第6話 貪欲な修練と顕現する悪意
第6話 貪欲な修練と顕現する悪意
大会が近づく。
夕暮れの早まりとともに、商店街の街路樹は燃えるような鮮やかな朱に染まっていた。
大学の講義が終わると、昴たちの足は吸い寄せられるように、いつものゲームセンターへと向かっていた。
地域最大規模の大会『ビッグ・トップ』開催まで、残り僅か。
自動ドアをくぐった瞬間に押し寄せるのは、大会を控えたプレイヤーたちが放つ、肌を刺すような熱気と焦燥の渦だった。
筐体が並ぶ熱帯魚の群れのような空間に、レバーを叩く硬質な音が激しく響き、勝利の歓喜と敗北の重苦しい舌打ちが交錯する。
その喧騒の中心、一段と人だかりができている場所に、昴の操るアレンはいた。
「……信じられねえ。また二十連勝かよ。化け物かよ、あいつ」
筐体を取り囲む即席のギャラリーから、感嘆と、どこか畏怖の入り混じった吐息が漏れる。
昴の操るキャラクター『アレン』の動きは、もはや二〇〇九年という時代の戦術水準を遥かに超越していた。
対戦相手がどれほど完璧な攻めを仕掛けようとしても、まるで未来のフレームを予見しているかのように先回りする。
無駄を極限まで削ぎ落とした最小限の動きだけで、文字通り最大の結果を叩き出していた。
「昴、そろそろ一回休憩しなよ。指、本当に壊れちゃうよ」
張り詰めた空気を和らげるように、蘭が心配そうな顔で冷たい缶コーヒーを差し出した。
「ああ、ありがとう、蘭。……でも、まだ足りないんだ。感覚を完全に『今の体』に馴染ませておかないと、本番の一瞬の遅れで狂いが出る」
昴は結露した缶を受け取り、格闘ゲーム特有の摩擦で熱を持った指先を冷やす。
中身は三十八歳のベテランとしての精神だからこそ、現在の自分の強さに一ミリの慢心も許さない。
未来の知識や、最適解のセオリーが頭に詰まっていても、それを実際に執行するのは二十歳の肉体だ。
ほんの僅かな神経のズレが、あの鮫島のような執念深く、勝ちに飢えた相手には致命的な隙になりかねない。
「ねえ、昴。最近、私のブラン……少しはマシになったかな?」
蘭が自分の手元を見つめながら、少し不安げに尋ねる。
「マシどころか、この店の常連レベルじゃ、もう誰も相手にならないくらい強いはずだ。蘭が元々持っている野生の勘のような鋭さに、俺が教えたフレームの概念と確定反撃の知識が噛み合い始めてる。今の蘭なら、鮫島の周りにいる取り巻き連中には絶対に負けない」
「本当……? よかった」
蘭は張り詰めていた表情をホッとしたように緩め、白い歯を覗かせて微笑むと、昴のすぐ隣の椅子に座った。
「私ね、こうやって昴にゲームを教えてもらってる時間、すごく好きなんだ。ただキャラクターの動かし方が上手くなるだけじゃなくて……なんというか、自分の世界がどんどん広がっていく感じがして」
蛍光灯の光を反射する蘭の真っ直ぐな瞳に、昴の姿が映り込む。
未来では、たった一人で孤独と苦しみに耐え、自らの腕一本で道を切り開いた彼女。
だが、この塗り替えられた世界線では、最初から彼女の傍らに自分が立っている。
自分が過去に戻り、歴史を変えたことで、彼女の人生が背負うはずだった「痛み」の質もまた、変わってしまうのかもしれない。
「……世界が広がって、蘭が行きたいところができたなら、俺も一緒に行くよ」
昴は愛おしさと決意を込め、蘭の華奢な細い肩をそっと引き寄せた。
「もし蘭がプロの世界を目指すっていうのなら、俺が世界一のパートナーとして支えてやる」
「ふふ、何それ……」
蘭は照れたように笑いながらも、嬉しそうに昴の肩へ体を寄せてくる。
筐体の影、電子音とゲームのBGMに包まれた二人の時間は、何物にも代えがたい「今」という一瞬を深く刻みつけていた。
そんな甘やかな二人を、遠くの薄暗い通路から冷めきった目で見つめる男がいた。
草野光彦だ。
彼は少し離れた別の筐体で黙々とコンボ練習をしていたが、二人の様子に気づくと、呆れたような苦笑いを浮かべた。
「全く、戦う前から勝利の余韻に浸ってやがる。……まあ、今のアイツの強さを見てたら、それも許されるか」
草野もまた、昴による効率的な特訓を受けて急速に地力をつけていた。
彼の使用する『ケイン』は、かつての単調で強引な攻めを完全に捨て去っている。
相手の出方をじっと窺い、心理をジリジリと揺さぶるような「我慢の格闘」へと、確実に進化を遂げていた。
だが、その草野の視界の端に、店内の空気とは明らかに異質な、三人の集団が映り込んだ。
黒い揃いのパーカーのフードを深く被った男たち。
その中央で不遜な笑みを浮かべているのは、他でもない鮫島剛だ。
「……おい、昴。お出ましだぜ」
草野の低く鋭い声に反応し、昴と蘭は弾かれたように顔を上げた。
鮫島は二人の取り巻きを左右に従え、我が物顔でゆっくりと昴の筐体へと近づいてくる。
「よお、熱心なこったな。女といちゃつきながらヌルい練習とは、随分と余裕じゃねえか」
「鮫島。大会の当日まで、この店にはもう来ないと思ってたが」
昴は格闘ゲームの筐体から立ち上がり、感情を殺した静かな声で応じる。
「フン。本番前に、最後のアドバイスをわざわざ届けに来てやったんだよ。……春原、お前のその理屈っぽい『奇妙な動き』、俺の全国レベルの知り合いに見せたら、随分と面白い答えが返ってきてな」
鮫島が口元を歪め、ニヤリと下卑た笑みを浮かべる。
「お前のプレイは、ただの算数だ。理詰めが過ぎるんだよ。格ゲーってのは数字の計算じゃねえ。……最後を分けるのは『殺気』と『経験値』だ。本番でそれを徹底的に思い知らせてやる」
鮫島の背後から、影に隠れていた一人の男が、ぬっと一歩前に出た。
無精髭をだらしなく生やし、光のない虚ろな三白眼をした男。
だが、ぶらりと下げられたその指先には、無数の筐体を限界まで叩き潰してきたであろう、異様なほど硬く厚いタコが形成されている。
「紹介してやるよ。俺のチームの二人目、秘密兵器だ。……格ゲー界の『掃除屋』、影山だ」
影山。
その忌まわしい名が鼓膜を叩いた瞬間、昴の脳裏に、前世の古い記憶が鮮烈に蘇った。
——そうだ、思い出した。
二〇一〇年前後、各地の地下大会や野試合に現れては、執拗な「嫌がらせ戦法」と、相手の精神を徹底的に削り取るような粘着プレイで悪名を馳せた、リアルファイト寸前の男。
未来の歴史では、彼は表舞台の大きな大会で輝かしい実績を残すことはなかった。
しかし、そのあまりにも陰湿なプレイスタイルに心を折られ、ゲーム自体を辞めていった若手プレイヤーは数知れない。
「よろしくな、天才くん」
影山が、喉の奥からカサカサと乾いた不気味な声で笑う。
「お前が画面の上でカチャカチャやってる計算通りの綺麗な動き、俺の泥臭い戦い方でぐちゃぐちゃにしてやるよ。……本番を楽しみにしてな」
鮫島たちは、店内に響き渡る不気味な高笑いを残したまま、踵を返して去っていった。
嵐が去った後に残されたのは、鉛のように重苦しい沈黙だけだった。
「……昴、あの影山って人、すごく嫌な感じがした。私、あんな冷たい目をした人、今まで見たことない」
蘭が怯えたように肩を震わせ、すがるように昴の腕を強く握りしめる。
「大丈夫だ、心配ない。……影山のことは、戦い方も含めてよく知っている。相手を精神的に怒らせて、プレイのミスを誘うのが奴のいつものやり方だ。……だが、それだって所詮は『攻略法』が存在する戦術の一部に過ぎない」
昴は蘭の震える手を優しく握り返したが、その内面では、背中に一筋の冷や汗が伝っていた。
未来の知識というアドバンテージがあるとはいえ、対峙するのは血の通った「人間」だ。
鮫島がどこからか手にしている豊富な資金力に物を言わせ、当時の格ゲー界における最強の「悪意」を揃えてきたのだとすれば、この大会は決して一筋縄ではいかない。
そして昴はまだ知る由もなかった。
この大会がもたらす結末が、彼が必死に守ろうとした不確定な未来に、さらなる巨大な運命の波紋を広げることになるということを。
「……行こう。最後の仕上げだ」
昴は雑音を振り払うように呟き、再び画面の前に向かった。
青白い光の中で揺れるアレン。
その背中は、かつての後悔という重い十字架を背負いながらも、希望という名の新しい未来への道を切り拓こうと、静かに闘志を燃やしていた。




