虚しい右手
フロレルナの祝祭は、すこぶる晴れやかな空のもと、穏やかに幕を開けた。
とはいえ、祭の大部分を取り仕切るのは教会である為、王族の出番は夜まで殆ど無い。早朝に聖堂で祈りを捧げ、花流しを模して王城内で最も規模の大きな噴水に花を浮かべる簡易的な儀式が済めば、あとは支度が始まるまで、暫しの空白が訪れるだけだった。使用人たちも街へ繰り出している為か、そこここから感じられる人の気配はまるで少なく、昼間の王城には珍しく、のんびりとした長閑な空気が薄く漂っている。
授業は休みであるが、リリアは朝食を終えてすぐ机に着いた。
どうにもそわそわとしてしまって、気持ちが落ち着かなのだ。頭も心も、ひどく心許ない。“地に足がついていない”とは、こういう感覚のことを言うのだろう、と思った。不安とも緊張ともつかないつんとした何かが、胸の奥底をしきりに疼かせている。
だからこそ、少しでも冷静さを取り戻したくて、何かに集中しようと、いつものように書物を広げてみたのだけれど、効果はまるでなかった。どうにも文字が頭に入ってこず、何度試しても目が滑るのだ。気づけば同じ行を何度もなぞっているし、母語であるはずなのにレシュ語以上に難解に感じたり。視線は紙面に落ちているのに、心はどこか遠くへ浮かんでいってしまっているような気がした。
しかたなく本を閉じ、リリアは侍女を連れて庭園へと出た。今頃街では、種々雑多な催しが繰り広げられ、喧騒と活気で満ち溢れていることだろう。昔一度だけ、こっそり屋敷を抜け出して、華やかに賑わう街を探索したことはあったけれど、結局それきりだ。宮廷舞踏会にも、カトリーヌたちをひとりでただ見送るだけだった。もちろん、去年の今日も。
けれど、今年は――。侍女の勧めるまま庭園を歩み、あたたかな風にそよぐ鮮やかなマリーゴールドを眺めながら思う。あと小一時間もすれば、舞踏会の支度の為に侍女長がやって来るだろう。そうすれば、目も回るほどの慌ただしさの中へ連れ込まれる。それはしかし、去年まではなかったことだ。
(考えれば考えるほど、緊張してしまうわ……)
案の定、きっかり一時間後に、幾人かの“精鋭”を連れて侍女長はやって来た。クラリスから託された役目をしっかり完遂出来るよう、いつにも増して活き活きと張り切る彼女の的確な指示のもと、侍女たちが忙しなく私室と衣裳部屋を行き来する。
先ずは薔薇のオイルを垂らした風呂に入れられ、頭のてっぺんから足の先に至る隅々まで、丁寧に洗い清められた。それからいつもより時間をかけて化粧をし、この日の為にと選んだドレスを着付けてから、それに合うよう髪を整える。ドレスには、セリーヌ・シャルモンの自信作だというラベンダー色のものを選んだ。繊細でやわらかなそのドレスにはたっぷりの刺繍が施され、裾には女神フロレルナの愛する花々が小粒の宝石とともに散りばめられている。
身支度を整え終えたのを見計らったかのように、正装をしたセドリックが迎えに来た。ルイスは既に護衛を連れて、賓客の集う大広間へ向かっているという。
フロレルナの祝祭の最後を締めくくる宮廷舞踏会は、本来国王の挨拶によって始まるのだが、レオニスが病に伏している為、その代役をルイスが務めることとなっている。挨拶の後は、数十代前の愛妻家であった国王の決め事に則って、ワルツを一曲踊る。宮廷で催される舞踏会では、それが伝統なのだ。
――愛妻家の国王もいれば、側室にばかりうつつを抜かす国王もいました。全て同じ血で繋がっているというのに、実に面白いものですよね。
いつだったかモーリスの言っていた言葉を頭の片隅で思い出しながら、リリアはセドリックの後ろをついて歩む。昼間はあんなにしんとしていたのに、とっぷりと日の暮れた今は、逆にいつにも増して王城のそこここが賑々しい。目には見えないけれど、厨房の慌ただしさや、クロークルームの話し声、大広間を包む喧騒などが、空気を通して肌身に伝わってくるような気がした。
「緊張されていますか?」
「ええ……」
僅かに目を伏せながら答えたリリアに、セドリックはふふっと笑う。正面を向いたままの彼のかんばせは分からないけれど、鼓膜にしっとりと馴染んだ声から、きっといつもの柔和な笑みを湛えているのだろうと思った。
暫く歩むと、漸く大広間の入口が見えてきた。賓客の出入りするそれとは異なる、王族だけが利用する為に造られた荘厳な扉。その前に佇む二つの人影が目に飛び込み、リリアの心臓がとくりと跳ね上がる。いつもよりきっちり整えられた白銀の髪の毛、凛々しく美しい色白の横顔。それらの全てがまるで別人のもののように感じられるのは、隙なく着こなされた正装のせいだろうか。彼の胸元ではオルフェリア王国の国章が、燭台の落とすあたたかな光を浴びて淡く輝いている。
「相変わらず綺麗だね」
到着したリリアを一瞥しただけのルイスに代わり、ユリウスがにこやかな微笑みを向けてくれる。そんな彼に謙遜しながら、リリアはちらりとルイスへ目を向けた。かたく閉じられた扉に真っ直ぐ向き合う、頼もしい後ろ姿。その背中を見つめるのは、異能が発動してしまった、あのお茶会以来のことだった。
「そろそろ開けさせるけど、いい?」
ユリウスの問いに、ルイスは「ああ」と落ち着いた声音で簡素に返す。そんな彼の半歩後ろに立ち、リリアは眼前に聳える大きな扉をじっと見据えた。
この扉の向こうには、招待を受けた貴族たちがたくさん集っている。その中にはもちろん、侯爵であるフローレット家の面々もいることは、クラリスから事前に聞いていた。フレデリク、イザベル、そしてカトリーヌ。王太子妃として顔を合わせるのは、我儘を押し通して無理矢理会いに来たフレデリク以外、初めてだ。果たして彼女たちは、いったいどんな反応をするのだろう。睨め付けてくるだろうか、嘲笑を浮かべるだろうか。大衆の目がある以上、堂々と侮蔑の言葉を投げつけてくることはないだろうけれど。それでも、彼女たちの冷ややかな目を想像すると、背筋にぞくりと震えが走った。
扉の両側に立つ近衛兵のひとりが内側へ合図を送り、すぐに扉の向こうから、王太子及び王太子妃入場を報せる扉係の大きな声が聞こえてきた。思わず唾を呑み、身体を強張らせてしまったのを見て取ったのか、ユリウスがそっと顔を近づけ、「大丈夫だよ」とやさしく囁いてくれる。その間もルイスは、リリアを振り返ることも、ユリウスのような気遣いの言葉をかけてくれることも、一度もなかった。
係の手によって、扉がゆっくりと開かれていく。少しずつ大きくなってゆく隙間から、眩いほどの煌々とした明かりが差し込み、喧騒が波のように押し寄せてくる。心臓が、激しく鳴っている。どくん、どくん、と。人々の賑やかさで周りは埋め尽くされているというのに、鼓動の立てる音はそれ以上に煩くはっきりとしていて、まるで心臓が鼓膜の裏側にあるようだ、と思った。
ゆっくりと歩みだしたルイスの後につづいて、リリアもまた優雅な歩みで大広場へと足を進める。その瞬間、室内に満ち溢れていたざわめきが、まるで波が引くように鎮まった。一歩進むごとに、身体に突き刺さる視線は増えてゆく。その全てがやさしいものでは、無論ない。寧ろ殆どが冷たく、ひどく刺々しいものだばかりだ。品定めされている、というのは、痛いほどよく分かる。或いは、すっかりそれを終えた後の、軽蔑。
それでも、出来るだけ毅然と見えるよう、リリアはすっと背筋を伸ばす。足先だけでなく、指先から頭のてっぺんにまで、しっかりと意識を張り巡らせて。
重厚な扉の奥に広がるのは、光と装飾の海だった。
金の装飾が施された太い柱に支えられる、フレスコ画の描かれた高々とした天井。硝子が散りばめられ、カーブした真鍮製の腕木が幾重にも等間隔に配された豪奢なシャンデリア。白と金を基調とした華やかな壁に飾られた、幾つもの胸像や絵画やレリーフ。くもりひとつなく磨き上げられた床はまるで鏡のように室内を映し、そこには色鮮やかで絢爛なたくさんのドレスが花のように咲いている。
背後で音もなく扉が閉まる気配を感じ、リリアは怯む心を叱咤しながらゆっくりと瞬く。銀製のトレイにフルートグラスをふたつのせた給仕が素早く近づき、リリアは渡されるままそれを大人しく受け取る。ほっそりした形のグラスには、淡い金色をした葡萄酒が気持ち程度に注がれていた。
水を打ったような室内を、ルイスは静かに見渡す。彼の述べた挨拶はとても丁寧でありながら、それでいて簡潔にまとまっていた。国王の不在を詫び、豪雨被害を受けた西部地方への深い労りの言葉。最後に、フロレルナの加護が今年も国に実りをもたらすよう祈りを込めて、彼は手にしたグラスを掲げた。
女神の祝福があらんことを。あちこちで折り重なるように言葉が響き、それが薄れるのと入れ替わりに、宮廷楽団の指揮者がタクトを振る。忽ち室内に、軽やかで美しい音色がふわりと広がってゆく。それは、一曲目へと繋ぐ為の間奏曲だ。そう意識してしまうと、途端に心臓が強く脈打つ。大丈夫、と、ダヴリエ夫人は言っていた。今はその言葉と、必死に練習をしたあのたくさんの時間を信じる他ない。
口をつけずにグラスを給仕へ返すルイスに倣い、リリアもまたそうしながら、吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。緊張していることを、ルイスは兎も角、周りに集う賓客たちに悟られてはいけない。
心を落ち着けながら、振り返ったルイスと目を合わす。久しぶりに見る、宝石のように美しい真紅の瞳。まるで吸い込まれるようにその瞳を見つめていると、控えめながらもそっと左手を差し出された。それに気付いた指揮者が、一曲目の前奏へ切り替える為に、楽団へ指示を出す。再び戻った喧騒をやさしく包み込むように流れたのは、ダヴリエ夫人がピアノで奏でていたのと同じ、ふわふわと花弁が舞うような、華やかで愛くるしい、有名なワルツだった。
ルイスと練習をすることはついぞ出来なかったけれど、彼の背格好と同じテオに無理を言って何度も踊った曲だ。ゆっくりと一度深呼吸をし、リリアは静かに右手を上げる。淡い桃色に彩られた指先が、微かに震えているように見えたけれど、気の所為だと言い聞かせ、じっと見つめたルイスの左手へ少しずつ近付ける。大勢の人々の目の前で。決して快くはない視線を集めながら。楽団の奏でる音色が、段々と華やかさを増してゆく。
あと幾許かで指先が触れそうだ――という、その瞬間だった。
ルイスがはっとしたように僅かに目を見開き、差し出していた左手を、まるで逃げるように引き下げたのは。真っ赤な瞳が、微かに揺れている。
何が起こったのか、すぐに理解することは出来なかった。賑やかさを取り戻していた室内が、再び、一瞬にして静寂に呑み込まれる。意識の外側で、誰かが何かを言ったような気がしたが、うまく聞き取れなかった。とられることのなかった右手が、虚しく宙に浮いている。
「……政務に戻る」
それだけを言い置いて、ルイスが足早に隣を通り過ぎていったことだけは、分かった。慌ててセドリックが追いかける足音も、扉が重たげに閉まる音も。
何も出来なかった。右手を下げることも、見開かせた目を閉じることも、呼吸をすることも、何もかも。悲しいだとか、苦しいだとか、辛いだとか、そんな感情さえひとつも湧いてこない。宙に浮いたままの指先を見つめ、リリアはただ茫然と立ち尽くす。
そんな彼女を遠巻きに見ていた人々の間から、やがて、くすくすと小さな嘲笑がこぼれた。それは少しずつ波を大きくし、静まり返っていた室内に忽ち広がってゆく。
さすが“お飾り”の王太子妃ね。殿下はお嫌だったのでしょう。どうしてあんな女にしたのかしら。情けない。本当に彼女が王太子妃で良いのかしら。お顔だけよね。ひそひそと囁きながらも、決して隠す気のない嘲りが、次から次へと鼓膜に刺さってゆく。それをぼんやりと、聞くともなく聞きながら、足元で何かが崩れ落ちてゆくような気がした。轟々と、派手な音を立てながら。ぽっかりと口を開けた奈落に吸い込まれるように。
所詮、“お飾り”の王太子妃なのだ。
どこか遠いところでそう思った瞬間、視界に映る全てのものが真っ黒になった。




