第一章 深い記憶 第二節 傘内のしずく
*
通夜が営まれる寺院の裏手に、古い立派な庫裡がある。
頑丈な木枠としっくいでできた扉に続く、幅の広い立派な階段に二人の男が座っている。
「だんなもあの時、もうちょっと温かみのある行動を取ってくれさえすれば、こんなことにならなかったんですがね……」
男は言う。
「どういうことだ?」
天美 圭吾が聞く。
「ほら、あっしがぶつかった後に、磐城のだんなが助けてくれなかったら、天美のだんなはあっしに縄をかけようとしたでしょ?」
「何のことだ?」
「お侍は偉いと思っていたが、明治の声を聞いてもこれほどまでとは思わなかった」
いやみったらしくそう言って、男が立ち上がろうとする。
「待て、覚えている。あんたがめし屋の職人と客に追われて私とぶつかった事だろ、それならちゃんと覚えている」
「だったら話が早い。だんなはあの時あっしに……」
「違う。 ……今更格好つけるつもりもないが、あの時私は半分出すつもりで懐に手を入れたんだ。だが察した磐城のおやじさんに目で止められて……」
「えっ! それは……」
「ああ本当だ。それに私は御役目が終われば、取り縄・かぎ縄なんざ持っちゃいなかった……」
「何だって? それじゃあ出すのを止めたのは縄じゃなくって、銭を通す挿しひも……、 それは、本当に、……そうだったんですかい?」
天美は涙目で力なく頷く。
その男にとってその姿は、百の言葉よりも説得力があった。
「すまないことを、……ひょっとしたら俺は、……とんでもないことを……」
男は蒼白になり、がっくりと膝をつく。
天美 圭吾は、
「すまないが教えてくれないか、何か知っているのなら。 ……磐城のおやじさんが、……いったい、……いったい何をしたのか」
男に問うた。
男の名は茂吉という。
食いつめ者・与太者・鼻つまみ者、それらの呼ばれ方をしていた、……ということだけで彼の生き方は、おおよその察しがつくだろう。
茂吉はあの時、本当に食い逃げをするつもりなどなかった。
落としたか掏られたかして財布を失くした、というのも嘘ではない。
だが、自分がどういう眼で世間から見られているか、くらいは茂吉も知っていた。
「何をどう言い訳しても信じてもらえまい。ならば、食い逃げも一興」
つい面白半分に逃げ出してしまった。
そして運悪く、曲がり角で出会い頭に天美 圭吾とぶつかり、追って来た人たちに捕まった、ということだった。
「天美の旦那を真似て今更格好つけたりとか、信じてくれとは言いませんが、本当に最初からあんな事するつもりはなかったんでさ」
「あぁ、俺も今更だが磐城のおやじさんと同じで、お前さんの言うことを信じたよ」
「 ……だったら教えてくれませんか? 食い逃げした鼻つまみ者の、どこをどう信じたか」
今度は茂吉が、静かに天美 圭吾の言葉を待った。
「眼だよ。……捕まってほっとした、って言うのかな。……子供の頃あまり知らない者とかくれんぼして、それでもちゃんと見つけてくれた、……あの時のお前さんはそういう眼をしていた。……だから『ああ、コイツも寂しいだけで、悪い人間じゃないな』って。……俺達は色々な人間を見てきた。……真面目な人間も、横紙破りをする人間も、……たくさん、たくさんな。お前さんは自分のことだから見えないだろうが、俺もおやじさんもお前さんの眼を、見て……」
「そうですか。 ……そうだったんですか」
茂吉はいっそうがっくりと肩を落とす。
茂吉は天美 圭吾に話し始める。
……あの時、磐城 照信が、血の涙を流しながら茂吉に話したように。
*
茂吉と磐城があの時出会ったのは、本当の偶然だったという。
茂吉はそれまでにも何度か磐城と会ったことがあったが、それはいつも偶然で、お互い訪ね合うほどの仲ではなかった。
あの食い逃げ騒動の一件から、茂吉は生活態度を改めて彼なりに真面目な生活を送っていた。
ある雨の日、いつものように磐城のだんなの見慣れた後ろ姿に追いついて挨拶するために、茂吉はおんぼろ傘をさしたまま早足になる。
「おう茂吉、変わりないかい?」
磐城は知り合いの足音をみな記憶していたので、いつもなら振り向きもせずそう声をかけてくれた。
そうやって気付いてくれるのが嬉しかったので、いつも通りに茂吉は磐城に背後から近付く。
だがその日は、茂吉が背後から近づいても磐城のだんなに全く反応がない。
後方一間、いつもなら懐手のだんなの背筋がここでピシッと伸びる。
だがこの日は三尺まで近づいてもだんなに変化はない。
茂吉は、蛇の目を打つ雨音が邪魔をしているのだろうか、と訝しく思う。
一尺ほどまで近づくと斜め後ろから見えてきた。
だんなの両腕が肩からだらりと下がり、困ったような下がり眉に開いたままの口。
真横に並んで傘を差しかけて歩いても、だんなは茂吉に気付かなかった。
「だんな、……もし、磐城のだんな」
茂吉の問いにも、だんなの表情に変化はない。
口を開き瞬きもせず一点を見つめびしょ濡れで歩く。
だんなの身に、尋常ならざることが起こったことを茂吉は覚る。
「だんな、大丈夫だ、安心して下さい。ここはあっしに任せて下さい」
茂吉がそう言うと、
「なんだ、茂吉じゃねえか、 ……あのなあ茂吉、 …………かえでがな」磐城が力なく言う。
「へぇ、もう大丈夫です。だからだんな、ご安心なすってくださいましよ」
茂吉は空いた方の手で磐城の肩を抱き、泣き笑いしながら言う。
「あっしの勘は博打の時には外れるのに、こういう悪い時だけ当たっちまう。つくづく因果なこった」
「そうか、茂吉。すまん、本当にすまんな」
「お困りでしょうからお力に……、いや、ぜひとも」
肩を落とした男が二人、やぶれ傘に入り並び歩く姿は、なんともわびしいものであった。
茂吉は隣村のはずれまで、途中足が立たなくなった磐城のだんなを背負って歩いた。
茂吉はこの時住み込みで働いていたため、自分個人の住処を持たない。
なので、今こういう無理を言える相手は、隣村のはずれの廃寺でたまる与太者しかいない。
背中でだんなは何度も、
「すまない、本当にすまない」
を繰り返したが、
「こうやって背負える人がいるだけ、あっしは幸せモンです」これは、寂しい生き方を経験したことのある茂吉の本心だった。
そして深夜廃寺に着くと、茂吉が与太者達に何度も何度も深々頭を下げて頼み込んで空けてもらい、やっとそこに二人は腰を落ち着かせた。
だんなは最初放心していたが、酒で少し身体が温まると『有難う』を繰り返し、
……そして、無念を語りはじめる。
天美家も磐城家も同心の家。
婚礼を行うと単純に一つ名前がなくなる。
だが、娘を婚礼に出しても、磐城が誰か養子を迎えて後を継いでもらえばそれでいい。
それで磐城は充分だった。
「いやむしろ、もう自分の代で磐城の後を継ぐものがなくても、娘の幸せさえあればそれでいい」
そこまで考えていた矢先、天美 圭吾の縁談話を聞いて磐城は驚いた。
そして自分の娘にも縁談話が湧いて出る。
娘、かえではしきりに言った。
「いいんです、この方が絶対にいいんです。なんの不満、不足がありましょう。ええ、これでいいんです」
自分に言い聞かせるためだったのかどうかは、今となっては誰にもわからない。
「いやだったら、いやっ、って言えよ。 ……いつも遠慮も我慢もせず俺には、俺にだけはいつも正直に言ってたじゃねぇか。 ……なのになんだい、死ぬほどいやな時だけ黙ってやがって、 ……そんな時だけ言わねぇなんて、 ……あまりにもきたねぇじゃねぇか」
大の大人が二人あんどんを挟み、唇をかみ締めて泣いた。
深夜、磐城のだんなが酒の力を借りて眠ったことを確かめる。
磐城のだんなはあまりの悔しさからか、顔が紅潮し過ぎて目の血管が切れたのか、それとも涙を拭いた時に瞼の内側が切れたのか、悔し涙に血が混じった。
磐城のだんなの顔中に付いた血涙の後を、ぬるま湯に付けた手拭いで優しくそっと拭い、茂吉は姿を消す。
茂吉は別の与太者たちがいるところで、髪をまとめ直してもらい侍の装束を借り、そして途中で馬を盗みそれに乗り目的地に急ぐ。
この時代に単独で(馬子なしに)馬に乗るのが許されたのは、その資格を得た(主に上級の)武士だけであった。
なので茂吉は本当の急ぎの時のみ立派な侍の変装をし、騎乗で目的地に急ぐ。
夜が明け始めたころ、目的地の手前で馬を隠し、あとは徒歩でそこに向かう。
小さな印判屋が茂吉の目的地である。
そこには以前茂吉と共に諸国を巡った男、弓弦斎がいた。
二人は『(悪いモノを)祓いましょぉ~、(よい運勢を)開きましょぉ~』という控えめな掛け声と梵字ののぼりで各家々を廻る拝み屋だった。
だが、それまで与太者をしていた茂吉には、当然のことながらそれらの知識など全くない。
彼は荷物持ち兼雑用兼用心棒、そして話し相手として弓弦斎と共に西国を中心に廻った。
いつの世もそうだが、時は幕末の混沌としたご時勢、人々の不安がそこかしこにあったことと、弓弦斎の、人当たりはすこぶる良いが、総髪でごつい顔立ちの風貌がいかにも『祓います』という拝み屋然としていたこともあり、結構繁盛した。
そして、何故か二人はウマが合い、十年あまりのあいだ諸国を共に廻り歩いた。
その時に貯めたお金で弓弦斎は今の印判屋を居抜きで買い、これは蛇足だが、かたや茂吉のほうは、ほんの数回のばくちで全てをすってしまい今にいたっている。
茂吉はたまの休みや盆暮れ正月に弓弦斎を訪ね、お互いの健康を喜び合った。
さみしい生い立ちの茂吉が唯一心の許せる相手、それが弓弦斎であった。
それゆえ茂吉は、今日まで一度たりとも弓弦斎には泣きつくどころか、愚痴一つこぼすことすらなかった。
どれだけ困ろうが嫌な思いをしようが、絶対弓弦斎にだけは迷惑をかけたくない、いや、迷惑をかけない。
それが与太者・鼻つまみ者である自分を実の兄弟のように接してくれる弓弦斎への、茂吉なりの礼儀であり、けじめであった。
だが今回は、茂吉自らそれらの思いをはね除け、弓弦斎に頭を下げる。
「先生、今日は頼みがあって参りました」
「はいはい。その立派ななりをしているということは、急ぎの用で来なすったんだね」
「先生に向かって勝手言って申し訳ねぇんですが、何も事情は聞かねえでもらえやすか?」
「茂吉っぁん、……それは尋常ならざることなんだね。私も茂吉さんには何度命を救われたかわからない。だから茂吉っぁんに負けないぐらい恩義に思っていますとも。……よし、わかった、何も聞くまい」
「すまない、先生、本当にすまない。俺は先生と一緒に諸国を連れ回してもらわなかったら、それこそ今頃はどっかでのたれ死んでた。正直あん時の俺がいるから、今の俺が生きていられる。……だからこそ、今日の頼みごとのお礼は何でもするから言ってくれ」
「茂吉っぁんどうしたんですか水臭いもの言いで。私も今は家族以外では茂吉っぁんだけが身内だと思ってるんだから、一切の遠慮なんざいらない。さぁ、事情も何も話さないで、して欲しいことだけ言ってくださいな」
「人を、 …………人を呪い殺してえんだが、できますか?」
この言葉を聞いても弓弦斎は驚かなかった。
「できなくはない、……が、 ……やらないほうがいい」
「できるんですかい?」
「……う~ん、できるとは言ってない。 ……が、できなくもない」
悪いものを『祓う』ということは、悪いものの本質、またはそれ自体を把握していないことには不可能な話である、
弓弦斎はその方面のプロであった。
だが、プロフェッショナルなだけに『呪われる者』と、そして『呪う者』の心理的なことをよく知っている。
それゆえに、親しい間柄の茂吉には『あちら側』の経験をして欲しくなかった。
弓弦斎は思い余って茂吉に言う。
「やっぱりダメだ、人を呪わば穴二つ。茂吉っぁんも俺と一緒に拝み屋稼業してた時に見ただろ。強い呪いほどその反動も並大抵じゃぁない。呪った相手にもしものことがありゃぁ……。すまねぇがやっぱりだめだ」
「俺じゃねぇ、俺の恩人さんが……。そうか、そのテがあったな」
「なんだい? そのテって」
「そうだよな、だんなが……、おっといけねぇ、あぶねぇあぶねぇ」
呪詛のたぐいは常に沈黙が何よりの力であること、を、茂吉が思い出す。
「よしたほうがいいよその人のためにも、茂吉っぁん」
「先生には申し訳ねぇが、逆にこれで俺の腹は固まった。先生、新しい、誰も聞いたことがないような呪いって知りやせんか?」
天美 圭吾憎しの茂吉は、磐城のだんなとは別のところで決断をした。
「なくはない。 ……だけど茂吉っぁん」
「大丈夫、先生にも誰にも迷惑はかけませんって」
「何でも言っとくれとは言ったが、……これは、う~む」
こうして茂吉は、半ば強引に弓弦斎を説き伏せたかたちとなる。
弓弦斎は、数日前に印判の材料を仕入れに行った先で偶然見つけた、南蛮渡来の呪術『キメラの秘術』が書かれたものを手に入れていた。
そして茂吉は弓弦斎に、儀式に必要なものを取り寄せる手配を頼み、帰り道も馬に乗り急ぎ磐城がいる廃寺へと戻った。
茂吉が廃寺に戻った頃には昼過ぎていた。
磐城のだんなは呆然として壁にもたれて座っており、茂吉の姿を見てやっと人らしい表情を浮かべた。
「だんな、まず腹ごしらえして、そのあとちょっと話を聞いてもらいてぇんだが」
だが磐城は、茂吉が菜めし屋から運んだ飯を食べながら『すまんな』を繰り返すだけだった。
食事が終わると、茂吉は磐城のだんなが聞いている聞いていないに関わらず、『キメラの秘術』について一方的に話し始める。
一通り話し終わりだんなを見ると、……磐城のだんなは泣いていた。
そして、磐城は静かに言う。
「そうだな、そうでもしてやらなきゃ俺よりも娘が、……かえでが不憫でならねぇやな」
呪いは決断された。
古来より「キメラ・キマイラ」と呼ばれる『合成獣』の話は洋の東西を問わず多くある。
それは人々の経験上「不可能」であるからこそ、化け物・妖怪・モンスターとして存在したと思われる。
現代においては『拒絶反応』という言葉を知っていると話の通りが早い。
同じ人間同士でも、臓器移植等で最も障害・ネックとなるのを、異種間の移植など、現代科学でも未だに不可能である。
あえてそれを行おう、というのが『キメラの秘術』であった。
だが、儀式を行うには問題も少々あった。
弓弦斎のところにあった書物からの抜粋には「バラクーダとあほうどりらしき鳥を併せる」と中途半端な意訳も問題なのだが、それ以前に、その当時日本ではバラクーダ(オニカマス)もあほうどりもそうそう簡単には手に入らなかった。
なので茂吉たちは別の鳥と魚を用意することにした。
磐城のだんなが『キメラの秘術』を知っていることなどまず有り得ない。
なので多少細かいところが違っても、全く問題はないと言えた。
あとはこの日から儀式当日までに行うことや全体的な流れの細かい段取り、それらを二人は、弓弦斎が逗留する宿屋で、短時間だが綿密に打ち合わせ、箇条書きにした進行表のようなものを弓弦斎が作り、それを茂吉が一生懸命に覚える。
二人ともその姿は以前と全く変わらなかった。
こうして二人がコンビを組んで以来、始めて茂吉が太夫(儀式を執り行うときの司会進行役のようなもの)を勤めることも決まった。
手配した鳥と魚はすぐには届かない。
早くとも次の日、遅ければ二、三日かかるかもしれない。
それを待つ間に、儀式の準備に茂吉と磐城のだんなはとりかかる。
ヒノキの板を茂吉が調達し、台を磐城のだんなと作る。
合成獣、キメラを載せるための八足と呼ばれる台が、大きめのを一つと、小さめの八足が二つ。
木を鋸で挽きかんなで削り錐で穴を開け竹の釘で止める。
様々な手間仕事を手伝ってはその日暮ししていた茂吉の、ちょっとした技術とちょっとした知識と、生来の手先の器用さがここでは充分に役立ち、素人仕事ながらしっかりとしたものが出来上がる。
それとは別に作業台も作った。
それら全てが完成した時にはもう日が沈んでいた。
この日、手配した物は届かなかった。
菜めし屋から届いた夕飯を二人で済ませると、茂吉はさらしを取り出す。
ろうそくの灯りの下、すずりにお酒と塩を入れて墨をすり、弓弦斎のところから借りてきた書物を手本に、文様・呪文をさらしに書いてゆく。
茂吉にこの作業は思いのほかキツかった。
それは無理もない。
いくら働き盛りとは言え、昨日から一睡もせず、しかもあまり得意でもない騎乗までこなし、常に小走りであった。
そこに薄暗いところでの細かい作業。
茂吉は舟をこいでは「ハッ」と目を覚ます。
それを何度か繰り返し、ついに幾度目かの船出でそのまま眠りこけてしまった。
茂吉は呆然としている。
部屋中に敷き詰められたさらし。
もともと真っ白なさらしに細かい紋章・文様・アルファベット・ギリシァ文字・梵字、がびっしりと書かれている。
床一面がモノトーンの世界。
だが、部屋の中心だけが天然色。
部屋の中心に倒れただんなの身体の周りが血の海だった。
「こうならねぇように、こうなっちゃいけねぇと思ったから無い知恵を絞って……」
茂吉はがっくり膝をついた。
「やっとご恩に報いることができる、力になれると……」
茂吉の本心。
「だが結果はこのざまか……」
無力感が心を占める。
「 ……あのぉ、もし、あのぉ」
茂吉が飛び起きて、あわてて座る。
「こちらに置いといてよろしゅうござんすか?」
「おっ、おう、いつもすまない、朝の早くから」
寝ぼけ眼で茂吉は代金と心づけを、ひどく焦りながら菜めし屋の若い衆に渡す。
「茂吉さん、具合悪いんですか?」
茂吉と以前から顔見知りである菜めし屋の若い衆が、思わず聞いたほどのものすごい寝汗だった。
茂吉は、
「いや、疲れてただけだ。ありがとよ」と礼を言い、そして、気付く。
「だんながいない……」
茂吉は菜めし屋の若い衆のことも忘れて、裸足で外に飛び出す。
寺の敷地内を見渡すと、衣服をキチンと脇にたたみ、下帯一つで井戸に向かって合掌する磐城のだんながいる。
茂吉は全力で駆ける。
だが寝起きで前日の疲労と筋肉痛が残った身体は、思うように前に進まない。
「だっ、だんなっ! 待って、待って下さい。お願いです、お願いだから」
磐城のだんなは振り返る。
「おや、起こしたか。これはすまないことをした」
だんなは穏やかな顔つきでそう言った。
一気に茂吉が拍子抜けして井戸端でへたり込む。
磐城のだんなは水行・水ごりを行おうとしていた。
「せっかく茂吉、いや、茂吉さんが色々教えてくれてるんだ。こっちだってそれなりの心構えってもんを培わないと失礼だからな」
そう言って磐城のだんなは、しぶきを上げながら水行を始めた。
二日前のだんなとは別人のようだった。
磐城のだんなはさらしに文様を描きながら、少しくだけた口調で言った。
「茂吉さんよ、俺はな、本来なら今頃娘を見送らなくちゃならねぇ、……すまねえぇ、最後まで言わせてくれ。……本来なら一人娘、こんなとんでもねぇ親不幸事でも、キッチリ最後まで面倒見るのが親の務めだと思う。だがな、……俺にはとうてい堪えられるこっちゃない、それほど、それほど……」
しばらくは言葉にならなかった。
茂吉は文様を書く手を休めずに、黙ってだんなの言葉を待つ。
だんなが涙や後悔、色々なものを飲み込み、そして続ける。
「 ……そこにお前さんがこうやって、俺なりの、今の俺にとって最もふさわしい弔いを持って来てくれた。ありがたいこった。本当に感謝している」
磐城のだんなは茂吉に手を合わせる。
「だんな、よしましょう。あっしが持ってきたのは、人目にさらしたり人様に自慢できたりするもんの、反対側にあるもんでさぁね。決して褒められたり感謝されたりするもんじゃござんせんよ」
「それでも……」
磐城のだんながそこまで言った時、外に足音がした。
いつもの菜めし屋の若い衆の足音ではない。
しかもここは普段与太者が群れる場所である。
咄嗟に茂吉は傍にあったノミを逆手に持つ。
「もし……、茂吉さまはこちらで。 ……お届け物がございます」
寺の朽ちかけた門をくぐり、本堂近くで男が声を張り上げている。
「おう、すまない。今そっちにもらいに行くからな」
茂吉がそっとノミを置き、表に出る。
「茂吉さんでいらっしゃいますか」
「ああ、そうだが」
ほうかむりした男が桶のふたを開け中身を茂吉に確認させている。
「立ち入った事ですが、こんなものを何に、……と言うか、いえ、何をなさるおつもりなのか、……良かったら教えてもらえませんか」
男のその問いに、
「決まってるだろ、ここは寺だ。弔いだよ」
「さっ、左様で……」
「人だって鳥だって生臭ぇモンだって、生きとし生けるものは皆仏さまだからな」
「そっ、そりゃそうですよね」
茂吉は心づけを多く渡し、
「すまえねが帰りにちょっくら弓弦斎先生んところに寄って『ありがとうございました』って茂吉が言ってたって伝えてくんねえか。本当にすまねぇとは思うが、この後もよろしく頼む」と、伝言を頼んだ。
ほどなくしてさらしに呪文・文様を書く作業が終わる。
ここから準備は第二段階に入る。
魚屋の大きな桶が二つ。
一つにはユリカモメの屍骸。
もう一つの桶にはマツカサウオという、うろこ一枚一枚が大きい、見ようによって頭部がしゃれこうべに見える五寸ほどの魚が、五尾入っていた。
「これか」
磐城のだんながつぶやく。
「だんな、今までのが下準備、ここからが本当の準備に入りやす」
「うむ」
「作った台の上に、三角を二つ互い違いに重ねたかたち (六芒星)を大きく書いた布を真ん中に敷いて、全てこの中で作業して下さい。 よろしいですか?」
「わかった」
「この鳥の身体んところ、尾以外の羽根をむしって、こっちの魚のうろこを植えてやって下さい」
「この魚のこの立派なうろこをこの鳥にか?」
「はい、羽の代わりに。この魚は体の前側のうろこはつながったようになってますんで、翼のところと身体の大きなところに使って、尾っぽの方は一枚ずつなんで、このウロコで鳥の体を埋めていきやしょうか。骨が折れるような手間ですが、こういったことは万事面倒なもんでして、あいすいません。それと、この魚のヒレと鱗にはトゲがございます。刺さりますんでお気を付けください」
説明をしていると、自堕落な暮らしを送る茂吉ではなく、 弓弦斎と共に諸国を廻っていた頃の茂吉に戻った。
「うぅむ、これは心してかからねばな。……では、抜いた鳥の羽はどのように?」
「はい、それは臓物を抜いたこの魚の腹に詰めて頂きましたらば、そちらは別に供養致します」
「ん? 呪いなのに供養?」
「はい、呪詛に使いません物は余計にタチが悪うござんすので、それらを野放しにすると無関係の人々に害が及ぶやも……。それはだんなの本意ではございませんでしょ?」
「なるほど。色々と作法・様式があるのだな」
茂吉は「はい」とだけ言って目を伏せる。
「すまんが俺はこういうことには暗くっていけない。あと、何か作法とか注意とかあれば全て教えてくれんか」
「はい、では」
茂吉が姿勢を正して答える。
「呪物に触る前と触った後は、必ずよく手を洗って、まず塩で、その後に酒で清めます。そのあと、口も先に塩、その後に酒ですすいで清めて下さい」
「呪いとはいえ、ある意味人知の及ばぬところの存在に頼ること。やはりそういうしきたりなのか」
「あいすいません」
「そのほかには何かあるかな?」
「いえ、もうそれくらいで、 ……あとは」
「 ……あとは、俺が懸命に行えば良いのかな」
茂吉は静かに頷いた。
こうして呪物の作成が開始された。
呪物の作成といっても、おどろおどろしいものも、不思議な仕掛けも何もない。
頭部はユリカモメのまま残す。
翼には大き目の鱗を付けていくので作業効率は良い。
だが、身体はそうはいかない。
魚の尻尾側のうろこを一枚剥がし、そのうろこに錐で小さな穴を開け、鳥も同じような場所の尻尾側のところの羽を毛抜きでそっと丁寧に抜き、縫い針に通した糸でうろこを毛穴に縫い止める。
そしてまた一枚また一枚と、次々と身体にうろこを縫いつけていく。
それに、数日にわたる作業においての腐敗防止のために、酒に塩を混ぜたものを青竹を組み合わせて作った霧吹きで、本体に定期的に吹きかけていく。
このような、ただただ地味な作業を延々と続けていくだけである。
*
「茂吉っぁん『呪う』ってことは、その人の心の中でわだかまったり、暴れまくったり、醜く固まろうとする化け物の置き場、と、その化け物の置き場への道筋を心の中に作るみたいなことだから。そのためには人を憎む気持ちを一旦見える形にしちまうのが手っ取り早い。それが呪物だ」
「呪物ってぇと先生、牛の刻参りの藁人形とかのアレですかい?」
「そうそう、脚は端から三五三、腕を端から三五三、胴と頭も三五三、男は頭に黒い糸、女は頭に赤い糸、はらわた代わりに髪を入れ、名前の紙を顔に貼り、逆さに干して十四日ってね。この時も糸を決まった回数藁に巻く作業をしている間、相手の名前と自分の名前を交互に三回ずつ、五回ずつ、と三五三五とつぶやき続けないといけないんですよ」
「そいつぁ面倒だ」
「その通り、ああいう呪物ってどれもこれも作り方が結構面倒でねぇ。その面倒な作業をしている間に『ええいもういいや、他人を呪うなんて馬鹿らしい事はやめだやめだ』って思ったり言ったりする人が結構いてね」
「それがさっき先生の言った『化け物置き場』ってヤツですかい?」
「いえいえ、これは『呪いで呪えなくする方法』とでも言いましょうか、これはまた別の話なんです。すいませんね、話があっちこっち行っちまって」
「いやいやこっちこそ話の腰を折っちまって申し訳ねえ。それにしても『呪いで呪えなくする方法』ってぇのはややこしいが言い得て妙だ。面白れぇから続けておくんなさい」
「だいたい恨む気持ちが軽い人はここでみんな辞めるんですよ。でもね、色んな意味で気持ちが強い人がたまにいてね、完成させるんですよ、呪物を。そういう人達にはやっぱり必要なんですよ、心の中の化け物の置き場がね」
「その置き場とやらはどうやって作ってあげるんで?」
「そうさねぇ、そういう人には牛の刻参りで言えば、実際牛の刻限に、白装束に一本歯の高下駄履いて、五徳かぶってろうそく立てて、つげの櫛をくわえて、木鎚で五寸釘を藁人形に打ち込む、ってぇことを、誰にも感付かれず道具一式全て自分で用意して、誰にも見られることなく七晩やり通させてあげることですかね」
「うっひゃぁ、呪いの儀式ってぇのは何から何まで面倒なモンでござんすね」
「そう、面倒でなきゃいけない。何と言っても他人様を呪おうってんだから簡単でいい訳きゃぁない」
「そらそうですね」
「だが逆に呪う側から見ても『もうここまでやったからいいや』っていう、達成感みたいなもんがあると自然と頭ん中のわだかまりも消えるようになってるのが、人間様のいいところだから、醜く固まろうが化け物になろうが、置き場さえ決まればそれほど厄介なもんでもなくなる」
「なるほど言われてみりゃそうだ」
「醜いものを抱えたまま生きるのはつらい。だけどちゃんと置き場を整えてしっかり据えてやれば、それは形を変えて化け物でなくなる。決してきれいなものにはなりゃしませんが、少なくとも醜くとも怖ろしいものでもなくなる」
「そう言われてみりゃそうだ先生。今度頭にくることがあったら、そん時ゃぁよろしくお願いしやすよ」
「いいですよ、茂吉さんが三年の間、一日たりとも頭から離れないことがあったら、そん時は相談に乗りますよ」
「あっ、それはない。俺ってばだいたいの事は一晩寝たら忘れっから、それだけで他人様を呪える身分じゃねぇや」
「それはそれで有り難いことだけどね、茂吉っつぁん」
茂吉と弓弦斎が諸国を巡っていた頃に、二人きりで山道を歩きながらそんな話をよくしていた。
そうやって弓弦斎は、呪いやら神仏妖怪の彼なりの解釈を、茂吉に面白く話してくれた。
まともな教育を受けていない茂吉は、弓弦斎からこういう話を聞くのが楽しくて仕方なかった。
そして、無学である自分のどんなに間の抜けた質問でも、いつも真面目に答えてくれることが嬉しく、心の底から感謝し、そして弓弦斎のことを深く尊敬していた。
茂吉は弓弦斎のところに行く道中、これらの話を思い出していた。
(磐城のだんなもこれであきらめをつけてくれたら……)
茂吉が言った『そのテ』とは、たいそうな準備をするだけで満足してくれないか、という期待だった。
*
磐城のだんなは終始根気も気力も絶える事がなく、作業開始から三日目の正午前、ついにキメラは完成する。
あとは儀式を残すのみである。
儀式は夜、日が沈んでから行われる。
その日は全く月のない夜、朔の日であった。
疲労の色が濃い磐城のだんなを気遣い、
「儀式の主役であるだんなはこっちの酒でも飲んで夜までゆっくり休んでおくんなさい。あっしは何か腹に入れるものをちょっくら仕入れてめぇりやす」と、茂吉が菜めし屋に向かおうと腰を上げる。
ちょうどその時、
「もし、茂吉さんはいらっしゃいますか」
外から声がかかる。
菜めし屋から出前が届いたようであった。
「お疲れじゃござんせんか? めし食って元気出しておくんなさいまし」
茂吉は料理を見て、
「おっと気が利くねぇ、今から行こうと思ってたところだ。ちょっくら中のぞかせてくんな。おいおい、これはご馳走だな。色々手間掛けさせちまって申し訳ねえ。ありがとうよ」と、何度も茂吉が礼を言って岡持ちを受け取り、
「だんな、これ食ってゆっくり休みやしょう、酒と一緒に、ね」と、嬉しそうに言った。
茂吉は横になった磐城のだんなを廃寺に残し一人で菜めし屋へ行く。
帳場で先払い代金では足らなかったぶんを精算しながら、この数日の心配りに対し丁寧に礼を言う。
日が完全に暮れた。
茂吉は床一面に敷いていたさらしをきれいに畳んで、台と共に持つ。
磐城のだんなは、六芒星の文様入りの布でキメラをくるんで持つ。
二人は無言で海岸へと向かう。
茂吉は昼間菜めし屋からの帰り、この砂浜で今夜の儀式の用意をしていた。
用意と言ってもそれほどたいそうなものではない。
だんながキメラを作っている間に、余った木切れを太さ半寸長さ一尺くらいに揃えたものを一まとめにしていた。
それを浜辺に持って来て、交互に正三角に置いていき、崩れないよう交差したところを藁で結ぶ。
それは上から覗くと六芒星形になるように組まれていた。
それを三つ作りそれにむしろをかぶせて人目を憚っておいた。
茂吉が先を歩き無言の案内で二人は目印のむしろのところに到着する。
六芒星形に組んだ真ん中の護摩壇の前にキメラを載せる台を置き、その両横の護摩壇の手前には供物台を置く。
だんなが運んだキメラを真ん中の台に載せ、両脇の供物台には米・酒・塩をそれぞれ置く。
そして茂吉が火打石をだんなに渡し、かぶせてあったむしろをほぐして藁にし、それに火を点けてもらう。
風のない波の静かな夜であった。
よく乾いた藁はすぐに火が点き、茂吉がそれを手で囲い磐城のだんなが息を吹きかけると、まるで命を吹き込まれたかのように炎が上がった。
その藁の火をむしろへ、むしろからから護摩壇へと移す。
ぱちぱちとはぜながら、ゆっくり火は広がり始める。
「だんなは呪文やらのたぐいはなにかご存知で?」
「いや、全く知らない」
「では、『あびらうんけんそばか』これだけで結構ですんで、儀式が終わるまで唱え続けて下さいまし」
「うむ」
だんなはかなり疲れた様子だが、自分を奮い立たせるように姿勢を正す。
太夫である茂吉が背筋を伸ばし、そして儀式は始まる。
弓弦斎と共に諸国を廻っていた頃、
「茂吉さん、山道で気分だけでも楽になるおまじない、呪文を教えてあげようか」
「おっ、そいつぁありがてぇ。是非とも教えておくんなさい」
「ちちんぷいぷい、ちちんぷいぷい、っと」
「 ……先生、そいつなら俺も知ってますぜ。もっと凝ったのというか、小難しいっていうか、そういうのをお願いしやすよ」
「そうかそうか、そいつぁすまないねぇ、そうさな、それじゃこんなのはどうですか……」
そう本気半分戯れ半分に教わった呪文、時には真言、また時には経文・祝詞などを、茂吉は少しだが知っていた。
もうほとんど忘れたと思っていたが、ここで護摩壇や台に載ったキメラを前にして、さらにだんなの前で姿勢を正すと、茂吉の口から勝手に呪文が湧いて出る。
そのまま茂吉は呪文を不思議なリズムに乗せて口ずさむ。
それとは別に磐城のだんなは「あびらうんけん……」を繰り返し唱えている。
キメラの本体を布に包んだまま、六芒星の護摩壇の上に載せる。
ゆっくりと布に火が点き、全体に火が回り始める。
そして護摩壇の火がいっそう大きく上がり、布が焼け落ちてキメラが燃え上がり始める。
「だんな、だんなの願いをこの御札に書いて下さいまし。書き上がれば念を込めてこちらに渡して下さい。あっしが火にくべてキメラにくわえさせます。そしてそこに書いたことをありったけの力を込めて、この火に向かって、キメラに向かって叫んで下さい。だんなが精魂込めたキメラがちゃんと願いを聞き届けて腹ん中に願いを飲み込んでくれたら、相手に向かって一直線に飛んでってくれますんで」
茂吉が御札を受け取り、振り向いて火にくべ、だんなが低く通る声で叫ぶ。
「我が家と同じ不幸を。……願わくは、干支一回りののち天美の家へと」
その時であった。
キメラはその鱗の身に炎の衣をまとい、羽音高く南の空に飛び立った。
第一章 第二節 傘内のしずく 終
第一章 深い記憶
第三節 キメラ飛翔の行方
に続きます。




