日の出、二日前
どんよりとした分厚い雲が空を覆っている。それはまるで、この国の惨めさ、情けなさを露呈しているようで実に気分がいい……はずだった。
普段ならあの管理官で憂さ晴らしでもしていただろうが、今は事情が違う。緊急事態だ。有り得ないことが起こっている。
昨日、あの管理官……ヤスダとかいう男から電話がかかってきた。向こうからかけてくるのは珍しい。ついに屈して賄賂を渡す気になったかと思って意気揚々と電話を取ったところ、聞こえてきたのはそれとは正反対の内容だった。
「我々日本魔導帝国は、アメリカ帝国に宣戦を布告する……か。一体何を起こそうと言うんだ?」
いつまで経ってもその答えは見つからない。
ドッと疲労感に襲われた私は、執務室の上質な椅子に座り、机に倒れた。
日本魔導帝国。ちょうど100年前に滅び去った、東アジアの覇者。今では列強諸国に分割され、その養分へと成り下がっている。
二度と復活することはない。例えヤスダが何をしようと、今の日本人には【魔女】という精神的支柱が無いのだ。支柱を失ったつる植物は、地を這うしかない。
そしてその支柱は、アメリカ帝国の首都の地下深くに封印され、50年前には死亡が確認された。
最強の【魔女】旭 陽花は、この世から消滅したのだ。
【魔女】がいない国家がいくら反抗したところで、世界を牛耳るアメリカに勝てるわけがない。
「……さっさと諦めてくれればいいんだが」
そんなことも分からずに喧嘩を売ってきた愚かな男、ヤスダを、電話が切れた後に即刻指名手配したが、ヤスダがいた建物は既にもぬけの殻だった。
その行方は、今も分かっていない。
アメリカ帝国の特殊部隊も探索に投入されているというのに、だ。
何かが、ヤスダのバックにいる。そうとしか考えられない。
何が起こってもアメリカの覇権は崩れないし、日本が再び日の目を見ることもない。そう確信してはいるが、どこか胸騒ぎがする。
これが杞憂に終わるといいんだが……
「長官。明後日の演説は覚えられましたか?先ほど予定にない軍の視察をされていましたし、もちろん覚えたんですよね?」
「っ!?」
いつの間にか部屋に入ってきていた副官にそう言われて、初めて思い出した。そういえば、明後日の終戦100周年記念式典で演説しなければならないのだった。
そして私は、そんなことはすっかり忘れて軍の視察をしていた。何なら新兵に射撃のコツを教えてやったりもした。
「まさか、天下のアメリカ帝国から来た行政長官が、演説内容を暗記していないわけがないですもんね?というか、記憶力強化の魔法があるんですから、余裕ですよね?」
「あ……あぁ、もちろんだ」
動揺を押し隠して頷くと、副官は何故だかニヤリと笑った。
嫌な予感がする。
「それは良かったです。では、一度やってみてください。リハーサルだと思って」
「い、いやぁ……ちょ、ちょっとトイレに行ってきてもいいか?」
一旦撤退だ。トイレで急いで覚えよう。
「いえ、ダメです。今すぐお願いします。私もこれから予定がありますので。それに、内容は非常に短いものだったはずです」
「そ、そうか。確かに、あの量なら今やってしまったほうがいいか」
まずい……どうすれば……
「……長官。さては、覚えていませんね?」
「そんなわけないだろう!馬鹿にしているのか!?」
な、なんだ!?何で副官はこんなにニヤついているんだ!?
顔には出さず、内心で恐れおののいていると、副官はニヤニヤしながら大量の原稿用紙を取り出した。そこには端から端までビッチリと文字が埋めてある。
ここで私は、初めて理解した。
ハメられたということに。
「さて、長官」
「な……なんだ」
「原稿用紙の枚数も覚えられないで、どうやって内容を覚えられるのでしょうか?是非とも私にご教示頂きたい」
そう言ってニコニコと笑う副官の目は、昔遠くから見た【魔女】のように無機質で恐ろしく、思わず私は下を向いた。
そして、いつもの「このクソ脳筋がぁー!!」という怒号に備えた。
しかし、もはやお約束となりつつある副官の叫びは、いつまで経っても聞こえてこなかった。
ポタ……ポタ……
何かの液体が、一滴ずつ机の上に落ちている。
副官の怒号を待っていた時とは、また別種の緊張感が漂っている。
絶対に顔を上げてはいけない。上げれば、最も見たくない光景を見させられることになる。何故だか分からないが、自然とそう思えた。
「……ちょう、か……ん……逃げ……て…………………」
身体が、動かない。
どうしてだ!?
絶対に不味い状況になっているのは分かる。私の勘が有り得ないほど警鐘を鳴らしている。
そして、目の前の状況が、その危険を顕著に表している。
顔はまだ上げていない。だが、分かる。
滴り落ちている液体は……血だ。
副官の血だ。
もはや一滴ずつではなく、大量にドバドバと流れ落ちている。
目の前で、副官の命が、今にも失われようとしている。
今すぐ逃げねばならない。
逃げないと、私も死ぬ。
そう分かっている。分かっているのに……
「あなたが、行政長官ですね?」
緊迫した状況に似合わない、おしとやかな、それでいてよく通る声が聞こえた。
「……答えてくれないんですか?」
違う。
答えられないんだ。
身体が動かない。
小刻みに震えるだけで、一寸たりとも動かない。
何故だ、何故……
「あぁ、すみません。怯えていたんですね」
あぁ、そうか。
私は恐れているんだ。
目の前にいるであろう、この女を。
恐れている……この私が?
アメリカ帝国最強の【賢者】エマ=ブライスが、副官を殺した憎き女を、恐れているというのか?
部下の仇を前に、何も出来ずに下を向いているというのか?
ありえない、ありえない!!
あぁ、哀れな副官よ。今すぐお前の仇を殺してやるからな。
出来ればまだ神の下へ行かずに、私の仇討ちを見ていてくれ。
「貴様、よくも私の部下をッ!?……」
激しい怒りに突き動かされて、私の顔はついに上がった。
そしてすぐに怒りは冷め、後悔がやってくる。
顔を上げなければ良かった。
「すみませんね。コレ、何故だか私に気づいたみたいで、思わず殺してしまいました」
そう言ってニコニコと笑っていたのは、美しい黒髪に、紅の瞳を持つ女だった。
その右頬は返り血で赤く染まっており、右手には首から下が無くなった副官が握られている。
「お、お前は……」
私は、昔【魔女】を見たことがある。
まだ小さい子供だった頃だ。軍のパレードを親と見に行った時、ソレはいた。
魔力をまだよく扱えない幼子ながら、その脅威はよく理解できた。
直視を続ければ気を失いそうな、圧倒的な魔力の暴威。体内に魔力を内包しているのではなく、魔力そのものがこの世に具現化した存在。
【自由の魔女】オリヴィア=マッキンリー。アメリカ帝国繁栄の象徴であり、太陽の帝国を打ち破った英雄……であるはずなのに、私は今でも、彼女のことを奈落からやってきた化け物のようにしか思えない。
圧倒的な魔力量……そして、身体が魔力だけで構成されている……これは【魔女】の最大の特徴の一つ。
間違いない。目の前の女は、オリヴィアと同じ【魔女】だ。
しかも、記憶の中にあるオリヴィアと比べても、格段に強い。
オリヴィア=マッキンリーが、現時点で世界最強の【魔女】であるはずなのに。
「で、あなたが行政長官なんですよね?」
私は、知識としては知っている。
オリヴィア=マッキンリーより強い存在を。
だが、ソレは50年前に、ワシントンD.C.の地下深くで息絶えたはずだ。
そう、だからこの目の前の女は、ソレではないはずだ。紅の瞳は一致しているが、髪は黒いし……
「あ、あぁ……いかにも!私が行政長官にして最強の【賢者】エマ=ブライスだ!!貴様は愚かにも我が部下を殺し、アメリカ帝国に刃を向けた。その罪、死をもって償ってもらおうか!!」
たとえ相手が【魔女】であろうとも、最強の【賢者】である私ならどうにかできるかもしれない。そんな微かな希望にすがり、高らかに断罪を宣言した私を見て、女はクスクスと笑った。
「……そ、そうですか。ふふっ……あなた、本気で私に勝てると思っているんですか?」
「っ!?」
女の顔から笑みが消える。それと同時に、室内に暴風が吹き荒れる。
この女が、魔力を無制御に垂れ流しているのだ。流れ出る魔力量が余りにも膨大なため、魔法を使っていないにもかかわらず、風魔法のような現象が発生している。
「『結界』ッ!!くっ……この、化け物がぁっ!」
私は、飛ばされないように中級魔法『結界』で防御するが、あまりの風圧に『結界』がもう綻びそうになっている。
怨み言と共に女を睨みつけるが、女は意に介していないようだ。
「あぁ、そういえば……あなたは自己紹介をしてくれていたのに、私はまだでしたね」
女はそうつぶやくと、私に向かって優雅に礼をした。
「私は、旭 陽花と申します。あ、それとも【日輪の魔女】の方が馴染みがあるでしょうか?短い付き合いになるとは思いますが、どうぞよろしく」
言い終えた瞬間、女の姿が一瞬ブレた。
動揺する暇もなく、私は、首から上がない自分の身体を拝むことになった。
2045年9月21日。
最強の【賢者】エマ=ブライスは、突如として消息を絶った。




