第一章 深い記憶 第一節 いい名づけ
裏導師 2 饒舌な鏡
令和七年 五月十日(土曜日)
この前の日、祖母の友人であった、道明寺さん経由で木地師さんに連絡してもらい、来訪の約束をした。
土曜日早朝の高速道路は渋滞もなく、目的の降り口から一般道を走り、お昼にはまだまだ、という時間に木地師さんのいる町に着いた。
そこからは少し道筋が複雑らしく、
「電話や地図での説明が難しいので、誰かをそちらに迎えにやる」そう事前に言われていた。
待ち合わせ場所は、直径一メートル以上ある大木が五メートルほどの長さで輪切りにされ横たわる、県道脇の材木置き場兼駐車スペースのようなところであった。
そこで電話で到着連絡を入れた。
あれから角成は、何度か道明寺さんからの要請で家に行き、冷凍してある梅の花でシップを作ったり、道明寺さんか道明寺さんの友人の、肩や腰や足を揉んだりしていた。
そのたびに多めのお礼を包んでくれたので、この時も角成の懐はまぁまぁあたたか目だった。
少し待っていると、反対車線に一台の軽トラックが止まり、助手席から中学生か高校生くらいの女の子が降りてくる。
「河内さんですかあー?」
その女の子は道の反対側から大声で角成に聞く。
「は~い、そうです~」
角成も大声で答える。
「おじさん、ありがとぉ」
女の子を残し軽トラックがゆっくり発車する。
車線を走って渡ってきた女の子は、
「ちゃんと持ってきましたよ……」そう言ってフルフェイスのヘルメットをトントンと叩き、
「後ろに乗せてもらえますか? 案内します」角成の単車のタンデムシートも同じ調子でトントンと軽く叩いて屈託無く笑う。
その女の子、身長は百六十センチくらいだろうか。
黒目がちな愛嬌のある顔立ちに、長いストレートの髪を後頭部の少し高めの位置でまとめて縛っている。
その女の子の髪からは角成の好きな香り、木の香りが薫ってきた。
女の子は髪の束ねたところを緩めて下にずらし、ヘルメットをかぶる。
角成は女の子がタンデムシートに乗る時に、しっかりと踏ん張って手を貸す。
その手つきはぎこちないが、優しい手の動きだった。
女の子は角成をじっと見つめ、
「若いのに紳士ですね、ありがとう」そう言って
そして女の子は誰に言うでもなく、
「ちっちゃなジェントルマンは、やっぱ若きジェントルマンか」ヘルメットの中で言ったが、角成には全く理解できなかった。
そして女の子の案内で、ゆっくりと木地師さんの家に向かう。
途中から舗装道路が砂利交じりの未舗装になる。
その後は数回のアップダウンと数度の曲がりくねった山間の道を走る。
そして最後に、小山をぐるっと一周するとまた舗装路になり、そこが木地師さんの家だった。
家と作業場は、田舎の一軒家には少し不似合いな感じのする鉄筋スレート葺きの立派なものだった。
そして女の子の案内で、角成は裏の作業場に通される。
旋盤・ろくろ・ジグソー・ボール盤、それらの機械類は正面南側の壁際に据えてあり、東側の壁には、鑿・鉋・鋸・木槌・金鎚などの工具類、西側の壁には金具・針金類が整頓されて掛かり、そして作業場の中央に作業台があった。
「おじいちゃんお客様来たよ~」
「おう、お疲れさん。遅かったから心配したが……」
頭髪はM字のオールバックの、ダンディーな木地師さんは、鼻先にかけた老眼鏡越しに言う。
「はっは~ん、カッコイイお兄さんのカッコイイ単車の後ろに乗せてもらったもんだから、遠回りしたな」
女の子が小脇に抱えたヘルメットを見て言った。
「ピンポ~ン。おじいちゃんのスーパーカブの後ろも好きだけど、やっぱいいよ、でっかいバイクは」
女の子は快活に笑う。
「あのう、突然の連絡、すいませんでした。道明寺さんから紹介されました……」
おずおずと角成が口を開く。
「あぁ、破魔……、おっとイカン、汐ノ宮さんの、葛葉さんのお孫さんの、えっと、……角成クンだったな」
「はい、河内 角成です」
角成は職人=ウルトラ頑固者だと思っていたが、この初老の木地師さんは角成の予想をはるかに下回っていた。
だがそれは、角成のおばあちゃんの『本当の名前』を知っていることと関係しているのだろうか。
角成はおばあちゃんから『本当の名前は絶対に他人に知られてはならない』と言われていたが、そのおばあちゃんの本当の名前を知っているということは、二人はそれなり以上の信頼関係を築いていたようである。
角成はそのことを聞きたかったのだが、生来の弱気の蟲が騒ぎだし、それに邪魔され聞くことができなかった。
「角成クン疲れたろ、ちょっとこっちの座敷で足を伸ばしなさい」
老木地師さんはそう言って、作業場の隅の二枚だけ畳が敷いて一段高くなっているところに角成を座らせる。
「私お茶入れてこようか?」
「おぉ、ちょうど何か飲みたかった。ありがとう、かーちゃんは気が利くな」
角成は木地師さんと、かーちゃんと呼ばれた女性をニコニコと見つめていた。
「へへへ、そうでしょ。おじいちゃんはコーヒーでいい? それから、そちらの婿殿は?」
「えっ? むっ、婿どのっ!」
突然のことだったので角成はひどく驚いた。
角成が呆然としている横で、
「角成クンのぶんは、秋恵さんに言うてあるからそれで」
「あれっ? なんかマズかった?」
女の子が少しいたずらっぽく言う。
木地師さんはさも嬉しそうな顔でかすかに首を横に振りながら、
「ええからお茶を入れてきてくれ、のどがカラカラや」
とだけ言った。
角成は色々聞きたいのだが『婿殿』の一言で一気に混乱してしまい、頭の中を整理できずにいた。
「角成クンは、葛葉さんからココのこと『とか』何か聞いてなかった?」
「それが、全く。ココを教えてもらったのも道明寺さん経由でしたし」
「そうか、聞いとらんか……。そんじゃぁ、私の名前も?」
「はい、知りません」
「こりゃスマンかった、私は天美 篤義、天に美しいと書いてあまみ、竹馬のあつに義理のぎと書いてあつよし。名刺持ってないから口頭で勘弁な」
天美さんはいたずら小僧っぽく笑う。
「あっどうも、僕は河内 角成です、汐ノ宮 葛葉の孫です」
「うん、知ってるよ」
「あっ、そうでしたね」
二人が無意味に笑い合う。
「婿殿ですか……」
「うん、そう」
「僕がですか?」
「そっ。……ということは、何も覚えてない?」
と天美さんは角成を直視して聞く、というか、問いただしぎみに身を乗り出す。
「はいすいません。 ……全く」
「なんちゅう無責任な!」
天美さんは畳を『どん』と平手で叩き叫ぶと、すっくっと角成の前に仁王立ちになる。
「えっ、あのっ、そのっ……」
猛烈に角成はうろたえる。
「キミ、本当に覚えてない?」
天美さんは中腰で膝に手を当て角成の顔を覗き込んで問いただす。
「はい、すいません」
角成が天美さんの勢いに飲まれる感じで土下座した。
本当は、角成が天美さんの視線を直視できないので、目を合わないようにしただけだった。
「まっ、しゃぁないよね。二・三歳くらいやったよねぇ、前にココに来たのは」
「えっ?」
「ごめんごめん、驚かせて、……スベったな、こりゃぁ。小さい時に会って、次が今、だからまだそこまで親しくもないのに、こんな冗談通じへんな。びっくりさせて申し訳ない」
天美さんは笑った。
「おまたせ~」
さっきの女の子が、お盆に大きなマグカップ二つと菓子器を持って現れた。
「はい、おじいちゃん。角成さんでしたっけ? まっ、いいや、婿殿も」
「あっ、はい、ども、ありがとうございます」
角成がキョドる。
天美さんが菓子器のふたをとり、
「ささ、お一つど~ぞ」
先程とは打って変わった、優しい面持ちと態度でそう言った。
流石に木地師さん宅だけあって、菓子器もろくろを使って木をくりぬいた、かなり立派なものだった。
角成は遠慮がちに『いただきます』と手を出す。
「 ……!」
その時角成は強烈な既視感に襲われる。
(天美さんの言った通り、僕はここに来たことがある)
角成は左手に持ったカップのレモンティーと、右手の揚げおかきを見て思い出した。
正確には部屋に充満する木の香りとレモンティーと揚げおかきの香りが混ざり合ったことがきっかけだった。
ひとの記憶の扉を開ける鍵は、映像よりも香りであることのほうが多い。
そして開かれた扉から、様々な情報、映像や音が、香りと共にこぼれ出す。
木の香りのする少女と分け合って食べた揚げおかき。
「いいなずけ、って言うんでしょうか? こういう場合」
「うん、そうなるかな? 何の書類も証もない、ただの口約束、でもないか? ひょっとして思い出した?」
角成は、
「はぁ、まぁ」とだけ言った。
「 ……あっ、コレ渡してって言われてたの忘れてた」
さっきの女の子がアルバムを持って入ってきた。
「おう、私も忘れてた」
「じゃ、おじいちゃん、私そろそろクラブの練習に行ってくる」
「おう、がんばっといで」
天美さんは立ち上がり女の子を戸口まで見送る。
「カッコイイ人で良かった。私本当にホッとした」
「何をぬかすか。早く支度して行って来い」
「は~い。それじゃ角成サ~ン、またバイクの後ろに乗せてね~」
女の子は元気に手を振り、そして走って行った。
去り際にローライズのジーンズとカットソーの隙間から見えたわき腹に、刺青の模様のような何かが見えたことを、角成は訝しく思った。
それと同時に彼女の真上一メートルほどのところに、黄金に輝く翼が一瞬だけ見えた気がした。
彼女との間をさえぎるように、
「学校のクラブ活動で弓道をやってまして。 ……あの子の母親が『お転婆娘でも弓道なら虫除けになってちょうどいい』とか言いましてね」
そう言い天美さんは笑った。
つられて笑ったが、角成の頭の中は色々あれこれと、全くそれどころではなかった。
「……あのぉ」
角成がおずおず許婚について切り出そうと口を開く。
「そうそう、今日は嫁取りに来たんじゃなくって、箱取りに来たんやったね」
そう言って天美さんは豪快に笑った。
そして角成は豪快な笑い声の勢いに押され、やはり何も聞けなかった。
角成は仕方なく、この日の主目的である大神様の箱を丁寧に取り出す。
その箱は水没した際の汚れやくすみはまだ少しあったが、箱の精度はミリ単位どころかミクロ単位の狂いすら感じられなかった。
天美さんは神棚に置いてあった新しい桐の箱と杉の小枝を下ろし、立派な塗りの鞘の短刀を抜き、それをささげ持った後新しい箱の前にそっと置く。
そして箱の蓋の部分に人指し指で九字を切り、どうぞ、という仕草で角成に差し出す。
角成は正座し直し、丁寧な動作で手をつき、
「ありがとうございます」
凛とした声で言った。
「古い箱は私に頂けますか?」
「はい、でも、せっかく作って頂いたものなのに、僕は……、その、何と言っていいか、……すいませんでした」
角成は手をついたまま深く頭を下げる。
「なんの、お顔を上げてください。この箱の汚れは角成クンが人の命を救った証。これはありがたく私に使わせてください」
今度は天美さんが深く頭を下げた。
「私は確かに角成クンより長く生きてきました。けどね、今まで人の命を直接救ったことって、ただの一度もない。だからありがたいんですよ、これが」
天美さんは、角成が丹念に何時間も磨いたが、まだ薄っすらと汚れが残る桐の箱に、もう一度頭を下げた。
角成は叱責を覚悟してこの日ここに来た。
道明寺さんを通じて木地師さん、天美さんにもう一度製作を依頼した時、
「新しい箱は手渡ししたい」と言われたことを、角成は当然だと思った。
丹精込めて作った品を『汚れたからもう一個』というのは、むしが良いを通り越して勝手極まりないこと、そう取られても仕方がない。
なので、謝るため、というよりは、大神様の桐箱を丹精込めて作った天美さんに、何の言い訳もせずに、叱られるためにここに来た。
だが、実際は天美さんが角成にお礼を言った。
角成は大いに戸惑ったが、
「ありがとうございました」 もう一度手をついて凛とした声でお礼の言葉を返した。
それが、今の角成としての精一杯だった。
そして角成は、大神様を新たな箱に移し、古い箱を天美さんに返した時、もう一度話を切り出した。
「あのですね……」
「ちょぉっといいかなぁ?」
だが天美さんはそう言って、突然角成は右手の指のそれぞれの長さと太さを測りはじめた。
「ふむ、ええ指してはる」
天美さんはそう言うと機械に向かって何かを作り始めた。
「すぐにできるから、そこのアルバムでも見とって下さい。角成クンも写ってますから」
天美さんはそう言って優しく笑った。
角成は言われるままにアルバムを開く。
真新しいアルバムは今日のために古いアルバムを整理し直したらしかった。
表紙をめくると、日付と『葛葉さんと角成くん』と書かれていた。
そこには在りし日の葛葉おばあちゃんと幼い角成、それに今より少しだけ若い天美さん、そして、角成と頬をくっ付けて笑い合いながら揚げおかきを食べるポニーテールの少女が写っていた。
角成はそれらの写真を見ておぼろげに思い出す。
その少女と共におばあちゃんと電車に揺られて、そして駅を降りてタクシーに乗りこの作業場に来たこと。
ここでは少女と外を走り回って、この場所で共にお菓子を食べ、レモンティーを飲んだ。
それからまた遊び、そして帰りの電車では疲れてほとんど眠っていたこと。
角成は色々と思い出した。
天美さんとの話の流れだと、許婚はこの写真の女の子のことだろう。
……ということは……。
角成はドラマや漫画で『許婚』ということ、というか制度というものは一応知っていた。
だがそれは、設定に男女間の微妙な関係性を発生させる、要するに、架空の話を盛り上げるための装置である、ことくらいは理解している。
だから現実社会で『俺に許婚がいてね』とか、ましてや『私の許婚がさぁ』などという会話が交わされたのを、生では未だに聞いたことなどない。
これは、角成に友人が極端に少ないからというわけではない。
現代社会において『家名』や『お家意識』などは、ほぼ死語、及び、アナクロい感覚と言っても差し支えない。
なので、そういう意識の希薄な世の中では『許婚』というもので『お家の隆盛』『家名の存続』などを図る必要も、それぞれの事情や思い入れなどがない限りは『許婚』いう言葉すら、ほぼ身近に実感を持って聞く事もないだろう。
なので、角成もアルバムを見、色々思いを馳せながら、昔駆け回った庭や山肌の写真を少し懐かしく感じながら眺めている。
だが全くもって『いいなずけ』の実感だけは持てなかった。
「よし、できた。んじゃぁあっち行こうか」
天美さんが作ったものを持ってそそくさと母屋の方に向かう。
角成は急いでレモンティーを飲みほし、菓子器やカップをお盆に乗せ、自分の荷物をまとめて付いて行く。
角成は天美さんが「おーい。こっち」と、呼ばれた方に行く。
「これあげる」
天美さんが角成にそっと手渡した。
それは『お箸』だった。
「さっ、これからそいつの試運転しよか。こっちにお膳を用意してるから一緒に食べよ」
そう言われて角成は、作ったばかりのお箸を持ってうなずき付いていく。
角成は洗面所で手を洗った後、ダイニングキッチンに通される。
お箸はよく洗って角成の席に置かれた。
天美さんは、
「食前の薬飲むの忘れるとこやった……」
と言い、何錠かの錠剤と粉薬を一気に呑んだ。
「どこかお悪いんですか?」
という角成の問いに、
「ん~、まぁ、この年になると、色々あって。……食前と食後に飲み薬とか、これも生きていく為やからね」と、明るい笑顔で答えた。
そして角成は着席して驚く。
『納豆』『おくら』『モロヘイヤ』『山芋』等のねばねばヌルヌル系が角成の前にズラリ揃えてあった。
「車の試運転を雪道で、……みたいなもんやから、事故があっても気にせんでいいよ」
天美さんはニコニコ言う。
角成は、
(無茶? 無理難題? 何の試験、これ?)
そう思った。
角成は箸使いが苦手でもないが、自慢できるほど得意でもない。
「この中でどれが好き? 当ててみよか? 山芋の短冊ちゃう?」
天美さんは嬉しそうに角成の好物を言い当てる。
「どうしてわかったんですか?」
「タネあかしすれば、ただ覚えとっただけ」
サクサクとした歯ざわりと粘り、そして出汁としょうゆ。
角成も思い出す。
角成の右には葛葉おばあちゃん。
そして左隣には例の少女が座り、一緒に山芋の短冊を食べていた。
*
「どうにかしてあげたいんですけど、正直申し上げて私も命が惜しいですから」
「そこを何とか、……なりませんよねぇ」
「 ……私にもこうしてかわいい孫がおりますんで、天美さんのお気持ちは痛いほど良くわかります。 ……でもねぇ、 ……困ったなぁ」
「やはり難しそうですね。わかりました、忘れて下さい」
「申し訳ありません。 ……私のほうでも早急に調べてみます。何か出来ることがあったらわかり次第こちらからまた連絡します」
「そうですか。……いや、こちらこそ申し訳ないです」
嬉しそうに食事をする角成と件の少女の横では、天美さんと葛葉おばあちゃんが沈痛な面持ちで話をしている。
………………さらにその一時間ほど前。
「キメラですか……」
「そう聞いてます」
「それは幕末くらいのお話?」
「そうです。私から数えて六代前、この子の八代前です」
*
天美 圭吾。
同心(下級武士)の家に生まれ、両親や近隣の助けもあり、元服の頃には剣術・算術等、基礎的な武士の必須項目を修める。
何より彼の元来の真面目さと明るさにより、幼い頃から周りの信頼を集めていた。
そして天美 圭吾には許婚がいた。
相手は同心仲間の磐城の娘、かえで。
二人は幼馴染でもあり、許婚でなくともそのまま所帯を持つことがとても自然なことのように、そう周囲の誰もが見ていた。
だが、天美 圭吾に突如縁談話が持ち上がる。
天美の上司にあたる与力、尺土に新年の挨拶に行った時のことである。
裕福な商家の娘さんと、半ば騙しうちのように見合いをさせられた。
当然この時代に身分違いの婚礼など許されはしない。
だが尺土は、
「既に奉行の親戚方に養女として迎えており、いつそちらに送り出してもよい手筈」そう話した。
そう言われても天美 圭吾は困る。
この時代、相手の顔を婚礼当日まで見ない、ということはあまり珍しい話ではなかった。
いつの世も時と場合によりけりだが、この場合の婚礼には『与力の親心』と『豪商の武士階級への憧れ』と『貧乏同心の現実』という三つの要素が微妙に、また、うまくからみあって見事に一つの流れになっていた。
またこの場合『お家という要素が一番』というそれぞれの思いが、抗う事の出来ない底流で、しかもかなりの急流で、それが渦巻いている、という、この時代の世間でありがちな話ではあった。
そして後に判明したことだが、この婚礼を天美 圭吾の父、天美 修が最も強引に推し進めていたらしかった。
江戸時代の同心という職は、武士であるが俸禄は低く、率直に言うと安月給で、まず内職なしには夫婦二人食うのがやっと、と言われていた。
実際、天美 圭吾の母の里は絶えており、なのでそちらからの援助は一切なく、天美の家は常に質素倹約を、……というか、質素倹約プラス一家総出の内職が常であった。
そして、同心長屋のお隣さんでいつも天美と助け合っていたのが、磐城家だった。
かえでは圭吾より年が一つ上で、
「鉄のわらじを履いて探し回らんでも、隣におってよかったな」
と、周りからいつも言われて二人は育った。
こうして隣り合わせた二つの家庭は、慎ましいながらも楽しく暮らしていた。
ところが、先述の様に新年早々に突如、圭吾に結婚話が降って湧く。
圭吾とかえではそれから一切言葉を交わさなくなり、視線が足もとで交差するだけの間柄になってしまった。
相手の商家もそれらのことは全て承知していたらしく、ご丁寧にかえでにも縁談を用意した。
そしてかえでは覚悟を決める。
天美 圭吾の婚礼の夜…………、
かえでは自らこの世を去った。
婚礼後のお披露目の席で、天美 圭吾はそのことを知る。
……天美 圭吾がかえでに、たむけのためにできたのは、
…………涙一筋静かに皆から隠して流す、ただそれだけだった。
この一件でかえでの父、磐城 照信は、天美 修を恨み乱心し行方不明になり、その一週間後、隣村の廃寺で息を引き取る。
天美 圭吾はその事でもひどく心を痛めた。
だがそれとは裏腹に、天美 圭吾は婚礼以降まさにトントン拍子に出世し、瞬く間にそれなりの役職に付く事ができた。
それは勤勉実直な本人の資質もあってのことだが、やはり嫁の実家の威光の凄まじさを天美 圭吾は身を持って知ることになった。
それに妻の秋恵はおっとりした性格で万事において大らかでコセコセしたところなど微塵ほどもなく、しかも驚くほどの働き者であった。
夫の俸禄も上がり、いざとなれば自らの実家からの金銭的支援も期待できる。
それなのに秋恵は、傍目もはばからず内職に精を出す。
天美 圭吾は身重の身体でも全く休もうとせぬ妻を気遣い、内職の一時中断を提案したが、
「いつ世の中がひっくり返るやも知れませんのに、これから子を持ちこの家を内から守らねばならぬ私が、のん気なことを言うわけにはまいりませんもの」と、ニコニコ顔で言ってのけた。
実際その何年か後に明治維新を迎えるのだが、突然の動乱の最中もこういう心構えが功を奏するかのように、天美家は全く動じることもなかった。
天美 圭吾が送る毎日は、地味ではあるが堅実なものであった。
だが、常に良心の呵責が付きまとい、幸せを感じると罪悪感で打ち消した。
そして明治維新後、天美は妻の実家に就職するかたちをとる。
天美 圭吾はそこでも真面目に人一倍努力をし、仕事に精を出す。
そしてそれは二人目の子供、初めての女の子を、秋恵が出産した時のことであった。
八月の終わりのまだまだむし暑い日の夕方。
天美 圭吾は磐城 照信の妻と、家の前でばったりと会った。
「磐城のことでお伝えしたいことがございましたので」
磐城の妻は家の前、路上で天美にそう言った。
天美は何度も家に上がるよう促したが、
「敷居を跨ぐと主人が命をかけて行った『キメラの秘術』の効力が薄まってはいけませんので」
そう言い、頑として家にはそれ以上近づきすらもしなかった。
「それなら『キメラの秘術』って何ですか」
という天美の問いに、
「なんでも女にだけ顕れる呪いとかで、十二になるとひどい死に方するから、それまでの間せいぜい可愛がってあげて下さいな」
そう言った。
天美 圭吾は最初、タチの悪い冗談か嫌がらせか何かかと思った。
(だがそれも我が身から出た錆、しょうことなし)そう思いもしたが、
「娘さんのどちらかの肩に、『うろこがある鳥』の『あざ』か『しみ』はありませんか? 成長するに従ってそのうろこが鮮明になってくるから注意して下さいましね」と、その言い方は昔から知っている隣家のおばさん、今は亡きかえでの母上の、ごく普通の物言いだった。
それは脅迫しようとか、何らかのペナルティーを誰かに与えようとする人間の言葉ではなく、ただただ世間話の延長線上の、
「今日は夕立がきそうだから、洗濯ものは早めに取り込んだほうがいいかしらね」というような、他愛のないことを伝えに来ただけのような話し方に、天美は逆に大きな恐怖を感じた。
天美は必死に呪いの解き方を聞く。
………というか、しつこく問いただした。
だが磐城の妻は、
「それは知らないどころか、……私も昨日そういうことだったって知ったくらいですから」 と、さも迷惑、という表情でそう言った。
それはその前日のことであった。
かえでの母が暮らす家に、以前磐城同心のもとで岡っ引きをしていた男が突然訪ねてきた。
「磐城の旦那様のことで、ちょっとお話が……」
そう言って元岡っ引きは懐から新しい紙と古い紙を取り出す。
古い紙には、
「これを読んだら天美 圭吾のところへ行き『『キメラの秘術』により貴様の娘は十二歳でひどい死に方をする』そう伝えよ」
と書いてあった。
妻にとって内容はともかく、懐かしい夫の字であった。
感慨に浸っていると、元岡っ引きは、
「奥方様、天美の旦那のお住まいはこちらで」
そう言って、新しい紙を指す。
ま新しい紙には所番地と略地図が書いてあった。
「それじゃぁ、あっしはこれで……」
元岡っ引きは帰ろうとしたが磐城の妻は強引に引き止め、事の詳細を知る男に引き合わせてもらった。
*
磐城が娘かえでの死を知ったその日、生きる気力も何もかも失い、小雨の夜道をフラフラさまよっていると、
「だんな、……もし、磐城のだんな」
声と傘を差し出す者がいる。
磐城は男の顔を見た。
知った顔だった。
「お困りでしたらお力に……、いや、ぜひとも」
男はかなり以前磐城に助けてもらい、なんぞの時には必ずご恩返しすると約束した、ということらしかった。
男は本気だった。
真剣に磐城の苦しみを聞き、そして翌日、苦しみをどす黒く昇華させる方法を磐城に伝える。
南蛮渡来の呪術『キメラの秘術』
それを行い、
…………そして磐城の命は尽きた。
結局天美 圭吾が磐城の妻から聞けたのは、それが全てであった
祓い方、要するに、呪いの解除方法は、何もわからずじまいである。
天美 圭吾はその時、終始かえでの母の目を見ることができなかったことを思い出す。
それは己の心の闇の深さを、自らで垣間見たような気持ちになった。
そして圭吾は家に入ると、すぐに生まれたばかり娘『かえで』の産着を脱がせて、確認する。
そうなのだ、圭吾の妻、秋恵も本心ではずっと気にしていた。
その名前を付けたのは、単にその名前の響きが気に入っただけではない。
我が子に季節外れも気にせずその名前を付け、他の子よりも大事に育て、そして必ず幸せにする。
それが彼女なりの罪滅ぼしだったようである。
そして圭吾は、娘の右肩にうつろな形の盛り上がったあざを見つけて愕然とする。
その日はそれで妻には何も言わず、妻が忙しそうにしている時を見計らうように娘『かえで』の産着をめくってみては、毎日あざを確認した。
そしてそれは、かえでが満一歳の誕生日を迎えた日のことである。
秋恵の実家で誕生祝いを行い、一升餅を背負ったり、皆でちらしずしをにこやかに食べ、圭吾の両親、秋恵の親兄弟姉妹、甥姪達と大勢で楽しく一日を過ごせた。
そして、かえでが秋恵の父と風呂に入った時のこと、
「この子は面白いあざがあるな」
そう言った。
その言葉に圭吾は、
「子供のあざの、この子のあざが、どこがどう面白いんですか!」と、大きな声で言ってしまった。
圭吾のこの言葉に、秋恵の実家の面々は少なからず驚いた。
誰も圭吾が声を荒げたところ、それどころか、大きな声を出したところすら見たことがなかった。
秋恵の実家の面々は瞬時に、
「それほどかえでのことを可愛がっている」そう微笑ましく皆の腹の中に収めることにした。
だが、次の義父の言葉に、圭吾の顔色が見る見る変わっていく。
「この前舶来物を扱う店で見た石像によく似てたんだわ、それが『きめら』とか言ったな確か……。そういうことだから、天美君、気を悪くしないでくれ。すまなかった」
圭吾は、
「今日は少し飲み過ぎたらしく、気分が少し……」と皆に改めて頭を下げ、席を外した。
そのあとはどこをどう歩いたのか、何をしていたかも覚えていない。
気がついた時には秋恵の実家の前に戻っていた。
それは、もう夜も明けようかという刻限だった。
その時、圭吾は驚いた。
実家の前で秋恵が一睡もせずに、しゃがんで待っていた。
「良かった、実家に来た時で。……もしも私たちの家なら子供のことが心配で、あなたをこうして表で待てなかったから」
この言葉をきっかけに、涙も言葉も堰が崩れたように流れ出す。
天美 圭吾は全てを涙と共に、秋恵を前にして吐き出した。
秋恵は取り乱しもせず、落ち着き払って圭吾の話を聞いた。
「そうですか、だったらその話が本当かどうかあと十一年経てばわかるんですね」
「それはそうだけど……、でも、」
「そうです。私もあなたもそれまでに、その呪いの解き方を懸命に探しましょう」
天美 圭吾は婚礼以来この日この時、初めて、本当に秋恵と夫婦になったことを実感し、心のそこかしこにあった、秋恵への様々な遠慮やわだかまりが、一気に雲散霧消していくのを感じた。
「こうなれば私もお話致します、実は……」
秋恵は裕福な商家の生まれだが、実家のしつけは実に厳しく、幼い時から『夜が明けたあと起き出して良いのは元旦だけ』というきまりを、兄弟の中でも唯一頑なに守り通した。
(本当のところ、元日はご来光に手を合わせるため夜明け前に起きていたので、三百六十五日夜が明ける前に起きていた)
しかも幼い頃から男は丁稚部屋、女は女中部屋で暮らし、幼い頃は主人・奉公人という垣根なしに、働きながら家の内外を知っていく、ということを、厳しく実践していた。
なので、秋恵の姉妹兄弟達は子供の頃から贅沢の『ぜ』の字どころか、子供らしい遊びすら知らなかった。
その出会いは突然だった。
父の、天美 修が隠居し、圭吾の代へと変わり、その挨拶回りを各商家にしている時、
「すいませんが水を一杯いただけませんか?」
決してきれいな格好をしていなかった秋恵に、若き同心、天美 圭吾はさわやかな笑顔で言った。
まさに一目惚れであった。
秋恵も当初、
「こんなのは一時の気の迷い、幾日かすれば忘れてしまう……」そう思っていた。
だが、日増しに圭吾への想いがつのり、偶然道ですれ違おうものなら、その胸が張り裂けんばかりに辛くなる。
そしてそれは、勘の鋭い母親がすぐに察することとなる。
その頃秋恵の実家は、家業以外に町役の補佐もしており、奉行所や番所には三日と開けず、様々な連絡事で往き来していた。
そしてある日、母は秋恵に奉行所に届ける書類を持たせて同行させる。
その時母は、与力の尺土に目配せし、尺土も黙って頷く。
その帰りに母は、どこに向かってでもなく一つうなずいた後、
「何か甘いもの、白玉の入ったあんみつでも食べて帰りましょうか。ここのはたいそう美味しいと聞いているから」めずらしくそう言って、甘味処に秋恵と入った。
そしてそこには、天美 圭吾がいた。
母は、
「まぁこれは天美様、お疲れ様でございます。失礼でなければ、ご一緒させて頂いてよろしゅうございますか?」と言い、
「ああ、どうぞどうぞ」と、気さくな圭吾がにこやかに答えた。
元来愛想が良く穏やかで話し好きな圭吾は、この時も身分のことなど関係なく、秋恵の母と談笑していた。
ただ秋恵は、赤面したまま顔を上げることもなく、帰り際にちらりと天美 圭吾の横顔を見ただけだが、言葉に出来ないほどの充実感と、胸いっぱいに充満する渇望感を同時に味わった。
「また会いたい」
この一言が、この日から秋恵の心の中にこだまするようになった。
娘の心のこだまが母の耳に届いたのかどうか、それは誰にもわからない。
だが、この甘味処の一件で、母は確信を持った。
そしてある日、突然秋恵は母に呼ばれ、
「来月の一日から隣村の当麻様の上屋敷にご奉公に上がりなさい」突然そう言い渡される。
秋恵は、
(隣村は受け持ちの外。もう天美さまにお会いできない) そう思うと涙があふれてきた。
その涙を見た母は、
「でもね、秋恵、かたちはご奉公だけど、実際はあそこの家に、養女として入ります」と言った。
その時秋恵は、養子縁組を婚礼と勘違いし、声を上げて泣き崩れる。
母は泣いている娘を無視するように続ける。
「この家にいてはあなたと天美 圭吾さまは身分違い。でも当麻様の所からなら、あなたは武家の娘として、天美さまと添うことが叶います」
母のその言葉に、秋恵はよりいっそう激しく母の膝で泣いた。
秋恵の実家は天美の隣家の娘、磐城 かえでの存在を早くから知っていた。
その件に関しても、かえでには家柄人柄共にきちんとした嫁ぎ先を用意することで問題ない、と考えていた。
しかし、いくら海千山千の商家のおかみでも『我が子かわいさに目がくらんでいた』と、結果的に言われても仕方がない事態が、よりによって婚礼の夜に起こってしまった。
そして……、
……しかもそれがもとで、孫子にまで害が及ぶことに…………。
かえではすくすくと元気に育つ。
右肩のアザはかえでの成長と共に大きくハッキリしてくる。
かえで三歳(この頃は数えで言ったので、満二歳)、鳥の翼の部分にあたる皮膚がうろこ状になり、少し下、右肩甲骨のところに移動する。
かえで五歳、大きさは満一歳の時の倍はあり、位置はさらに下がり右肩甲骨の下縁ギリギリに。
かえでが十歳を迎えるまでの五年間は大きさの変化以外はほとんどなかった。
ただ、アザの模様の異様さは、年を追うごとに際立っていった。
その間も天美 圭吾夫妻は呪いの解き方をなりふり構わず探した。
古本屋数件には、呪い・まじないで古今東西の書物の捜索を依頼し、それらの翻訳・解読をそれなりの人に依頼したり、また、呪い・まじない、それに、民俗学的なことの専門家がいれば、学会・在野を問わず、それこそ日本中どこにでも会いに行った。
そして御祓い・悪魔祓い等、それらしいことを色々・様々・数々行い、そしてかえでは十三歳(満十二歳)になった。
それは誕生日から数えて七日目のこと、首から顔まで広がったアザが、盛り上がり始める。
そしてそれは一週間ごとにますます大きくなり、そしてついに……、
七週目の深夜天美 圭吾の腕の中であざが破裂。
少女から娘になろうかという頃、かえではこの世を去った。
死因は出血多量であった。
そしてそれは、お通夜での出来事。
天美 圭吾は悲しみのどん底にいた。
この十一年間行ったことが徒労であったこと、圭吾は己の無力さに歯噛みした。
遺骸に付き添うことも、お悔やみを言いに来た人への対応も、そして焼香すらもせず、ただかえでの姿が見えるところからは離れずに、出された酒にも手を付けず、うつむいて立っていた。
お悔やみを言いに来た人の列に、知っているが思い出せない顔があった。
最初は悲しみのせいで記憶から掘り起こせないと思った。
だが、勘でもはたらいたのか、どうしても引っかかる。
それに、少しでもこの悲しみから目を背けられるものなら何でも良かった。
圭吾は必死に誰なのかを思い出そうとした。
記憶の底をさらい、そして濾していくと、辛うじて一つの出来事が引っかかった。
それは圭吾が同心だった頃、磐城と共に勤務が終わり帰路についていたときの事。
圭吾は曲がり角で出会い頭に男とぶつかり、ともに倒れてしまった。
そしてぶつかった男は追われていたらしく、そこで追っ手に捕まってしまう。
どうやら無銭飲食、食い逃げだったらしい。
男は、
「食ったはいいが、財布を落としたことに気付いた。だが、それを言ってもどうせ信じてもらえまい。ならば逃げてしまえ」という理由で逃げたと言う。
めし屋の人間と追ってきた客数人に磐城は、
「いくらだ? 私が立て替える、さっ、いくらだ?」と言った。
めし屋の人間は、
「だんな、それは、……仕方ない、だんなには申し訳ないが、俺っちも手ブラじゃ帰れねぇ、五十です」と言った。
「そうか、じゃ、これでいいか?」
その時圭吾は、
(自分も半分出しましょうか?)懐に手を入れそう言いかけたが、察した磐城は、
(いいよ、俺が払うから)と首を横に振り、目だけでお互い会話した。
だが、結果的にそれが災いの種になるとは、まさか磐城も圭吾も思わなかった。
その時の食い逃げ男が、何故か通夜の席に現れ、焼香だけ済ませて帰ろうとしている。
圭吾は気を紛らわすために、その男に声をかけた。
「お名前存じ上げませんが、その節はどうも」
声を掛けられた男はギクッとなる。
「あなた、あの時の、ぶつかった人ですよね?」
男は無言で足元を見つめる。
「娘か、それとも家族の誰かがお知り合いでしたか?」
「……いえ、その………………」
天美 圭吾は待った。
その男の次の言葉を。
だが、その言葉を聞いた時、
「待たねばよかった、……聞かねば良かった」と激しく後悔した。
「 ……磐城のだんなの、呪いの成果を確認に来た、ただそれだけで」
第一章 第一節 いい名づけ 終
第一章 深い記憶
第二節 傘内のしずく
に続きます。




