトーンを消し去り、真剣な面持ちで重く口を開いた。
「おい、昴。小耳に挟んだんだが、鮫島が本気で勝ちにいくために呼び寄せた助っ人……マジで洒落にならないくらいヤバいらしいぞ」
「ヤバい?」
「ああ。都内の地下ゲーセンを中心に活動してる『鉄壁の重鎮』とか呼ばれてるガチの組織だ。裏で金を積まれて動き、地方大会の賞金総舐めにして回ってるような、文字通りの賞金稼ぎの連中らしい。十月に当たった影山なんかとは、格の次元が違うって話だ」
昴の足が、アスファルトの上で不意にピタリと止まる。
二〇〇九年当時、後に華々しいプロシーンが確立される直前の、最も混沌とした過渡期において、一部の地方都市を絶望と恐怖に陥れた冷酷な「職人集団」が確かに存在していた。
彼らは黎明期のネット掲示板すら凌駕する速度で最新のフレーム攻略情報を共有し、効率とシステム理論の暴力で相手を完膚なきまでに詰ませる、まさに血の通わない「勝利の『鉄壁』マシーン」だった。
「……上等だ。相手がどこの誰だろうと、俺たちが対面でやるべきことは何一つ変わらない」
昴は乾いた喉の奥で、自分を鼓舞するように静かに呟いた。
だが、握りしめた掌には、冷たい微かな汗がじっとりと滲んでいた。
未来の知識は決して万能の盾ではない。
画面の向こう側の敵もまた、日々進化し、こちらの裏をかこうと牙を研ぐ生身の人間なのだ。
煤けた自動ドアをくぐって店内に足を踏み入れた瞬間、そこには肌を刺すような異様な緊張感が漂っていた。
紫煙が薄暗く立ち込める、フロアで一番奥に位置する最新の液晶筐体。
そこには、会いたくもない男、鮫島が、見たこともない重苦しいオーラを纏った二人の男を左右に従えて不敵に座っていた。
「よお、不揃いのフィーチャーズ。待ち兼ねたぜ」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、鮫島が大きな体躯を揺らしながら立ち上がる。
その隣の椅子に深く腰掛けたままの、細身で神経質そうな男が、値踏みするような冷淡な視線で昴の全身を頭から爪先まで一瞥した。
「こいつが、例の生意気なアレン使いか。……鮫島、お前が騒ぎ立てていたほどの大物には見えないな。全体の立ち回りの動きに『無駄』が多そうだ」
「おい、てめえ……何様のつもりだ!」
我慢の限界を迎えた草野が凄まじい剣幕で詰め寄ろうとするが、昴がその胸元を片手で静かに制した。
「……あんたが、鮫島が金を払ってまで調達した新しい『武器』か」
「俺は御剣。お前が振りかざしているその、少しばかり未来の先を行っているだけの浅薄な『知識』……実戦という名の圧倒的な暴力で上書きしてやるよ」
御剣と呼ばれた男は、最後まで一度も筐体のレバーを握ることなく、ただ冷たく背中を向けて雑踏の中へと去っていった。
床を踏みしめる独特の歩き方、そして無駄のない凛とした佇まい。
人生の半分以上の時間をこの格闘ゲームの暗がりに捧げてきた昴の鋭い直感が、その本質を瞬時に見抜いていた。
あの男は、影山のような姑息な小細工には頼らない。
純粋な「読み」の精度と、針の穴を通すような「反応速度」だけで世界の頂点を支配する、真に選ばれた本物の強者だった。
宿敵の圧倒的なプレッシャーを前に、その日の練習は、いつになく重苦しい沈黙に支配されるものとなった。
閉店を告げる蛍の光が店内に流れる頃、先に帰路についた草野を見送り、昴と蘭は二人きりで冷え切った夜の駅前を並んで歩いていた。
「……昴、私、やっぱり少し怖いよ」
街灯の明かりの下で、蘭が絞り出すような小さな声でポツリと本音を漏らした。
「あの御剣って人……目を見ただけで、すごく嫌な予感が頭から離れない。鮫島も、今までとは背負っている気迫が全然違うし」
「……ああ。でも、絶対に大丈夫だ、蘭。俺が隣にいる限り、お前を負けさせるような真似はさせない」
昴は愛おしさと切なさが混ざり合う衝動のまま、蘭の小さく震える肩をそっと引き寄せた。
厚手のダッフルコート越しであるにもかかわらず、彼女が必死に堪えている不安の鼓動が、自分の腕を通して生々しく伝わってくる。
「蘭は、自分が思っている以上に、もう誰も手がつけられないくらい強くなってる。自分の努力に自信を持て。……それに、俺がずっとついてる。仮にどんな最悪の状況に追い込まれたとしても、俺が最後に絶対に捲ってやるから」
「……うん。信じてる」
蘭は諦めたように体の力を抜き、昴の広い胸のなかに小さく顔を埋めた。
オレンジ色の街灯の光が、寄り添う二人の影を長く、冷たいアスファルトの歩道へと伸ばしている。
かつて経験した最悪の未来では、自分たちは互いの実力の無さと弱さに耐えきれず、言葉の刃で激しく傷つけ合っていた。
だが今、この第二の人生においては、迫りくる強大な敵の暴風に対して、お互いを守る一つの強固な盾として重なり合っている。
「ねえ、昴。この過酷な大会が全部終わったら……ちゃんと、私にお祝いしてね」
蘭が胸元からふっと顔を上げ、街灯の光を反射して潤んだ瞳で昴を真っ直ぐに見つめた。
「お祝い?」
「うん。……二人きりで、どこか遠くの美味しいものでも食べに行こう。……プロとか、格ゲーの勝ち負けとか、そういう張り詰めたものを全部抜きにしてさ」
それは、彼女なりの精一杯の勇気と覚悟を込めた、実質的なデートの誘いだった。
二十歳の蘭が、赤くなる耳を隠すように伝えてきた健気な願い。
中身が三十八歳である大人の昴は、そのあまりの愛おしさと不器用な純粋さに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じていた。
「……約束する。最高の景色が見える場所を予約しておくよ」
「本当? ……やった。じゃあ、絶対に負けられないね」
はにかんだ蘭の極上の笑顔が、夜の冷たい空気の中で、大輪の美しい花が咲いたように鮮やかに輝いた。
運命の『オータム・カップ』の幕が上がるまで、あとわずか。
しかし昴はまだ、勝利への熱情の裏で、自分の中に静かに生じ始めていた奇妙な「ノイズ」の正体に気づいていなかった。
未来の因果律を強引に書き換えたことによる世界の歪みが、最も過酷で容赦のない形で、彼らの絆を試そうとしていることを。
そして、あの時の去り際に鮫島が言い残した最後の一言が、昴の記憶のどこにも存在しない「新しい残酷な歴史」の幕開けを告げる。
「——春原。お前の隣にいるその女……大会のあと、どうなっても知らねえぞ」
逃れられない巨大な暗雲が、昴達の頭上を完全に覆い尽くそうとしていた。




