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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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「――リリア」


 不意に声が聞こえ、時がとまった。まるでその声が、音も光も何もかもを奪ってしまったみたいに。陽の光にあたためられた風だけがしずしずと、アイリスの花のようなミレイユの髪の毛を靡かせながら吹き抜けてゆく。


 息を吹き返した心臓がどくりと激しく脈打ち、それに突き動かされた身体が、まるで思い出したみたいに漸く呼吸を取り戻す。ゆっくりと瞬きをする間に、鼓膜の裏側に揺蕩っていた声がするりと頭へ流れ込み、甘やかなぬくもりとともにじんわりと溶けて、奥深くまで沁み込んでゆく。


 聞き間違いだろうか、と思った。何故彼がここにいるのだろう、という驚き以上に、彼の唇が紡いだ言葉の方が、とても信じられなかった。幻聴だったのではないだろうか、と、そう疑ってしまうほどに。


「で、殿下……」


 張り詰めた沈黙を破ったのは、クラリスだった。彼女にしては珍しい、弱々しく掠れた声。

 その瞬間、背筋がぞくりと震えた。まるで警鐘を打ち鳴らすかのように、身体のそここでひんやりとした何かがはじけ飛ぶ。


 きっと、全て聞かれてしまっただろう。ミレイユの酷い罵りも、それに対して言い返してしまったことも、全て。そう思うと、頭のてっぺんから足の先まで、すっと血の気が引いていった。

 すぐにでも弁解しなければ――と、そう思うのに、声も言葉も喉に貼り付いて少しも出てこない。焦りだけが静かに胸の奥底で渦を巻き、どんどん深く沈んでいく。まるで鉛みたいに。


 背中に突き刺さる視線が、痛くてたまらない。鋭く、冷たく、まるで氷の刃を背に当てられているかのようだ、と思った。それを強く感じれば感じるほど、鼓膜の裏側で心音が轟々と鳴り響き、掌にはじっとりと汗が滲んでくる。羞恥と後悔。幾重にも重なった感情が胸を押し潰し、息苦しさだけが増していく。


 それでも必死に平静を装いながら、そっと振り返る。視線が交わった瞬間、どくり、とひときわ激しく心臓が跳ね上がった。ルビーのように美しい、それでいて氷のように冷たい真紅の双眸。本能的な恐怖が背を這い上がり、リリアはたまらず息を呑む。


 けれどルイスは、そんな彼女の心中など一顧だにせず、早々に視線を逸らすと、ナフキンで覆われた右手を、ほんの一瞬だけ見下ろした。咄嗟に、リリアは右手を、そっと身体の影に隠す。今さらそんなことをしても、もう遅いと分かっている。それでも、ルイスの視界に、これ以上右手を晒していたくなかった。


 問い詰められた時の言い訳など、何ひとつ用意していない。どう繕ったところで、彼の目を誤魔化せはしないだろう。

 どうすればうまく切り抜けられるだろうか、と不安に思うリリアだったが、しかしルイスは何も言わぬまま静かに目を逸らすと、そのままミレイユへ、鋭く冷ややかな視線を向けた。視界の端で、ミレイユの華奢な身体が、大仰に跳ね上がる。


「そんなに兄上が恋しいのなら、会いにいかせてやっても構わんが」


 地を這うような、低い声だった。戯けたように口角をにやりと上げていながら、ルイスの双眸は少しも嗤っていない。

 リオネルに会いにいかせる――。今は亡き人物に会わせる、ということは、それはつまり“死”だ。


 言葉の意味を理解した瞬間、会場に漂っていた緊張感が、一瞬にして凍りつく。誰も、何も言わない。言わないのではなく、言えないのだ。ルイスが冷徹な人間であるというのは、この場にいる誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。そんな男の口から“死”を仄めかす発言が出てくれば、言葉を失うのも無理はない。


 リリアはそっと視線を動かし、傍らに立ち尽くすミレイユの顔を盗み見る。彼女はルイスの視線に射抜かれ、呼吸もままならない様子で、細い体を小刻みに震わせていた。ティーカップに触れた指先が、かたかたと小さな音を立てている。ぷっくりとした唇はすっかり血色を失い、憤怒で紅潮していたやわらかな頰も、生気が感じられないほど蒼白い。


 恐怖、動揺、嫉妬、屈辱。美麗な顔に混沌としながら滲む、たくさんの感情。その裏にひっそりと隠れていながら、それでも時折垣間見える切なさや悲哀を見て取り、リリアは、ああ――と思う。思った途端、唇が勝手に動いていた。

 もしかしたら彼女は――。


「……このような騒動を招いてしまったのは、偏に主催者たる私の至らなさによるものです。どのような責めも、私が受けるべきことでございます」


 ミレイユを見据えていた赤い瞳がするりと動き、リリアを真っ向から射抜く。怖くないわけではない。不安がないわけでもない。少しでも気を緩めれば俯いてしまいそうで、それを堪えるのに必死だった。


 それでもリリアは、ルイスの冷たい視線を受け止め、真っ直ぐ見つめ返す。目を逸らしてはいけない。逃げてはいけない。その後押しをしてくれるのは、相対している男のくれた言葉だ。彼に支えられながら、彼に立ち向かっている。


 重苦しい、ひりひりとするような沈黙が流れ、やがてルイスが苛立たしそうに顔を歪めながら、呆れを含んだ溜息を深々と吐き出した。


「そんなお人好しでは、いつか足を掬われるぞ」


 そう言って、ルイスは近くに控えていた使用人たちへ静かに指示を出し、集っていた賓客たちをひとり残らず会場から下がらせた。蒼白な顔をしたままのミレイユも、今にもリリアへ駆け寄りそうなクラリスも、等しく、全て。


 全員が蔓薔薇のアーチを潜って王城の方へと消えていったのを見届け、ルイスはもう一度溜息をこぼしながらリリアへ歩み寄る。靴音が近づく度、それに呼応するように、鼓動がどくり、どくりと早まってゆく。


 遅れてやって来たセドリックが、リリアの右手を見て、ぎょっと目を見開かす。ふと見下ろすと、真っ白だったナフキンに、いつの間にか真っ赤な鮮血がじっとりと滲み込んでいた。今頃になって、漸くじくじくとした痛みが、傷口に広がってゆく。出血はすぐにとまるだろう。けれど、暫くはペンを握るのに苦労しそうだ、と思った。もしかしたら傷跡も残ってしまうかもしれない、とも。


 「侍医を呼んできます」と慌てて駆け戻ろうとするセドリックを、しかしルイスは一瞥で制し、リリアの傍で足をとめた。そんな彼のかんばせを、リリアはおずおずと上目で見つめる。


「あ、あの……」

「傷口を出せ」


 出過ぎた真似をしたことを詫びようと、恐る恐る口を開いたリリアに、ルイスは淡々とした口調で言い放つ。その意図をすぐには汲み取れず、リリアは思わずきょとんとした表情を浮かべ、「えっ」と戸惑い交じりの声をこぼした。傷口を見たとて悲鳴を上げるような人でないことは、分かっている。しかし、だからといって醜いものを見せるのはいかがなものだろう。目にして気分の良いものではない。


 暫し逡巡し、しかしルイスの向ける無言の圧に抗しきれず、リリアはそっと右手をあげた。傷口を覆っていたナフキンを外し、皮膚の内側まで沁みるような痛みに耐えながら、掌を上へ向ける。皮膚の所々にこびりつく、乾いてかさかさとした赤い汚れ。傷口からぷっくりと滲み出て、じわりじわりと広がってゆく真っ赤な鮮血。


 そんな掌に、ルイスは躊躇うことなく自身の左手を重ねた。上からやさしく覆い被さるように。刹那、ふわりと風が吹いたように、触れ合った掌の隙間から、淡い光が漏れた。


(あたたかい……)


 それはまるで、春陽を思わせるようなやわらかなぬくもりだった。掌全体をぬるま湯に浸したような。或いは、たっぷりの真綿で包んだような。じくじくとした鈍い痛みが、少しずつ鎮まってゆくような気がする。すうっと、溶けるように。


「で、殿下っ! それはっ……!」


 慌てて止めに入ろうとしたセドリックの声が響いたが、ルイスは気に留めたふうもなく


「構わん。これくらいすぐに治る」


 と、ひどく落ち着いた声音で返し、重ねられた手を静かに見つめた。感情の読み取れない、澄んだ赤色の目で、じっと。


 そんな彼から目を逸らし、重ね合わされた手に視線を戻した――その瞬間だった。視界の端にこぼれ落ちる赤いものを見つけたのは。


 何が起きたのか分からず、リリアは目を瞬かせる。ナフキンから血が滴っているのだろうか、と、一瞬そう思った。けれどすぐに、血が滴っているのがナフキンではなく、ルイスの右手だと気付き、リリアはぎょっとする。慌てて目を向ければ、彼の右手は、思わず背筋に震えるほど真っ赤に染まっていた。掌に、線のような傷口が幾つもある。痛みはあるだろう。痛くないはずがない。けれど彼は、眉ひとつ動かさずに、リリアの右手を見下ろしている。


 咄嗟に、リリアは右手を引いた。このままではいけない、と、本能に突き動かされて。

 けれどもそんな彼女の手を、ルイスは左手でぎゅっと握り締めた。まるで逃げることは許さない、とでも言うように。その力強さに、リリアは息を呑む。掌の痛みは、すっかりなくなっていた。なくなったけれど、それはただ“移った”だけなのだと、リリアはすぐに悟る。


 ルイスの異能は“治癒”だ。それは自他ともに使用出来る能力だ、と、いつだったかクラリスが言っていた。


 けれどそれは、本当であり本当ではないのだ、と。リリアは唇をきつく引き結びながら思う。

 恐らく彼の異能の主たるものは“自己治癒”だ。他人の負った傷を癒やすのは、きっとそれの応用にすぎない。つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――。そうであるなら、セドリックが慌てて止めに入ったのも頷ける。彼は今やたったひとりの“後継者”だ。そんな彼の身体に何かあってはならないのだから、使用を禁じられていたとしても不思議ではない。


(どうして……)


 問いかけたくても声にならないまま、リリアはただ重ね合わされたルイスの左手を、じっと見つめる。異能で癒えるとはいえ、それでも傷は確かに彼の身体に刻まれるのだから、もちろん痛みだってあるはずだ。破片が刺さった傷を、些細なものだと言われればそれまでだけれど。しかし、それでも傷であることに変わりはない。


 こんなことなら――。今にも泣き出してしまいそうにくしゃりと顔を歪め、リリアは唇を噛み締める。

 そんな彼女のかんばせをちらと一瞥し、ルイスは静かに鼻で嗤った。


「……君に、俺の何が分かる」

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