第7話 開幕、運命のビッグ・トップ
第7話 開幕、運命のビッグ・トップ
秋の冷え込みが一段と強まり、吐く息が白く染まる日曜日の朝。
昴たちは隣町にある『ビッグ・トップ』の前に立っていた。
まだ開場して間もないというのに、重い鉄扉の隙間からは、既に数百人の人間が放つ異様な熱気が肌を刺すように漏れ聞こえてくる。
二〇〇九年。
世界的にはまだ『プロゲーマー』という言葉すら定着しておらず、世間からは「たかがゲーム」と一蹴されていた時代。
しかし、薄暗いこの空間に集まった者たちの目には、間違いなく、一つの競技に自らの人生と青春のすべてを懸ける純粋な「狂熱」が渦巻いていた。
「……うわ、すごい人。昴、私、こんな大きな大会、初めて……」
蘭が圧倒されたように息を呑み、不安げに周囲を見渡す。
広い会場内には『アイアンファイターズ4』の業務用筐体が二十台以上も背中合わせにズラリと並び、天井の大型スピーカーから流れる実況の声が、鼓膜を激しく震わせていた。
当時の格ゲー大会特有の、濃密な熱気とタバコの煙、そして男たちの汗が混じり合った、胸がむせ返るような独特の空気が空間を支配している。
「大丈夫だ。練習通りにやればいい。……蘭、隣にいたらいい」
昴は蘭の強張った手をそっと握り、自分の側へと引き寄せた。
蘭の指先は氷のように冷たくなっていたが、昴の手を力強く握り返すその掌には、逃げ出さないという確かな意志が宿っていた。
「おいおい、俺の存在も忘れてもらっちゃ困るぜ」
草野が緊張をほぐすように苦笑しながら、愛用のリュックサックを肩にかけ直した。
「俺たちのチーム名は『フューチャーズ』だろ?名前負けしないように、まずは一暴れしてやろうぜ」
受付でエントリーを済ませた三人は、壁際に貼り出された巨大なトーナメント表を確認した。
予選ブロックの最上段には、一際大きなマジックの文字で書かれた『チーム・鮫島』の名が鎮座している。
そしてその隣には昨日顔を合わせた影山が率いる『チーム・影山』があった。
「……あいつら、チームを分けてきやがった。メンバーはあいつらか……」
草野が鋭い視線を向け、顎で示した先に、黒いパーカーを羽織った鮫島たちがいた。こちらの視線に気づいた鮫島は、昴たちの姿を認めると、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら、親指を首の横に滑らせる挑発的な仕草を見せた。
トーナメントは、一回戦から悲鳴と歓声が交錯する波乱の連続だった。
ルールは三対三の勝ち抜き戦。
先鋒、中堅、大将の順に戦い、誰か一人が三人抜き(三タテ)を達成すれば、その時点でチームの勝利が決まる過酷なシステムだ。
「第一試合、フューチャーズ対ブラック・シャークス! 選手の方は前へ出てきてください!」
大音量のスピーカーから実況の声が容赦なく響き渡る。
「昴、ここは俺に先鋒を行かせてくれ。まずは俺が露払いをして、チームに勢いをつけてやる」
草野が真剣な眼差しで志願した。
昴は深く頷き、頼もしくなった友人の背中を強く叩く。
「行ってこい、光彦。お前の使いこなすケインなら、今のレベルの連中には絶対に負けない」
草野は対戦筐体の硬い椅子に腰を下ろすと、レバーを握り締め、深く長い息を吐いた。
対峙する相手は、この界隈では地元の強豪として名が知られているチームの先鋒だ。
画面に『READY GO!』の文字がフラッシュした合図とともに、草野のケインが鋭く動き出す。
かつての草野であれば、焦りから間合いを無視した無駄な飛び道具を連発し、自滅していただろう。
だが、未来の知識を持つ昴との地獄の特訓を経て、現在の彼のプレイには、驚くほどの「静寂」が宿っていた。
相手の動きをじっと観察し、ほんの僅かな隙が生まれる決定的な一瞬まで、限界まで我慢を重ねる。
「……今だ!」
焦れた相手が放った強引な飛び込みに対し、草野は寸分の狂いもない完璧なタイミングで対空の昇虎拳を叩き込んだ。
「よっしゃあ!」
コマンド入力の小気味よい破裂音とともに、会場から大きな歓声が上がる。
完全に流れを掴んだ草野は、動揺する相手の二人目、さらには三人目をも容赦なく圧倒し、一戦目にして見事な三人抜きを成し遂げてみせた。
「やったね、草野くん!」
スい@テージから戻ってきた草野を、蘭が満面の笑みでハイタッチを交わして迎える。
「ふぅ、心臓が止まるかと思ったぜ。……よし、次は蘭の番だな」
続く二回戦。
対戦相手は、わざわざ遠方から遠征してきたという、煮詰まった動きをするガチプレイヤーたちだった。
先鋒として再び出陣した草野が意地で一人を叩き落としたものの、対策を練ってきた二人目の猛者に敗北を喫する。
不穏な空気が流れる中、中堅として蘭がゆっくりと前に出た。
「蘭、リラックスだ。相手は君が使う『ブラン』の、本当の恐ろしさを知らない。徹底的に翻弄してやれ」
昴が耳元で静かに囁く。
蘭は小さく一度だけ頷き、画面の前に座ってコントロールパネルに手を置いた。
蘭の操るブランの動きは、まさに予測不能な野性そのものだった。
画面の端から端まで所狭しと跳ね回り、常識では考えられない角度から奇襲を仕掛けていく。
対面に座る歴戦のプレイヤーは、見たこともない変則的な立ち回りに、明らかに困惑の色を隠せなくなっていた。
「な、なんだこの女……動きがムチャクチャじゃねえか!」
だが、蘭の真骨頂は、その野生味溢れる荒々しさだけではなかった。
彼女の頭脳には、昴によって徹底的に叩き込まれた「未来のフレーム理論」が刻まれている。
一見すると無茶苦茶で大雑把な大技に見えて、実はすべての着地位置が、相手から「反撃を絶対に受けない絶妙な距離」になるよう精密に調整されていた。
苛立ちを募らせた相手が痺れを切らし、無理に手を出した瞬間、蘭のブランが激しい電撃を纏って強烈なカウンターを食らわせる。
「K.O.!」
実況の絶叫が会場に響く。
蘭はその勢いのまま鮮やかに二人を抜き去り、最後の大将戦も息を呑むような接戦の末に勝利を収めた。
筐体から立ち上がった蘭の顔は、激戦による高揚感で林檎のように赤く染まっている。
周囲で見物していたギャラリーたちからも、「あの女の子、一体誰だ?」「とんでもねえブラン使いが現れたぞ」と、驚きを隠せないどよめきが急速に広がっていった。
お
「……昴、私……勝てたよ!」
蘭は弾けたような笑顔で昴に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「ああ、完璧な立ち回りだったよ、蘭」
昴は愛おしさを込め、彼女の細い身体をしっかりと受け止めた。
蘭の激しい心臓の鼓動が、衣服を通して自分の胸にまでダイレクトに伝わってくる。
その心地よい熱は、勝利の喜びだけでなく、自分に向けられた純粋で深い信頼の証そのものだった。
しかし、その微笑ましい光景を、離れた場所から鮫島が忌々しそうに睨みつけていた。
「チッ……。女のくせに調子に乗りやがって。……影山、次だ。あいつらの鼻を根元からへし折ってやれ」
「分かってますよ、鮫島さん。……まずは、あの調子に乗ってる小娘から、泣いて許しを請うまでボコボコにしてやりますよ」
影山が首を傾げ、不気味な音を立てて指の関節を鳴らした。
そして迎えた準決勝。
フューチャーズの前に高い壁として立ちはだかったのは、『チーム・影山』だった。
先鋒戦、並々ならぬ闘志を燃やす草野が再び筐体へ挑む。
対する相手の先鋒は、あの因縁の影山だった。
影山が選択した使用キャラクターは、徹底的な防御と遠距離攻撃に特化した『ヨガシム』だ。
画面の端から長い手足を伸ばして決して近づかせず、じわじわと体力を削りながら相手の焦りを誘う、極めて陰湿な戦法をする。
「……くそっ、攻撃が届かねえ……!」
間合いを詰められない草野の焦燥感が、レバー捌きの乱れとなってプレイに露骨に表れ始めた。
影山は対面で口の端を醜く歪め、執拗に草野のケインをなぶるように、いたぶるような牽制攻撃を何度も重ねていく。
「ほらほら、どうした? さっきまでの威勢はどこに行っちまったんだよ」
結局、自分のペースを完全に乱された草野は、一ラウンドももぎ取ることができずに完敗した。
「……すまねえ、昴。アイツ、マジで性格が腐ってやがる……」
完全に自信をへし折られ、肩を落として戻ってきた草野に対し、昴は静かに声をかけた。
「気にするな。奴の狙いは、精神を揺さぶって俺たちのメンタルを崩すことだ。……蘭、行けるか?」
「……うん。私、頑張る」
先ほどの試合展開に怯えつつも、蘭は小刻みに震える足で前へと進み出た。
だが、影山が仕掛けた本当の罠は、より残酷で陰湿なものだった。
次鋒戦、蘭対影山。
試合が始まるや否や、影山は蘭が女性であることを周囲に聞こえるような大声で公然と馬鹿にする発言を繰り返した。
「お嬢ちゃん、おままごとはお家でやってな。……そんな汚くて醜い野獣なんか使ってて、恥ずかしくないのかよ?」
「……っ!」
精神的な揺さぶりを受け、蘭の繊細な動きが目に見えて硬くなっていく。
影山はわざとトドメの一撃を刺そうとせず、蘭の体力をギリギリまで削り落とした状態のまま、彼女の操作するキャラを画面端に追い詰めた。
そして、その場で自らのキャラクターを執拗にしゃがませる屈伸運動を何度も繰り返した。
それはいわゆる、格ゲー界において最も嫌われ、禁忌とされる最大級の挑発行為(屈伸)だった。
「やめて……お願いだから……」
精神的に追い詰められた蘭の大きな瞳に、大粒の涙が浮かび上がる。
あまりに非道なプレイに、観客席からは一斉に激しいブーイングが沸き起こるが、影山はどこ吹く風と鼻で笑っていた。
結局、蘭はプライドも精神もズタズタに引き裂かれた状態で、無惨な敗北を喫した。
フラフラとした足取りで戻ってきた蘭は、昴の腕の中に倒れ込み、声を殺して激しく泣き出した。
「ごめんなさい……昴、私、怖くて、もう……」
激しく震える蘭の細い肩を抱きしめた瞬間、昴の中で、かつてないほどの烈火のごとき激しい怒りが爆発した。
しかし、精神年齢三十八歳である大人の理性が、その荒れ狂う怒りを、どこまでも冷徹で鋭利な「闘志」へと瞬時に変換していく。
「……蘭。もういい、本当によく頑張った。……あとは、すべて俺に任せろ」
昴は優しく蘭を草野に託し、衣服を翻してゆっくりと筐体の椅子に腰を下ろした。
対面に座る影山が、こちらの怒りを嘲笑うかのように、ヘラヘラとした薄汚い笑みを浮かべて見つめてくる。
「次は自称天才くんの出番か。……あのお嬢ちゃんみたいに、格の違いってやつを教えて泣かせてやろうか?」
昴は挑発に対して一言も発さず、ただ静かに、そしてレバーを握り締めた。
画面の中で出番を待つアレンが、プレイヤーである昴が放つ圧倒的な殺気に呼応するかのように、鋭く冷徹な構えを見せる。
二〇〇九年、秋。
未来の過酷な環境から時間を超えてやってきた最強の男が、ついにその牙を剥く。
「……影山。お前、自分が誰を怒らせたのか、その身に一生消えない恐怖として刻んでおけ」
運命の準決勝、すべてを駆逐する昴の戦いが今、静かに幕を開けた。




