遠い声
そこは一面の、赤、だった。
身体のあちこちを掴まれながら、それでも必死に腕を伸ばしていたことは、憶えている。駆け寄りたいのに、それを誰も許してくれない。どんなに叫んでも。どんなに足掻いても。駄目です。いけません。周りから聞こえてくるその言葉のひとつひとつに、ひどく腹が立った。何が駄目だというのだろう。何がいけないというのだろう。煩い、と叫んでも、一瞬の怯みの後に、彼らは再び切羽詰まった声を上げた。暴れれば暴れるほど、身体に巻き付いた腕の力が強くなる。叫べば叫ぶほど、悲痛な声が耳を劈く。
そんな喧騒の中にあっても、あの声は、あの声だけは、まるでそれだけが隔絶されたように、はっきりとした輪郭を持っていたように思う。
荒れ狂う嵐のただ中に射し込んだ一筋の光のように、静かで、揺るぎのない、凛として澄んだ声。それは、まるで春の初めに吹く風のようにふわりとしていながら、けれど、喧騒に掻き消されることなく、不思議なほど滑らかに、真っ直ぐに、耳の中へ入り込んだ。すうっと。何にも邪魔されることなく。
――ルイス。
はたと我に返り、ルイスは小さく息をつきながら、いつの間にか深く皺の寄った眉根を指先で押さえる。まただ、と思った。またあの時のことを思い出してしまった、と。
忘れたわけではない。けれど、仕事をしている間はなるべく思い出さないようにと、自制していた。一度記憶の深い沼に落ちると、なかなか戻ってこられないことを、分かっているから。だから、深淵に足をかけるようなことはしないよう努めていたし、意識せずともそう出来るくらいには、身体も頭も疾うに慣れているはずだった。
しかし最近、ふとした瞬間に、意識を奪われる。それはほんの僅かな時間ではあるけれど、それでも以前にも増して、記憶に囚われることが多くなった。気付いた時には奈落の底に溺れながら、遠い深淵を見上げている。胸が張り裂けそうなほどの、痛みや息苦しさとともに。
再び深々と溜息を吐き出すと、頭上から、ふふっ、と陽気に笑う声が聞こえた。
「なに、もしかして恋煩い?」
「寝言は寝てから言え」
忌々しさを惜しげもなく視線に詰め込み、ルイスは舌打ちをこぼしながら眼前に立つ男を睨め付ける。けれど男は、それでもへらりと笑みを浮かべるだけで、全く悪びれた様子はない。窓から差し込む陽光を浴びたオッドアイが、心底愉しげにきらきらと輝いている。
「夫婦なんだから、べつに恥ずかしがらなくてもいいのにねえ」
相手にするだけ無駄だ、と、思いながらルイスは椅子からゆっくりと腰を上げ、背後の壁に切られた窓へと歩み寄る。空気の入れ替えの為に、と、セドリックが開け放したままにしていたそこからは、春の名残を滲ませた初夏の風がゆるやかに流れ込み、カーテンの裾をふわりと膨らます。
そろそろ離宮の傍にある藤棚が盛りを迎える頃だろう。何故かあの藤棚を、兄であるリオネルは殊の外気に入っていた。
「まあいいや。報告進めるよ」
庭に広がるラベンダーを見るともなく見下ろしながら、ルイスはそっと窓枠に寄り掛かり、ユリウスの報告に耳を傾ける。
リリアに異能があると分かって以降、彼女の能力の解明はユリウスの仕事のひとつとなった。
二日に一度の頻度で時間をとり、詳細な話を聞いて、実際に発動を試してもみる。時には過去の顕現者をまとめた書籍を読み、近しい異能はないかと調べもするそうだが、時間の殆どは“実験”に費やされているという。他の異能とは異なり、精神系の異能は目に見えるものではない。故に、全てが感覚頼りの、地道な“実験”の繰り返ししかないのだと、ユリウスは珍しく至極真面目な顔をして言っていた。精神系の異能は、それを持った者たちにしか分からない苦労があるのだろう。
今のところ分かっているのは、発動には“身体的な接触”と“相手へ対する探究心のようなもの”という、ざっくりとしたものだけだ。しかしそれさえも、ユリウスが発現時の状況を聞き取った上で出した“予想”に過ぎない。何故ならあのお茶会の日以降、何度試してもリリアは未だ一度も異能を使えていないのだという。当時の状況や、考えていたことを再現しても、まるで駄目。恐らくは心理的なものが強く影響しているせいだろう、と、ユリウスは言っていた。もしかしたら“感情”に大きく左右される異能なのかもしれない、と。
そう考えると、“異能を持っていない”と今まで思い込んでいたのも無理はない、と思う。フローレット家では、発動条件を満たせるような状況にはなかったであろうから。
「僕だから駄目なのかなと思ってさ、モーリスとかセドリックにも試してもらったんだけど……まあ、特に変化はなし。今のところルイスだけだよ。凄く興味持たれてるんだねえ」
「余計な一言はいらん」
呆れながら溜息をこぼしたその時、ふと視界の端で、やわらかな何かが揺らめいた。視線を向けると、淡いローズ色のゆったりとしたドレスが目に留まる。風にゆらりと靡くピンクブロンドの髪の毛も。声は聞こえないけれど、楽しげに目を細めている白い横顔が、朗らかな陽光に照らされて眩い。
クラリスと庭を散歩しているらしいリリアの両腕には、色とりどりの花々がたっぷりと抱かれていた。恐らく、活けるために切り集めたのだろう。最近では、王太子専用の執務室に飾る花を用意するのが、彼女の仕事のひとつになっている。もちろん、クラリスの思惑によって。
「しっかし、どうしたもんかねえ」
クラリスに促され、リリアはそっと腰を屈めて、足元に群生するラベンダーへと顔を近付ける。静かにそよぐ、くっきりと鮮やかな、青とも紫ともつかない色をしたラベンダー。よほど良い匂いがしたのか、ぱっと顔を上げたリリアの表情が、ふわりと嬉しそうに綻ぶ。その横顔を見ているだけで、すっきりと爽やかな、清潔感のある匂いがすうっと薫ったような気がした。
「これじゃ全然先へ進めない。困ったもんだよ」
深々と吐き出された溜息を背中で聞きながら、ルイスはそっと、僅かに目を細める。どこか遠くで、ルイス、と名を呼ばれたような気がした。とても懐かしい、太陽にあたためられたような、やさしい声で。
視線の先で、クラリスと顔を寄せ合い笑っていたリリアが、ふいに動きを止めた。まるで何かに気づいたように、顔を上げた彼女が、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞬間、ぴたりと、目が合った。声も香りも届かないほど離れていながら、それでも、寸分の狂いもなく視線が重なっていると、はっきりと分かるほど。それは殆ど確信だった。彼女の瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げている。
――ルイス。
また遠くで、名を呼ばれた。その声にしっとりと浸りながら、ルイスは静かにリリアを見つめる。まるで蒼穹を溶かし込んだような、青い瞳を。そこに、懐かしい瞳を想い重ねながら。
――本当に守るべきものを、見誤ってはいけないよ。
ふわり、と、彼女が笑った。青いデルフィニウム越しに見た、あの時と同じように。或いは、レシュ語を代読したあの夜と同じように。心から素直に溢れさせた、まるで感情そのもののようなやさしい顔で。
***
「どうかされたのですか?」
クラリスに声をかけられ、リリアはそっと目を逸らしながらかぶりを振った。離れるのは名残惜しいと思ったけれど、背中にはもう、あの視線は感じない。
「いいえ、何でもないわ」
穏やかな風にそよぐ清らかなラベンダーへと目を戻し、リリアはもう一度、その芳香をたっぷりと吸い込む。ハーブの女王として名高いラベンダーの香りには、心や身体をゆったりと落ち着かせてくれる効果があるという。お茶会での騒動であったり、異能の発動であったりと、最近何かと考え込むことの多かった心身に、その清潔な香りはじんわりと、やさしく滲み広がってゆく。
次花を活け替える時はラベンダーにしよう、と思った。この香りで、少しでもルイスの疲れを癒やすことが出来れば、とも。
「そういえば、祝祭の準備もそろそろ始まる頃ですわね」
ふと思い出したようにそう言って、クラリスはゆっくりと空を仰ぐ。それにつられ、リリアもまた頭上を見上げた。薄っすらと雲のかかった、薄青色の空。燦々と降り注ぐ陽光が、とても眩しい。思わず目を細めたリリアの視線の先を、茶色い羽をした小鳥が気持ち良さそうに飛んでゆく。
彼女の言う祝祭とは、毎年初夏に執り行われる“フロレルナの祝祭”のことだ。
水と豊穣を司る女神“フロレルナ”に祈りを捧げ、暑さ厳しい夏の間も作物がすくすくと育ち、秋にはたわわな実りを迎えられるよう願う祭事である。
期間中、街や村はどこも活気づき、王都の中心部では盛大な催しが繰り広げられる。軒を連ねる露店、街を彩るガーランドやフロレルナの像。野外舞台での人形劇や歌劇、水かけ競技、踊り子による花の舞。聖堂では聖職者たちによる厳かな祈祷が行われ、人々は色とりどりの花を水路へ流す。美しいものを愛するフロレルナの為に。彼女を賛美する言葉とともに。
そして、そうした祝祭の最後を飾るのが、王城で催される宮廷舞踏会である。
最近になってダンス講師が妙に熱のこもった指導をしているのは、どうやらこの舞踏会を見据えてのことらしい。
「いよいよ、殿下との“初舞踏”……今から楽しみでなりませんわ!」
ふふっ、と嬉しそうに笑うクラリスに、リリアは眉を下げ、苦笑を返す。
“フロレルナの祝祭”の締めくくりとして催される宮廷舞踏会は、リリアが王太子妃として迎える初めての正式行事だ。その規模や注目度は、あのお茶会とは比べ物にならない。集まる人間も、実に様々だ。
そんな場所で、ルイスの顔に泥を塗るようなことだけは避けなければならない。そう思えば思うほど、胸の奥に不安がじわじわと根を張ってゆく。果たして自分に、王太子妃としての務めを全うすることが出来るのだろうか。
脳裏の遠いところに、ルイスの美しいかんばせが過ったような気がして、花を抱いた指先に、無意識に力がこもる。胸に巣食う不安や緊張を少しでも和らげようと、リリアは瞼を閉じ、ラベンダーの爽やかな香りをゆっくりと吸い込む。少しずつ、細く、長く。
静かに肺の奥へと満ちていくそれがもたらしたのは、けれど、ふとした拍子に破れてしまいそうな、儚く頼りない安堵だった。




