第十話 深まる疑念、決戦の幕開け
第十話 深まる疑念、決戦の幕開け
十一月末の日曜日。
空は低く垂れ込めた重苦しい鈍色の雲に一面を覆われていた。
時折混じる細かな雨が、本格的な冬の到来を確信させる冷たさで街のコンクリートを濡らしていく。
地域最大級の規模を誇る格闘ゲーム大会『オータム・カップ』。
その会場となる古びた市民ホールの前には、十月に開催されたあの地元の小さな大会の時とは比較にならないほどの群衆が詰めかけていた。
熱気を含んだ参加者たちの息が白く煙っている。
入り口付近は入場を待つプレイヤーや観客の熱気で異様なほどごった返していた。
「……空気が、完全に違うな」
フューチャーズのチームメイトである草野が、隣でポツリと声を漏らした。
その声は心なしか緊張で硬くなっており、拳を強く握りしめている。
会場内に一歩足を踏み入れると、そこには独特の熱気が漂っていた。
それに相反するようなピリピリとした殺気が空間に充満している。
十月の大会が「地元のゲームセンターの延長線上にある熱い祭り」だったとするなら、今回の規模と雰囲気は完全に「戦場」そのものだった。
遠征勢と呼ばれる他県の強豪たちが、この場所に殺到している。
あるいはネットの掲示板や黎明期の動画サイトで名を馳せる有名プレイヤーたちが、莫大な賞金と最高峰の名声を求めて火花を散らしていた。
「昴、顔色が悪いよ? 本当に大丈夫?」
蘭が心配そうに横から覗き込んでくる。
今日の彼女は、大会への並々ならぬ気合を象徴するように、いつもの長い髪を高い位置でポニーテールに結い上げていた。
動きやすいジャージ姿に身を包んだ彼女が動くたびに、アクティブな印象の中に女の子らしい繊細な雰囲気が垣間見える。
「……ああ。少し、この会場の熱気に当てられただけだ。心配ないよ、体調は万全だ」
昴は努めて冷静を装い、いつものように穏やかな微笑みを返した。
だが、その内面では言いようのない焦燥感が渦巻いている。
胸をかきむしるような底知れぬ不安が、泥泥と足元から這い上がってくるようだった。
――未来の知識があれば、俺は無敵だ。
タイムリープを経験し、この二〇〇九年という時代において、これから構築されるはずの最先端の戦術データを全て頭に叩き込んできた。
確定反撃のタイミングも、キャラクターごとのフレーム数も完璧に把握している。
自分の頭脳にあるのは、十数年分の格闘ゲームの歴史そのものだ。
そう信じて疑わなかった。
だが、会場の最奥に目を向けた瞬間、その自信が揺らぐ。
特等席のような一角に傲然と陣取る『チーム・鮫島』の姿を視界に捉えた瞬間、その絶対的な自信にピキリと不穏なヒビが入った。
鮫島の隣に座り、不敵な笑みを浮かべる御剣。
そして、もう一人。
先日の鮫島襲来の時にいた男、だがかつての昴の記憶の中にいない三人目の男がそこにいた。
その見知らぬ男は、筐体の横に最新のノートパソコンを開いている。
目まぐるしく変わる画面を見つめながら、何らかのデータを解析しているようだった。
二〇〇九年という、まだ動画配信すら黎明期であり、ガラケーでの情報交換が主流だったこの時代において、それは異質だった。
対戦相手のフレームデータや手癖をデジタルに分析し、統計的に戦略を組み立てるようなプレイヤーは、ごく一握りの先駆者だけだったはずだ。
(歴史が、俺の知らないスピードで加速しているのか……?)
昴の背中を、冷たい汗が伝い落ちていく。
自分が過去を変えようと動き出したことで、バタフライエフェクトが生じたのかもしれない。
未来の技術や戦術の到来が、急激に早まっているのではないか。
そんな根源的な恐れが頭をよぎった。
もし未来の知識という最大の優位性が失われたら、自分には何が残るというのだろうか。
その思考は、暗い深淵へと昴を型落とさせていく。
しかし、感傷に浸る時間は一秒たりとも与えられなかった。
トーナメントは予定通りの時刻に非情にも開始される。
先日の大会の結果、フューチャーズとチーム鮫島がこの大会の出場権を得た。
だが決勝では、鮫島は出ずに、別の選手が参戦し、結局は俺たちが優勝している。
フューチャーズは一回戦、二回戦と、周囲の予想を裏切る形で順当に勝ち進んでいった。
草野の操るリュウは、以前の無鉄砲さを完全に脱却している。
昴の徹底的な指導によって「我慢」の立ち回りを完全に身につけていた。
相手の焦りをじっと待ち、隙を確実に重いコンボで狩る。
その立ち回りには、かつての彼からは想像もできないほどの確かな安定感が漂っていた。
ベースとなるチームの実力が底上げされる中で、何よりも目立っていたのはやはり蘭だった。
彼女の操るブランは、初戦から会場中の注目を一身に集めていく。
野生的な動きと圧倒的な反応速度が、格上と目されていた対戦相手を次々と翻弄していった。
「おい、あのブラン使いの女の子、めちゃくちゃ上手いぞ」
「動きが尋常じゃない。それに、近くで見るとすごく可愛いな……。どこのゲーセンの所属だ?」
ギャラリーから上がる声は、純粋なプレイへの称賛だけでは終わらなかった。
まだ画質の荒いカメラ付き携帯電話を無断で向ける者が現れる。
蘭の許可も得ずに、至近距離から無遠慮なフラッシュを焚く輩も現れ始めていた。
蘭が勝利を収めてステージから戻ってくるたび、不快な視線が彼女に注がれる。
周囲の男たちの下卑た視線が、彼女の健康的な四肢に、そして無邪気な笑顔にまとわりつくように突き刺さっていた。
昴は、胸の奥がチリチリと焼け付くような、激しい不快感に襲われた。
(……独占欲か。情けないな。中身は三十八歳のおっさんだっていうのに、何を取り乱しているんだ)
自嘲気味に思考を遮断しようとするが、脳内のノイズは一向に止まらない。
未来の記憶の中で、蘭は数年後、アメリカへと渡ることになっている。
そして格闘ゲーム界の頂点へと、一気に駆け上がっていった。
それは同時に、自分のような凡人の手の届かない世界の住人になってしまったことを意味している。
今の彼女がこうして注目を浴び、その圧倒的な才能を開花させればさせるほど、また自分の元から遠く離れていってしまうのではないか。
そんな、かつて味わった孤立への根源的な恐怖が暗い首をもたげる。
蘭を失いたくないという身勝手な想いが、昴の心を激しくかき乱していた。
「……次、準決勝を開始します! リベンジャーズ、Aコートへお集まりください!」
館内に響き渡る実況の拡声器の声に、昴はハッと我に返った。
準決勝の相手は、鮫島の息がかかった別動隊とも言えるチームだった。
都内の有名なゲームセンターからわざわざ賞金稼ぎのために呼ばれた強豪たちだ。
彼らは対戦相手の心を徹底的に折る「狩り」の専門家として、裏社会でも恐れられていた。
「蘭、ここは俺が先鋒で出る」
昴は次に出ようとした蘭の手をそっと制し、自ら筐体の前に座った。
今の自分には、何よりも冷静さが必要だった。
この溢れんばかりの感情のノイズを、格ゲーの勝利という明確な結果でねじ伏せたかったのだ。
目の前の画面に集中すれば、余計なことを考えずに済むはずだった。
レバーを握る手に、自然と力がこもる。
画面に映し出される『対戦開始』の文字。
相手の使用キャラクターは、トリッキーな空中機動を特徴とする『バイカウ』だった。
高火力の技と変幻自在の突進で、数々のプレイヤーを葬ってきたキャラクターだ。
昴は、未来の二〇一〇年代後半になってようやく確立されたはずの「対バイカウ用確定反撃」を完璧なタイミングで繰り出す――そのはずだった。
「っ……!? 浅い!」
昴の操るアレンの拳が、わずかに空を切った。
信じられないことに、相手のプレイヤーは二〇〇九年の常識ではあり得ない動きを見せる。
ごくわずかなフレームの遅れを利用した「バックステップによる硬直消し」を使い、昴の渾身の差し返しを誘っていたのだ。
予測していた未来のデータが、目の前で書き換えられていく。
「ははっ、どうした? これが噂の『未来の知識』の限界か?」
対面に座るプレイヤーが、レバーを乱暴に叩きながらせせら笑う。
その不敵な言葉は、まるで昴の正体を見透かしているかのように脳内に突き刺さった。
昴の背中に、本物の冷や汗が大量に流れていく。
相手の動きは、確かにこの時代の水準を遥かに超えていた。
いや、それ以上に問題なのは、自分自身の操作がいつになく乱れていることだった。
背後にいる蘭の視線、周囲の雑音、戦う目的すら見失いかねない独占欲。
それらを気にするあまり、指先の精密な一瞬のコントロールが完全に失われている。
わずか一フレームのズレが、命取りになる世界だった。
画面の中で、アレンの体力が面白いように削られていく。
このままでは確実に負ける。
かつての敗北のトラウマが鮮明に蘇り、目の前が暗くなりかけたその時だった。
「昴! 集中して! あなたなら絶対に勝てるから!」
背後から、客席の騒音を突き破るような蘭の叫び声が聞こえた。
その透き通った声が一瞬にして脳の芯まで駆け巡る。
昴の視界を覆っていた暗い霧を、一気にクリアにしていった。
張り詰めていた心の糸が、別の意味で強く結び直される。
(……そうだ。何が三十八歳だ。何が未来の知識だ。俺がここで格好をつけて負ければ、蘭を、大切な仲間を、今度こそ守れないじゃないか!)
昴は深く、長く息を吐き、瞬時に思考を切り替えた。
未来の知識に頼るのをやめる。
三十八歳というプライドも、彼女を失うかもしれないという未来の恐怖も、すべて一度頭の脇へと投げ捨てた。
今、この瞬間、目の前の筐体に向き合っている一人の格闘ゲーマーとして立ち上がる。
ただ目の前の敵を叩き潰すことだけに、脳の全神経を集中させた。
――ゼロフレーム・キャンセル。
極限の集中状態。
格闘ゲーマーたちの間で「ゾーン」と呼ばれる領域が生み出した、神速の連撃だった。
アレンの放った超必殺技の拳が、バイカウの強固な装甲を文字通り粉砕する。
凄まじい衝撃波が画面を揺らした。
驚愕に目を見開く対面のプレイヤー。
一度流れを掴んでしまえば、そこからは一方的な蹂躙だった。
昴は完全に覚醒し、研ぎ澄まされた精度で技を叩き込んでいく。
そのまま相手チームの三人抜きを成し遂げ、圧倒的な強さで決勝進出をもぎ取った。
会場が割れんばかりの歓声に包まれる。
しかし、勝利の余韻に浸る暇など、彼らには一秒たりとも残されていなかった。
会場の反対側、Bコートに目を向ける。
そこでは、チーム・鮫島の本隊が他を寄せ付けない圧倒的な力で勝ち上がってきていた。
特に、御剣の操る『ベガス』のファイトスタイルは異常そのものだった。
それは、かつてのどの時代、どのコミュニティにも存在しなかった戦術だ。
冷徹なまでの最適解を相手に押し付け続ける、まさに「悪魔の立ち回り」と呼ぶにふさわしいものだった。
美しさすら感じさせるその効率的なハメ技の前に、対戦相手は何もできずに沈んでいく。
完璧に計算されたフレーム管理の前に、誰もが絶望を浮かべていた。
「……強い。強すぎる。あんなの、どうやって崩せばいいんだよ」
草野がガチガチと歯を鳴らし、声を震わせる。
蘭もまた、自分の手の震えを周囲に隠そうとしていた。
昴のジャージの袖を強く、引きちぎらんばかりの力で掴んでいる。
「昴。あのベガス、一体何なの……? 全然、どこを探しても隙が見当たらないよ」
「……ああ。あれはただのゲームじゃない。システムをミリ単位で熟知した、プロの動きだ。だが、必ず穴はある」
昴は蘭の手の上に、自分の掌をそっと重ねた。
彼女の伝えてくる確かな体温が伝わってくる。
そのかすかな震えが、少しだけ自分の荒んだ心を落ち着かせてくれるのを感じていた。
彼女を守るためなら、どんな怪物相手でも戦える。
胸の奥で、静かな闘志が炎となって燃え上がっていた。
その時だった。
対戦台の椅子からゆっくりと立ち上がった鮫島が、こちらへと視線を向けた。
そして不気味に口角を釣り上げる。
その冷酷な視線は、プレイヤーである昴には向いていなかった。
その隣に身を寄せている蘭へと、明確に向けられていた。
鮫島は一歩前に踏み出し、周囲の喧騒を掻き消すような大声で言い放つ。
「おい、飯森蘭。……お前、どうだ? 俺のチームに来る気はねえか? お前みたいな極上の『素材』が、こんなところにいる落ちこぼれたちと一緒に燻っているのは、あまりにももったいねえ。……この決勝戦が終わったら、裏でじっくりと特待生の話をしようじゃねえか」
会場中に響き渡るスカウト。
それは、あまりにも卑劣で効果的な精神的揺さぶりだった。
それを聞いた瞬間、蘭の顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。
彼女の美しい唇が小刻みに震えている。
そして、周囲のギャラリーたちの視線が一変した。
一瞬にして好奇と邪推の目となって、一斉に蘭の華奢な身体へと突き刺さる。
「……ふざけるな、アイツ」
昴は歯を食いしばり、低い声で呪詛のように呟いた。
だが、その激しい怒りは、挑発してきた鮫島に対してだけのものではなかった。
そんな安っぽい言葉に動揺してしまった自分自身に向けられている。
周囲の視線に一瞬でも怯え、蘭を完全に安心させてやれないでいる自分自身の不甲斐なさにも向けられていた。
握りしめた拳から、爪が皮膚に食い込むほどの痛みが走る。
運命の決勝戦。
フィーチャーズ対チーム・鮫島。
ステージの上で対峙するのは、かつての人生で自分を徹底的に破壊した因縁の男だった。
そしてタイムリープした今の自分を激しく揺さぶる、記憶にない「未知の未来」そのものだった。
全ての因縁が、この一本の対戦台に集約されようとしている。
外を吹き荒れる冷たい冬の嵐が、今、熱狂と狂気に満ちた会場全体を完全に包み込んでいた。




