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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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子犬と雷鳴

 雨が降っている。ずっしりと立ち込めた鈍色の空をしとどに濡らす大粒の雨が。

 雨粒の張り付いた硝子に薄っすらと映り込む舞踏室の華やかな様相を眺めながら、リリアは小さく息をつく。天井を埋め尽くすフレスコ画、植物を象った金細工の掘られた太い柱、清潔感で明るい白い壁、黒光りするほど丁寧に磨かれたグランドピアノ。


 唐突に扉の開く音が聞こえゆっくりと振り返ると、壁と同じ色をした瀟洒な扉の前にセドリックが立っていた。隣には、軍服を纏った小柄な青年が、居心地悪そうに身を竦ませて並んでいる。ふわふわとした癖のある栗毛、猫を彷彿させるアーモンド型の目。コバルトグリーンの瞳が、きょろきょろと忙しなく動き回っている。


「連れて参りました」


 そんな彼の心中などまるで気にしたふうもなく、セドリックはにっこりと笑って会釈をした。ダンス講師を任されているダヴリエ夫人が、足早に二人のもとへ歩み寄り、鋭い目つきで、まるで品定めでもするかのように青年を矯めつ眇めつしている。セドリックよりも細い肩が、ぎょっと飛び跳ねる様を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちがして、リリアは静かに苦笑をこぼした。


 舞踏会に向け、ダンスのレッスンは日に日に厳しさを増している。“王太子妃”として初めてルイスとダンスを共にするのだから、ダヴリエ夫人の指導に熱が入るのもしかたがない。大衆の面前で失敗をするなど許されないのだから。


 ペアでの練習は往々にして、セドリックやモーリス、或いはダヴリエ夫人とクラリスが厳選した幾人かの近衛兵が相手を務めた。彼らは全員、爵位を持つ家柄の者たちである為、もちろんダンスには慣れていて、特にモーリスのリードは心地好いほど素晴らしい。まるで自分が上手くなったような、そんな錯覚を抱いてしまうほど、全てが洗練されていて、とても自然だった。


 けれども、彼らの殆どは体躯が良い。リリアよりも頭ひとつかふたつ分は上背が高く、もちろん手足もそれに見合った長さをしている。しかし、本番で相手となるのはルイスだ。彼はセドリックやモーリスたちよりも低く、上背はリリアと大差がない。身長の高低は、ダンスにも無論影響を及ぼす。リードの仕方やその受け方、手の位置など細々したものではあるけれど。しかし、長駆の人間とばかりに慣れていると、本番では感覚が狂ってしまうという。ここ最近ダヴリエ夫人を悩ませていたのは、正にそれだった。


 ルイスと練習をするのが最も理想的ではあるけれど、しかし彼はモーリスたちよりも多忙だ。僅かな時間をとることすら難しい彼に我儘を言うのは憚られ、顕聖隊の中に誰かいないだろうか――と、セドリックに相談をしたのが、三日前のことである。彼は暫し悩んでいたけれど、やがて誰かの顔を思いついたのか、すぐにぱあっとにこやかな笑みを浮かべながら、大丈夫です、と言った。ぴったりの人物が居ます、とも。


 そうして連れてこられたのが、まるで拾われたばかりの子猫のように身体を強張らせる、テオ・ブレナールだった。


「えっ、ちょっ、ちょっと! 妃殿下とだなんて、俺聞いてないですっ!」


 助けを求めるようにセドリックを見上げる彼は、確かにルイスと背格好がよく似ている。横に並べば、恐らく目線の高さは殆ど同じだろう。練習相手としては、これ以上ない適材であるのは間違いない。


「妃殿下と踊ったなんて知られたら、俺絶対殺されますって!」

「大丈夫だ。殿下にはちゃんと許可をとってある」

「えぇ……それ本当に許可なんですか……信じられないんですけど……」


 今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪ませるテオは、ふわふわとした栗毛のせいか、子猫というよりも子犬のようだ、と思った。垂れた耳と尻尾が今にも見えそうで、リリアは思わずくすりと笑う。


 どんなに助けを乞われても、セドリックは一貫して柔和な笑みを湛えたままで、テオに助け舟を出すことはない。おどおどとした足取りでリリアへ歩み寄る彼を、痺れを切らしたダヴリエ夫人が一喝し、細い肩がびくりと震え上がった。


「俺、まだ死にたくないのにぃ……」


 べそべそとしたテオにリリアは苦笑をこぼしながら、差し出された左手にそっと右手を添え、ダヴリエ夫人の奏でるピアノの音色に合わせて足を動かす。曲はワルツだ。有名作曲家が歌劇の為に手掛けたという、まるで花々が舞うような美しく華やかな曲。


 子爵家の三男坊だというテオは、ダンス好きの子爵夫人の意向によって幼少の頃から徹底的に踊りを仕込まされたようで、音楽に乗り始めると、尻尾を垂らして悄気ていたのがまるで嘘のようなスムーズさでリリアをリードした。モーリスとはまた違う上品な身のこなしと、安心感のある明確な誘導。それはリリアの身体を“動かす”のではなく、“伝える”といった方が正しいように思えた。次はここへ、次はこの動きを――。初めて踊るのに、身体が自然と、彼の思うままにするすると動いてゆく。ふわふわと。それこそ、やわらかな花弁が舞うように。


 一曲踊り終え手を離すと、テオは途端に首を竦め、再び目に見えない尻尾を力なく垂らした。そんな彼に、ふふっ、とやさしく微笑みながら、リリアは悠然と一礼する。


 確かにセドリックやモーリスに比べ、背丈の小さなテオと踊るのは、また少し感覚が違ったように思う。たとえば歩幅だったり、手の位置だったり、ホールドの仕方だったり。特に違いを感じたのは、目線だった。上背のあるセドリックたちは、どうしても見上げなければならないが、殆ど背丈の変わらないテオの場合は、愛くるしいコバルトグリーンの瞳が目の前にある。そのせいか、いつにも増して相手との距離が近く感じられた。“一緒に踊っている”という感覚が、いつもよりも強く。


 つまりそれは、ルイスと踊った時も同じということだ。そう思うと、緊張や不安よりも、小恥ずかしさの方が勝った。恐らくは今までで一番、彼と身体を添わせることになるだろう。


「あれ、テオじゃん。何でお前ここにいるの」


 不意に扉が開き、ひょっこりと顔を出したユリウスが、物珍しげな顔でテオを見遣る。すぐさま傍らから、「げっ」と怯えたような小声が聞こえたが、今の彼にはどこにも逃げ場はない。


「殿下の代わりに相手役をしてもらっているのです。背丈が同じですから」

「ああ、確かに。ルイスと殆ど変わらないもんな、お前」


 ははっ、と陽気に笑いながらユリウスは後ろ手で扉を閉め、ダヴリエ夫人の刺々しい視線など意に介さずに、リリアの傍へと歩み寄ってくる。


「俺、まだまだ育ち盛りなんで」

「ルイスも昔、おんなじこと言ってたけどねえ」


 目の前で足を止めたユリウスを見上げると、彼は左右で色の異なる目を、ふっとやさしく綻ばせた。そうしてテオの小さな頭にぽんと手をのせた彼は、癖のある栗毛を、大きな掌でくしゃくしゃと撫で回す。まるで子犬でも愛でるみたいに。どうやら兄貴分たちからは随分と可愛がられているらしい。


「何かご用でしょうか?」


 ダヴリエ夫人の咳払いが響き、リリアは落ち着いた声音で問いかける。初めの頃こそ、掴みどころのないユリウスを少しだけ苦手に思っていたけれど、頻繁に言葉を交わす内に、今ではすっかり慣れてしまった。甘いお菓子と渋めの葡萄酒が大好きな、顕聖隊一の変わり者。それでも彼が、優秀な副隊長であることは、紛れもない事実だ。ふと見せる言動の節々からも、それはよく感じられる。


「セドリックに用があってね。声をかけにきたんだよ」


 にこやかにそう言って、ユリウスはテオの頭から手を離しながら、壁際に立つセドリックを振り返った。


「ルイスが呼んでるよ」

「私を、ですか……? この時間は、リリア様のお側にいるよう言われていたのですが」

「緊急だってさ。なんでも、お隣さんがきな臭いらしくてねえ」


 皮肉っぽく唇を歪ませ、ユリウスは戯けたように肩を竦ませる。


「性懲りもなく、また戦を吹っ掛けるつもりでいるんじゃないの、あいつら」


 口調こそいつも通りの飄々としたそれであったが、しかし彼の放った一言は、忽ち室内の空気をぴんと張り詰めさせた。息を呑む気配がして、ふと視線を逸らすと、ピアノ椅子に腰掛けたダヴリエ夫人のかんばせが、僅かに青褪めているように見えた。いついかなる時も、彼女は独特の厳しい表情を、少しも崩したことはないというのに。


 ユリウスの言う“お隣”とは、恐らくローデリア王国のことだろう。オルフェリア王国の北に隣接するその国は、先の戦争で敵対関係にあった国であり――そして、五年前、リオネルが命を落とすきっかけとなった国でもある。


「……僕達が恨みを抱えてるのなんて、知ってるだろうに」


 すっと細められた目に仄暗い翳りが差すのを見て取り、胸の深いところがきゅっと締め付けられる。今に在りながら、それでいてひどく遠い場所を見ているような、ふたつの瞳。その奥には、置き去りにされた痛みと想いが、まるで澱のように静かに沈んでいるような気がした。


「リリア様の前でお話することではありませんよ」


 そう言って、セドリックは溜息とともにかぶりを振る。その一瞬の間に、ユリウスの双眸はいつも通りの軽やかな色を浮かべていた。にっこりと浮かべられた笑みに、けれど、感情は少しもない。


「ははっ、確かにねえ。ルイスに怒られそう」


 苦く笑うユリウスの言葉が、瀟洒な室内に虚ろに響く。

 窓の外へ目を向けると、朝から降り続く雨はいっそう激しさを増し、今や風をともなって硝子窓を打ちつけていた。庭園の木々が、大きく枝葉を揺さぶられながら撓っている。これでは暫くやみそうにない、と思いながら小さく息を吐いた瞬間、色濃く垂れ込めた雲の狭間を稲光が裂き、地の底を揺らすような雷鳴が激しく轟いた。

 まるで、何かの始まりを告げるように――。

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