夜二人と感謝の星
――――――襖が静かに閉められる。
入ってきた紅夜は、湯飲みに温かいお茶を淹れて、円卓に置いた。
狭い和室の円卓に、暗く沈んだ表情の咲夜が座っている。ここ数日は寝れておらず、目の下にクマができていた。
「……風牙さんは」
「心を落ち着かせる効果のある香を焚いておいた」
「……」
屋梁落月の深淵で、風牙が意識を失ってからどれだけ経ったのだろう。その間、風牙は何度も目を覚ましたが、そのたびに泣き叫び、暴れた。心を落ち着けることができるよう、紅夜が部屋に様々な術を施したおかげで、今は眠りについている。
風牙が発狂し、泣き叫ぶ姿を見れば見るほど、咲夜の心が擦り切れた。
自分は何もできない――――――そんな無力に打ちひしがれるだけではない。
もう風牙は、立ち直れないのだ。それほどショックな光景が、あの部屋に広がっていた。
「うっ……」
「大丈夫か。其許にも休養が必要だ」
あの地下の研究所で、風牙の叫びを聞いた咲夜は、風牙の元へ走った。
そこにあったのは、大量の風牙の死体と、風牙の祖父の死体――――――咲夜でさえショックで吐いてしまうような光景だった。それを、当事者の風牙が見たとなれば、その衝撃は計り知れないだろう。自分のクローンが大量に造られていた、という事実だけでも恐ろしいのに、その前で自分の祖父が死んでいたのだ。咲夜は、考えれば考えるほど言葉では語りつくせないほど恐ろしいと思った。
「休みなさい。布団は敷いておいた」
「……いいです」
「駄目だ。今、其許が倒れたら、風牙が目覚めた時に誰が支える」
「……ッ」
咲夜の目に涙が溢れる。
「私に、何ができるの……!」
「……」
「あ、あんなことがあって……私に何ができるの!? 何もできない! 何を言ってももう意味がない! もうすべて……終わったのよ……」
咲夜は怖かった。どんな言葉を用いても、もう風牙の心を癒すことはできない。
度重なる絶望が、風牙の心を殺してしまったのだと――――――。
そんな咲夜の言葉に、紅夜は咲夜の頬をぶった。
乾いた音がして、じーんと頬が痛み、咲夜は我に返る。
「咲夜。私は、風牙の傍に其許がいてくれたこと、本当に良かったと思っている。無力などではない。決して」
紅夜は力強い瞳で咲夜を見つめる。
「其許は、自分の意思で、ここまでついて来た。それが、どれほど尊く、風牙にとっての希望であることかわかるか」
咲夜は紅夜の深紅の瞳に吸い込まれそうになった。
風牙が屋敷を出て行くと言ったあの時、自分の心は決まった。
今度は自分が、風牙の助けになりたい。苦しみも悲しみも、一緒に分け合いたい――――――。
一人では乗り越えられない悲しみも、二人でなら乗り越えられるかもしれない。言葉を交わすことが全てではない。
咲夜は改めて自分の気持ちを整理する。
風牙に対する思い――――――それをきちんと伝えなければならない。
「……ごめんなさい」
「今は、休みなさい。風牙の心はまだ、死んでいない。風牙は……必ずこの世界の希望となる。どれほど打ちひしがれても、何度辛い経験をしても、必ず立ち上がる」
紅夜はどこか物寂しそうな表情で、円卓の湯飲みを見つめていた。
咲夜は、紅夜の用意した布団の上に横になった。
紅夜は咲夜に寄り添い、入眠するまで傍に居続けた。
= = = = = =
咲夜が眠った後、紅夜は一人縁側に出る。小高い丘の上に立つ功刀家からは、変わらない屋梁落月の街が望める。
小さな足音が紅夜の近くまでやってくると、横にどかんと座り込んだ。
「大変だったみたいっすね、幾夜っち」
「もう幾夜ではない」
「あ、そうだったす」
朗らかな声で照れる御剣岳人は、空に広がる星々を眺め、にっこりと笑った。
「ここまで来るのに半世紀っすよね。やっとふーがっちに真実を打ち明けて、佗汰羅を打ち破った。なのに浮かない顔してる」
「ああ。そうだな」
「どうして?」
「……」
紅夜は目を細め、空を見上げた。
「失敗したのだ。もう手遅れだった。これでは厳夜に合わせる顔が無い」
「うーん。オレっちにはよくわからないっすねー」
「……」
岳人は紅夜の横顔を一瞥し、朗らかに体を揺らした。
「紅夜っちは噓つきっすからね。失敗とかと言いつつ、弱い者に寄り添おうとしてくれるじゃないっすか。俺っちを助けてくれた時もそうだった」
岳人の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。運命に翻弄され、命を失う直前に、紅夜はすべてを壊して救ってくれた。だからこそ、紅夜について行こうと決めた。
「ま、オレっちは、紅夜っちのために何かできたら、それで満足っすけど」
「……済まぬな」
「おっ。元気出たっすか? 元気でた? オレっちのおかげで?」
「はいはい有難う」
紅夜は肩の力を抜くと一転、真剣な表情で問いかける。
「それで、どうだった」
「施設はくまなく調べたっすよ。紅夜っちの言う通り、あの施設でふーがっちのクローンを造っていたのは間違いないっす。研究日誌や資材はもう、本格的で本格的で……ガロウズ博士が感心してたっす。相当有力な研究者たちが働いていたのは間違いないって。積み上がっていた死体と、ふーがっちのおじいさんのご遺体は、ガロウズ博士が興味持っちゃったんで調べてもらってます」
「そうか」
「それで、こんなものが出てきたっすよ」
岳人はダボダボのジーンズのポケットから、折りたたまれた書簡を取り出す。
それを読んだ紅夜の眼光が鋭くなる。
「あのおじいさんの遺書っすね。ふーがっち宛っす」
「……これは預かる」
紅夜は立ち上がると、ふすまを開ける。
「ありがとう。皆には感謝している」
「これからどうするつもりっすか?」
「……足掻いてみるよ。最後まで」
「? よくわかんないっすけど、また遊びに来るっすね」
岳人は気だるげにあくびをすると、にっこり笑って森の方へ歩いていく。
「岳人」
「ほい?」
「……本当に、これまでありがとう」
岳人は紅夜の言葉に、一瞬目を丸くした。しかしすぐにその意味を理解し、紅夜をからかうように笑った。
「人間、辛いときこそ踊らにゃソンソンってね」
紅夜は森の奥へ消える岳人を見送り、一際大きなため息を吐いた。
「希望は、まだある……厳夜が残したたった一つの希望が」
紅夜は重い体に鞭打つと、功刀家に背を向けて歩き始めた。




