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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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変わりつつあるもの

 ふと、薔薇の匂いがした。奥深い華やかさの中に、爽やかな甘さの混じったような、ふくよかな匂い。


 足を止め、風の流れてくる方へと目を向けると、賑やかに飾り立てられた一角が見えた。艶やかに咲き乱れる薔薇、小さな花をたっぷりと茂らせた灌木、それらに少しも劣らぬ色とりどりの鮮やかなドレス。どこからともなく飛んできた小鳥が、鈍色の石畳の敷き詰められた通路の上を、細長い影を落としながら羽ばたいてゆく。


「折角の機会ですから、お顔を出されてはいかがですか」


 視線に気づいたらしいセドリックが、微笑を滲ませた声をかけてくる。その言葉にルイスは眉を顰め、肩越しにセドリックに目を遣りながら鼻で笑う。


「行きたければ、お前ひとりで行って来い」

「それは、ご勘弁いただきたいものですね」


 苦笑を浮かべながら首竦める彼に、ルイスはにやりと口角を上げる。

 女ばかりが集う場に出向くなど、どんなに頭を下げられ乞われようとも、まっぴら御免だった。“美しい花には棘がある”とは、実に言い得て妙だと思う。穏やかに微笑み合い、軽やかに言葉を交わしているように見えて、薄い水面の下には棘の生えた蔓が幾重にも複雑に絡み合っている。その冷たい鋭さと、ぞっとするような悍ましさは、男同士の比ではない。


「それにしても……雲行きがよさそうではありませんね」


 心配そうに庭園へと目を向けるセドリックの後を追い、ルイスもまた視線を戻す。

 暖かな陽光に照らされた会場は、一見華やかでありながら、その実、異質な緊張感がそこここに滲んでいた。遠目からでもそうと感じ取れるほどに、はっきりと。誰の顔にも、笑顔はひとつもない。引き攣り、或いは青褪めたかんばせばかりが、ずらりと並んでいる。そんな彼女たちは一様に、ティーカップを手にすることも、菓子に指を伸ばすこともせず、ただ一点を、息を殺すようにしてじっと凝視している。


 その視線を辿って、最も端に置かれたテーブルへと目を遣ると、そこには見慣れた姿が三つ、不穏な空気に包まれながら並んでいた。エルンスト家のクラリス、モンレーヴ家のミレイユ。そして、淡い桃色のドレスを纏い、慎ましくティーカップを持ち上げるリリア。


 女の社交場は、男のぶつかり合い以上に戦場だ――。いつだったか、母であるヴィクトリアがそう呟いていたのを、ルイスはふと思い出す。剣を握ることも、拳を振り上げることもない、それは静かな戦場だ。そこは時に、本物の戦場以上に血腥い。


「放っておけ。あれくらい捌けないようでは、王太子妃は務まらん」


 そう言って、ルイスは小さく溜息をつきながら、手元の書類へと視線を戻そうとした――その時だった。

 ぱりん、と何かが派手に砕けたような音が、微かに聞こえた。砕けたというより、激しく弾け飛んだような甲高い音。それに続いて、幾つもの小さな悲鳴が立て続けに巻き起こり、わらわらと耳へ届いてくる。


 いったい何事だ、と訝りながら再び庭園へと目を向けたルイスは、そこに広がる異様な光景に、思わず眉を寄せた。


 リリアの右手にあったはずのティーカップが、いつの間にか跡形もなく消えている。彼女の手にも、ソーサーの上にも、ない。まるではじめからカップなど存在していなかったように。そうでありながら、リリアはただぼんやりと、広げた掌をじっと見下ろしていた。ただ静かに。ぴくりとも表情を変えないまま。


 彼女の傍らには、紅潮した顔でじっと佇むミレイユの姿があった。表情まではよく見えないが、しかし、彼女の周りに張り詰めた空気が漂っているのは分かる。それにあてられたのか、数人の令嬢たちが怯えたように席を立ち、身を強張らせながら距離を取っていた。さざ波のようなざわめきが、庭の一角を冷たく蝕んでいる。


「異能……でしょうか」

「さあな」


 深々と溜息を吐きながら、ルイスは片手に握っていた書類を、セドリックの胸板へ無造作に押し付けた。「えっ」と戸惑ったような声が聞こえた気がしたが、それには応えず、ルイスは気付かぬふりをしたまま通路を逸れ、瑞々しい緑色をした芝生の上へ足を踏み出す。


 あの様子では、ミレイユとの間で何かがあったのだろう。芝生の一角を超え、煉瓦の敷き詰められた細路を横切りながら、ルイスは眉間に寄せた皺を深める。彼女はモンレーヴ家の娘だ。父親であるロドリク・モンレーヴは、国王レオニスと、嘗て王太子であったリオネルには厚い忠誠を捧げているが、“()()()()”をきっかけに、王太子の座を継いだルイスに対しては、今なお頑なな拒絶を示している。


 そんな男の娘ならば、王太子妃であるリリアにもまた険悪に接したとしても頷ける。

 けれど、それは的外れというものだ。彼らが拒んでいるのは、あくまでルイスであり、その妃であるリリアではない。


 現に、近づけば近づいてゆくほど、ミレイユの上げる甲高い叫び声が次から次へと耳に届いてくる。リオネルの死を踏み台にした男。後継者としての器。女のような顔をしただけの男。強さも器の大きさもないくせに――。

 そんな下らない難癖をリリアに投げつけて、いったい何になるというのだろう。彼女には何の罪もないはずだ。ただ“王太子妃”であるというだけで、彼女には無関係の罵声を浴びせるのは筋違いも甚だしい。


 親が親なら子も子、ということか。そう呆れながら溜息をつこうとした時、ふと、リリアがゆっくりと腰を上げるのが見えた。


「……ここがどこであるか、お分かりですか」


 普段とは異なる、冷淡なほどに落ち着いた声音。それが、あのリリアの口から発せられたことに驚き、ルイスははたと足を止める。

 ミレイユを真っ直ぐに見据えながら佇むその後ろ姿には、いつもの気弱な控えめさも、遠慮がちな柔らかさも、はたまた怯えたような気配もまるでない。

 そこに立っているのは確かにリリアであるはずなのに、まるで全く別の誰かが毅然と佇んでいるような錯覚を覚え、ルイスは思わず息を呑む。


「私のことは、どれだけ貶していただいても構いません。私自身への侮辱であれば、いくらでもお受けいたしますわ。所詮、“お飾り”の王太子妃ですもの」


 凛とした口調だった。ルイスは僅かに目を瞠る。


「けれど、殿下はそうではありません。どんなにお忙しい時も常に民を想い、誰よりも国の未来を考えておられる。そんな素晴らしいお方なのです。だからこそ――殿下への侮辱だけは、看過出来ません」


 馬鹿な女だ、と思った。思いながら、ルイスの脳裏には、青いデルフィニウム越しに見たリリアのやわらかな笑みが浮かんでいた。初めてお茶に誘ったあの日に彼女がこぼした、心から喜びを溢れさせたような、明るくやさしい笑み。


 随分素直に笑うようになったな、と、あの時何の気なしに告げたのだ。それはただの感想だった。


 初めて謁見の間で相対した時には、あんなにも顔を強張らせていたというのに。それ以降も、彼女の見せる笑みはどれもぎこちない、乾いた仮面のようなものばかりだったというのに。


 けれどもいつからか彼女は、純粋に笑うようになった。飾り気のない、だからこそ無垢で美しい笑みを、自然と、顔いっぱいに咲かせるようになっていた。だから、思ったままを、他意もなく口にしたのだ。たとえば演劇や音楽の感想を述べるような、そんな調子で。それ以上でも以下でもない――はず、だった。


 けれどリリアはその言葉に、ほんの一瞬目を見開かせ、すぐにふわりと表情を綻ばせた。庭園に咲き乱れる、華やかな、それでいてどこか幼くもある大輪の薔薇のように。


 ――あまり自覚はないのですけれど。もしそうなのであれば、それは……殿下のおかげだと思います。


 あの時の彼女の声が、笑顔が、より鮮明に、色濃く蘇ってくる。風が運んでくるふくよかな薔薇の匂いのせいかもしれない。ゆるやかに靡くピンクブロンドの髪のせいかもしれない。はたまた、あの時と同じ、迷いのない真っ直ぐとした声音のせいなのかもしれない。


 ほんの僅か、時の流れを忘れたように呆然と立ち尽くし、やがてルイスは我を取り戻すように、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。

 彼女は紛うことなき、オルフェリア王国のれっきとした王太子妃だ。いくら相手が公爵家の娘といえど、貶されてよい立場の人間ではない。そもそも腹を立てるのなら、それは自分のことに対してすればよいのだ。夫といえど、「お飾りでいい」と求めたような男への侮辱に、わざわざ憤る必要などない。


 リリアの華奢な背中を見つめ、やはり馬鹿な女だ、とつくづく思う。思うけれど、それでもルイスは無意識に唇を開いていた。


「――リリア」


 それは伴侶として名を呼んだ、初めての一言だった。

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