第十一話 ノイズの正体、砕け散る確信
第十一話 ノイズの正体、砕け散る確信
会場の喧騒が、遠い海の鳴動のように深く耳の奥で響いていた。
『オータム・カップ』決勝戦。
実況のボルテージは既に最高潮に達しており、数百人の観衆が二つのチームを取り囲んでいる。
熱気と興奮が、狭い市民ホールの空間を限界まで歪ませていた。
対峙するのは、破竹の勢いで勝ち上がってきたフューチャーズと、絶対的な王者の風格を漂わせるチーム・鮫島。
互いのプライドと野心が激突する、運命の火蓋が切って落とされようとしていた。
「昴、大丈夫……だよね?」
蘭が隣で、不安そうに昴の顔を覗き込んできた。
その瞳は、いつもの天真爛漫な輝きを失い、怯えたように揺れている。
「……ああ。いつも通りだ。何も問題はないよ」
短く答える昴の声は、自分でも驚くほど硬く冷え切っていた。
先ほど鮫島が蘭に向けた、あまりにも無遠慮なスカウトの言葉。
それは、会場にいる無数の男たちの欲望を代弁するかのようなノイズとなっていた。
今も会場の隅々から、値踏みするような下卑た視線となって蘭の身体に突き刺さっている。
彼女が注目を浴びれば浴びるほど、自分の手から擦り抜けて遠くへ行ってしまうのではないか。
そんな恐怖が、昴の胸を鋭く抉っていた。
(蘭は俺のものだ。誰にも渡さない)
三十八歳の理性を一瞬で焼き切るような、醜く烈しい独占欲。
それが「未来を知る強者」としての精神的な余裕を、じりじりと確実に蝕んでいた。
「先方、私が出る!」
「えっ?」
「私にだって意地があるんだからね……」
「決勝戦、開始!」
先鋒戦。
そうして蘭は周囲の静止を振り切るようにして、自ら前に出た。
一刻も早く、この場を支配する不穏な空気を終わらせたかったからだ。
相手の先鋒は、十月の大会で対戦した影山ではない。
鮫島がこの決戦のために新たに用意した、寡黙な佇まいのタカシ使いの青年だった。
パソコンをさっきまで開いていた青年の瞳には、感情の起伏が一切見受けられない。
蘭の指が、筐体のボタンの上で激しく弾けた。
画面の中のブランの動きは戦慄するほど鋭かった。
蘭への執着をそのまま暴力的な力へと変換するかのように、怒濤のラッシュを仕掛けていく。
間合いを詰め、相手に息をすることすら許さない苛烈な攻めを展開した。
「……やれる!」
蘭は、昴から教わった、一フレームの隙もない完璧なキャンセルコンボを繰り出す。
青年は何もできず、ただ画面端で防戦一方となるしかなかった。
「K.O.!」
一分足らずの圧倒的な圧勝だった。
会場からは地鳴りのような歓声が沸き起こる。
だが勝利してもなお、いやな空気は続いている。
それどころか、背後の客席から聞こえてくる無責任な野次が耳にこびりついて離れない。
「いや、あの実力ならもっとマシな男がいるだろ」
「蘭ちゃん、すごい」
そんな言葉が、蘭と昴の鼓膜を不快に揺らし続けていた。
次鋒戦。
蘭は続けて静かに筐体の前に座る。
対戦相手の席に座ったのは、あの御剣だった。
鮫島の絶対的な懐刀であり、冷徹なまでに勝ちを計算する男。
のちの時代における「プロ」の先駆けのような、徹底した効率主義の塊だった。
「……君のブラン、面白いけど穴だらけだ」
御剣の冷ややかな言葉通り、試合は残酷な展開をたどることになる。
蘭の持ち味である野生的な猛攻は、ベガスの圧倒的な守りの前に、ことごとく沈黙させられた。
鉄壁の対空と、完璧にコントロールされた間合い管理。
蘭の焦りが、画面の中で無防備な大技を繰り出させてしまう。
御剣はそれを、鼻で笑うような最小限のフレーム移動で回避した。
そして、確定反撃として致命的なまでの連続技を叩き込んでいく。
「……っ、あ……」
蘭の操作するブランの体力が、一瞬で消し飛んだ。
彼女は震える指でレバーを握り直すが、実力差は誰の目にも明白だった。
二ラウンド目、御剣の立ち回りはさらに残酷さを増していく。
トドメを刺せる場面であるにもかかわらず、わざと手を緩めるのだ。
蘭の手癖を執拗に暴き、それを観衆の前で晒し上げるような嫌らしい攻めを繰り返した。
それは格闘ゲームの試合ではなく、彼女の無力さを衆目の前で処刑する儀式に近かった。
「蘭……!」
昴は耐えかねて叫びそうになった。
だが、隣の筐体に座る鮫島が、その動きを不敵な笑みで制した。
「見ろよ、春原。お前の隣にいるから、あいつはああやって恥をかくんだ。実力のない奴が、お前の知識のオマケで勝たせてもらってるだけだって、皆に分からせてやってるのさ」
鮫島の言葉が、呪いのように昴の脳内に染み渡っていく。
蘭は、なす術もなく惨敗した。
筐体から立ち上がる彼女の美しい瞳には、今にも零れ落ちそうな大粒の涙が溜まっている。
「ごめん、昴……私、何もできなかった……」
傷つき、肩を落とす彼女を支えようと、昴は咄嗟に手を伸ばした。
しかし、蘭はその手を、微かに避けるような仕草を見せた。
拒絶された。
その確信が、昴の心臓を極寒の氷で凍りつかせていった。
中堅戦、そして大将戦。
チーム・フューチャーズは草野が獅子奮迅の奮闘を見せる。
しかし、覚醒した御剣の冷徹な立ち回りの前に、あと一歩が届かなかった。
草野もまた力尽き、ついに大将である昴を残すのみとなった。
筐体を挟んで、昴と御剣の視線が激突する。
「春原昴。お前は強い。だが、お前は自分自身を全く信じていない」
御剣が冷たく言い放った言葉は、昴の痛いところを正確に突いていた。
対戦開始の合図が響き渡る。
昴のアレンが、御剣のベガスに向かって猛然と襲いかかった。
だが、今の昴の脳裏には、先ほど蘭が泣いていた顔が張り付いて離れない。
自分を避けた、あの冷たい手の感触が、濁流のように思考を支配していた。
(負けられない。ここで負けたら、蘭は完全に俺の元から去ってしまう。俺の人生は、またあの暗闇に戻るんだ!)
その必死すぎる執着が、指先に致命的な淀みを生み出していた。
未来の知識という名の過去のデータばかりを頼るあまり、目の前にいる敵が見えていない。
相手の「今、この瞬間の意志」を、昴の瞳は完全に捉え損ねていた。
昴が放った会心の迎撃の拳を、御剣はまるで最初から予期していたかのように完璧なタイミングで回避した。
「そこだ」
鈍い打撃音が響き、アレンの体力が一気に半分以上削り取られた。
「なっ……何故だ、今のタイミングで落とされるはずが……」
「お前の動きは、ただのマニュアル通りだ。自分の意志がない技に、俺が負けるはずがない」
御剣の冷酷な宣言とともに、トドメの一撃がアレンの身体を深く貫いた。
「K.O.!」
会場を包み込む、耳を劈くような静寂。
そして、その静寂を切り裂く鮫島の品性のない哄笑。
昴は、自分が負けたという事実がどうしても信じられなかった。
未来を知り、最強の技術を持ち、二十歳の健康な体を手に入れたはずの自分が、なぜ。
一度目の人生と全く同じように、自分を壊した鮫島たちの前で、無様に膝を屈してしまったのだ。
「……しょせん、お前はこの程度だ。春原」
鮫島が勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべ、上から見下ろしてくる。
その声すら、今の昴の耳にはまともに届かなかった。
昴は魂を抜かれたように、椅子から一歩も動くことができなかった。
視界の隅で、蘭が草野に肩を抱かれ、促されるように会場の外へと向かっていくのが見えた。
すぐに追いかけなければならない。
自分の不甲斐なさを謝らなければならない。
頭では分かっているのに、どうしても足に力が入らなかった。
絶望が、彼の全身を床に縫い付けていた。
――その時だった。
ホールの入り口から、静かだが、会場中の全員の耳に届くような通る声が響き渡った。
「……随分と、志の低い喧嘩をしてるな」
その場の全プレイヤーが、声の主へと一斉に注目した。
キャップを深く被り、地味なグレーのパーカーを羽織った一人の男。
だが、その男が放つ圧倒的な存在感は、会場にいる数百人の誰よりも重く、鋭かった。
「ま……松原猛……!?」
誰かが悲鳴のような声を上げた。
格ゲー界の生きる伝説。
黎明期からのキャリアを持ち、常に頂点に君臨し続ける、全プレイヤーの憧憬の的。
未来において「プロ」という概念そのものを創り上げた男が、そこに立っていた。
松原は真っ直ぐに、歩行を阻む人混みを割って昴の元へと歩み寄ってきた。
そして呆然とする昴の目を、射抜くような鋭い視線で見すえた。
「君か。先の残影ばかりを追って、今という瞬間をドブに捨てている愚か者は」
昴の心臓が、痛いほど大きく跳ね上がった。
この男には、自分のタイムリープも、心の奥底にある醜い欺瞞も、すべて見えているのだろうか。
二〇〇九年、冬の足音がすぐそこまで迫る中、敗北した昴の前に、最大の壁が現れた。
それは同時に、彼にとっての新たな道標となる存在だった。
物語は、本当の意味での再生へと向かい、今ここから静かに動き始める。




