第五章 饒舌な鏡 第四節 空気
(できれば、BGMは、スピッツのチェリー、で)
令和七年 五月十九日(月曜日)
角成はいつもの通学路である、川沿いの歩行者と自転車専用道路を走り、しばらく行くと大きくぐるりと一八〇度反転する道を登る。
この日も天気が良かったので、角成はくるりと廻った自分の影に、
「おはよう、今日もよろしく」と声をかけた。
友達がいない角成は、下手をすると発したのはこの言葉だけ、という日もある。
そこから橋を渡り、なだらかな坂を登れば高校である。
教室でのホームルーム、担任の高田先生が前で何か話している。
角成はいつも通り、一時限目の教科書の、その日の授業の個所を読んでいる。
一時限目の授業は担任の高田先生だったので、そのままの流れで授業に突入である。
(今日はなんだか、ざわついてるな……)
教科書を顔も上げずじっと読みながら、無感情で角成は考えていた。
高田先生が黒板に何か書いて、いつも通り明るく何か話しているが、角成はいつも通り一切気にせず教科書を読む。
「じゃ、席は、窓際の前から二番目の、あの空いてる席があなたの席よ。これでやっと、クラス全員揃ったね。……では、このまま授業始めます。教科書の〇〇ページ開いてくださ~い」
高田先生がそう言って、女子生徒が角成の隣の席に座る。
「天美さんは教科書まだ届いてないんやったら、隣の河内君に見せてもらって。河内君、よろしくね」
高田先生の言葉に、角成は黙って頷き、持って読んでいた教科書を左にズラした。
「おはよ、婿殿」
「うん、おはよう……」
角成が何となく自然に返事をした。
「えっ! 今、河内のこと婿殿って呼んだ?」
近くの女子が反応し、
「えっ?」と反射的に言った角成に、クラス中の視線が『ザワッ』と集まる。
「あら、知り合いやったん?」
高田先生の問いかけに、
「あのぉ……」と角成が言い、
「はい、許婚、……私と河内君は、婚約してます」とかえでが言い、角成に『イーッ』と笑いかける。
教室内が騒然となり、驚いて立ち上がる者までいた。
「……衝撃の事実は置いといて、我々は刻々と流れる時間の中を生きています。さっ、授業始めましょう」
高田先生がそう言い授業を開始した。
一時限目の授業が終わり、かえでと角成の近くに女子が集まり、即席の会見場になる。
角成はすぐに離脱するつもりだったが、かえでに腕を組まれて逃げ損ねる。
筆入れをマイクのように持ち、インタビューが始まる。
「いつからの知り合いですか?」
「二~三歳?」
「どういう経緯で許婚になったんですか?」
「諸事情は省きますが、親? じゃなくって、私の父と婿殿の祖母が協議して」
主にかえでが答えている。
そこに角成が自分の筆入れをかえでに向け、
「天美 かえでさんは、いっこ上だから、三年生じゃないんですか?」と聞いた。
「私、ほら、死にかけて入院してたじゃないですかぁー……」
かえでがここまで言った時、角成以外聞いている人間全員が緊張する。
「だから出席日数足りなくって、留年確定してたんよぉ。でもね、どうせ死ぬなら婿殿と同じ学校で、同じクラスメイトで……、って思って、今年の三月はじめに第二学年への転入試験受けてました」
女子生徒が、
「でも、高校の転入って難しいって聞いてるけど、天美さん? は大丈夫だったんですか?」と聞き、
「うん、私の場合は他府県からの転入やから、家族でこっちに引っ越して、住民票移さないといけなかったの。で、お父さんの仕事はこっちに営業所あったから、配置転換してもらって、お母さんはパート辞めて、皆でこっちに越して来て、それで今に至る、みたいな感じ。……婿殿、違法に越境してないよ。……脱法でもないからね」とかえでは笑った。
「彼女さん、笑顔が魅力的ですね、婿殿さん」
最初に『婿殿』に反応した女子生徒が、笑わず真顔で角成に言う。
持っていた筆入れを置いて、角成は答えず、誰とも目を合わせない。
「はい。では会見はここまでとなります。皆さまありがとうございました~。んじゃぁ、婿殿、トイレどこか案内して」
かえでが角成の表情から何かを嗅ぎ取り、そう言って角成の腕を引っ張り廊下に連れ出す。
女子トイレから近い、渡り廊下の窓から外を眺めて、角成が待っている。
『かっくん、根回しって言葉知ってる? ……』
玄宗さんの言葉を思い出す。
「いるね、根回し。……これは僕でもたまらんわ」
自然と独り言が出た。
「何がたまらんの?」
足音もさせず、いつの間にか横にいたかえでが聞く。
「転入試験、受けてました~、とか、一緒に学校に通えます~とか、何でもいいから、予め教えておいて欲しかったな」
「そんなことしたら、仕返しにならないじゃないですか。……私を泣かせた」
角成は何も言えず困っていると、
「私ね、呪われてる者として、皆を心配させないように、小さな頃から誰の前でも、涙を流さないように、そういう空気を纏って生きてきたんですよ。なのに、婿殿のせいで、いつも笑ってるはずのかえでちゃんが、鼻水まで流して泣いちゃったじゃないですか。これは、するでしょ、仕返し……」とかえでが言った。
角成は、
「ごめんなさい。……これからは気を付けて、かえでちゃんには予め何でも言うようにするから……」そこまで言うと、かえでが角成の顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべて、
「嬉しっ。これからは、って、なんか、ずっと一緒に居られる感じがして」と言った。
角成は、
「さっ、教室戻ろうか。二時間目が始まるよ」と言って先を歩く。
「婿殿には本当のこと、言っておきますね」
角成が後ろから言った。
「なに?」
「私、呪いを解いてくれた日、死んでてもおかしくなかったじゃないですか?」
角成は頷く。
「もしもあの日、私死んで、同じ学校に転入したこと事前に知ってたら、婿殿優しいから『一緒に高校に通いたかった~』って、悲しくならないですか?」
「優しくなくっても、確実になったねぇ~」
「でも婿殿は、あの日私を探し出してくれて、しかも呪いも解いてくれた。だから今、こうして同じ高校に二人が同じ学年、同じクラスの隣の席にいる。……だから、知ってた方がよかった、って、これ結果論じゃないですか?」
「言われてみれば……」
「でも、一昨日でも昨日でも伝えることはできたのに言わなかったのは、仕返し。さっき言ったままです。ごめんなさい」
「どっちもかえでちゃんの本心か。……なんか僕の『ありがとう』と『ごめんね』が同居してる話だね」
角成とかえでが教室の入口まで来た時、
「あの河内『空気くん』の河内やで。彼女とか、まして、婚約者……」
先程『彼女さん、笑顔が魅力的ですね……』と言った女子生徒が『しまった!』という顔で、角成たちを見た。
教室が静まり返る。
「婿殿って『空気くん』って呼ばれてたんや」
「うん、知ってたよ。一年生の時から、みんな僕に聞こえるところでも言ってたから……」
耳の奥がジーンとするような静寂。
「いい呼び名っ」
かえでが笑顔で言った。
教室内の緊張感がいっそう高まる。
「なんで? 空気よ空気。居てても存在してない、見えない人。誰からも気にされることも、嫌われることすらない。……そんな存在やよ。……それとも、誰も気にしないから、誰にも盗られへんから?」
「ありがとう。あなたの名前、何ていうの?」
かえでの言葉に別の女子生徒が
「もうええやろ。次の先生、始業ベル鳴って立ってたら欠席にされるから、早く席に座ろ」と言った。
かえでが教室の中をゆっくり歩きながら、
「私にとっても河内君は『空気くん』。婿殿がいなくなったら、苦しくって、多分、私死んじゃうと思う」と言った。
「さっき、河内君に『死にかけて入院』って言うてたけど……。天美さん、事故か何か? それに、体調大丈夫なんですか? 私は御所って言います」
先程の[空気くん発言]の女子生徒が言った。
角成が面倒になり、
(『この子が呪われていたのを、僕たちが祓って、最近元気になった』って本当の事を言って、ドン引きさせてやろうか)と、一瞬考えたが、
「御所さん……。私が入院してたのは、……う~ん、何て言っていいのか……。遺伝病? みたいな感じかな? それを、色々な人が様々な形で力貸してくれて、やっと治った、みたいな感じ、かな。だから、体調は万全、ご心配なく。ありがとう、御所さん」と、かえでが手の平を胸に当てて言った。
それに対し御所さんは、
「それって、……輸血とか、骨髄移植とか、臓器移植とか?」と言った。
その言葉に対して、かえでは笑顔で首と両手を横に振り、何か言おうとしたが、その時、二時限目の先生が始業ベルの前に入って来て、
「みんな席について~。ベル鳴ったらすぐ出欠取りますよ~」と言った。
「先生、教科書まだなんで、河内君に見せてもらいます」
かえでが言って、もう一度角成の机に自分の机をくっ付けた。
授業中に、角成がかえでのノートの隅に、
『ごせさん、本当はやさしい』と書いた。
その横にかえでは、親指と人差し指で丸を作った、OKのハンドサインの絵を描いた。
四時限目終りのチャイムが鳴る。
角成が自作のおにぎり二つをポケットに突っ込むと、かえでが、
「お弁当二人分持ってきた。一緒に食べよ」と言って、角成の腕を掴み、廊下に出た。
「今日は雨降ってないから、いいところあるよ」
角成がそう言って、前を進む。
教室棟の一階に降りて食堂の窓のない外壁沿いに、いくつかベンチが置いてある。
角成は、一人でここをよく利用していた。
この日も誰も座っていない
「婿殿は卵焼き、甘い派? 出汁巻き派?」
「塩派。甘いのはちょっと油断すると焦げるし、出汁は面倒だから」
「ちっ、しくじったぜ……」
「ひょっとして、甘いの持って来た? 食べるよ、きっと美味しいから」
「違うねん、甘いスクランブルエッグに、ケチャップマヨネーズかけた……」
「なんか、斜め上行ってて、美味しそ~」
角成が、お弁当箱を受け取り、かえでに自作のおにぎりを、
「はい、うめぼし」と言って渡す。
「ありがとう。おいしそ~」
かえでがラップで包まれたおにぎりを握りしめて微笑む。
「明日から、お弁当は自分のぶんだけにしてよ。お互い負担になるから」
角成が言った。
「ついでやから、遠慮せんでもいいのに……」
かえでがそう言ったが、
「どっちかか、お互いか、いつか不満が出ると思う。だから、その種は早いうちに取り除いといた方が良いと思うよ」と角成は譲らなかった。
「婿殿がそう言うならそうする~」
かえでが一旦折れたが、
「でも、……イベントの時は、私が婿殿のぶん持ってくるから、その時だけは、あらかじめ言うから、怒らんといてね」そう言った。
角成は、
「うん、ありがとう。……そうやって気遣ってくれるのって、……案外嬉しいね。……今までは、誰かが言ってるのを傍観者として聞いてて『煩わしいやり取り』って思ってたけど、当事者はいいモンなんだね」そう言って微笑み、お弁当をじっと見つめた。
二人が食べ始めると、二階の教室からウォーミングアップでドラムを叩く音が聞こえた。
「あら? ここBGM付き? 初日からいいとこ案内してくれて、さすが私の婿殿っ」
かえでが嬉しそうに言う。
「食堂の真上、二階が軽音部の練習室だからね」
お弁当が進むにつれ、次第にベースの音、ギターの音、キーボードの音も加わる。
日本のバンドの軽快な曲が数曲流れ、食事も終わる。
二人が拍手していると、二階の窓がゴリゴリと重そうに開き、
「換気換気~」という声が聞こえる。
角成とかえでが見上げると、
「あれっ? そのつむじは常連さん、今日は彼女連れ?」と、二階の窓から女生徒から声がかかる。
二人が黙って見上げながらコクリと頷く。
「……じゃあねぇ、今日だけ特別。なんかリクエストあったら、二人のためだけに、曲、演るよ」
「じゃぁ。スピッツのチェリー、お願いします」
角成が言った。
「さすが常連さん。うちのバンドのレパートリー知ってる。近隣住民との取り決めあるから、窓閉めるよ。音大きくっても良かったら上がって来て」
そして、軽音女子は窓を閉めながら、
「リクエストいただきました~。チェリーいくよぉ~」と言った。
「行こう」
角成がそう言ってかえでの手を取り、軽音部の練習室に続く階段に向かって走る。
「あれっ? 河内どうしたん? いつも一人やのに今日は可愛い女の人連れて……」
ドラムセットの前に座る男子軽音部員が、角成に声をかけてきた。
「あれっ? 知ってる人?」
さっき声をかけてきた女子生徒が言う。
「河内って、軽音部所属やもん。去年の新入生歓迎ライブの時、ライブ直前照明係がふざけて怪我して、その時聴きに来てた河内が近くにおって、セットリスト見て『全部知ってる曲です。僕照明係やりましょうか?』って全曲照明係してくれて。それからずっと、照明だけやってくれてる。……まさか知らんかったん?」
「ごめん、河内君。キミがまぶし過ぎて、見えへんかった」
角成は、
「ライブの時のみ現れる、光を操る幽霊部員なもんで……。もうすぐ月一ライブなんで、また出ますよぉ~」と両手の平を、ぶらり、とさせて言った。
「婿殿、だから、下で皆の演奏聴いてたんやぁ」
「えっ! 今婿殿って言うた? 言うたよね? 言うたやんなぁ。……えぇぇぇ~っ。軽音は恋愛禁止につき、リア充お断りっ! チェリーは却下っ!」
女子部員が言う。
「おいおい、キミのキーボードソロの時に、ジャストのタイミングでスポットライト当てて、しかも女性の時は魅力的に見えるように、自分の手を前でかざしてソフトにしてくれてるの、河内君やで。ほら、演奏するぞっ!」
スネアのねじのゆるみを締めながら、男子部員は言った。
「くっそぉ、才能と努力と優しさに救われたな。……そうや、彼女歌える? 私キーが微妙やから、唄ってくれたらハモるよ」
「えっ? いいんですか? でも……」
「でも、何?」
「私、歌上手ですよ?」
「いいねぇ。そのノリ。ようこそギター部へ」
ベースを肩からさげた男子部員が陽気に言った。
昼休みのクラブ練習の一曲。
サビの『愛してぇる~……』の所で、かえでは手拍子する角成をウインクと共に指差し、その後ガッツポーズをした。
安定した演奏と、自称上手なかえでの歌で、皆明るい表情になった。
教室に戻ると、何とな~く、空々しいような空気が流れる。
角成は全く気にしない素振りで、次の授業の準備をし、かえでが机を寄せる。
御所さんが、
「今朝はごめん。そんなつもりで言うたんじゃなくって……」と。謝ってきた。
「そんなつもりって、どんなつもりを指してんの?」
「それは、……バカにするとか、笑いものにするとか……」
「そう。そういうつもりやったけど、今は反省してます許してください、っていうことね。わかった。婿殿もそれでいい?」
「かえでちゃん、ちょっとそれは……、ストレート過ぎるっていうか、角を立て過ぎって言うか……」
「河内君やめて。天美さんの言うとおりやから。本当にごめんなさい。反省してます」
御所さんが顔面蒼白になった。
「私は角立てるつもりはないよ。こういうことはハッキリ言うた方が……」
そう言って、かえでは周りを見渡した。
教室内の空気は最悪だった。
「……やっちゃった。……御所さん、ごめんなさい。あなたを困らせるつもりは無かったのに……。教室の雰囲気悪くするつもりも無かったのに……」
今度はかえでが蒼白になった。
「はい~、皆さん席について~。もうすぐチャイムが鳴りますよぉ~」
五時限目の先生が入って来て言った。
かえでが一回りも二回りも小さくなり、授業が始まる。
下校時、角成の自転車の後ろに、当然のように乗ろうとしたかえでに、
「日本には道路交通法ってあってね……」と言って角成は自転車を押して歩く。
「婿殿ごめんね。サプライズとか何とかいいながら、結局なんか後味悪い日にしちゃって」
「空気読めない空気くんな僕が口を開くと誤解されるだけだから、ごめん、……助け船出せずに……」
「明日どんな顔して学校行ったらええんやろ……」
角成は少し考え、
「かえでちゃん、二人っきりは良くないけど、ちょっとだけウチに寄ってってくれる?」
「うん、お守り袋なら、いつでもいいよ」
「あっ……。その件ですけどぉ……」
そう言って角成は、制服の胸の内ポケットから、かえでのお守り袋を出して、
「すいません、肌身離さず……、嘘です、なんか、一緒にいる感じがして、学校に持って来てました」そう言って、かえでに返した。
「なぁんや、私と同んなじ考えやんか。……で、これじゃ無ければ、何?」
「大したことじゃないけど、帰ったら説明する」
そう言って角成は母の果子に電話をかける。
母は既に帰宅していた。
「丁度いい。お母さんに大きなかえでちゃん、紹介できる」
「なんだか、すっごい太ったみたいで……」
「ごめん、謝る!」
「違います、話は最後まで聞いて!」
「ごめん……、僕そういうとこ、だめなとこだから気を付けます」
「いいって、そんな事。それよか、私、血管への負担っていう意味で、コレステロール値厳重に管理して生きてきたけど、キメラとともに、そんな制限おサラバできるから、これから好きなもの好きなだけ食べるので、やっと太れます。多分、嬉しそ~にサイズアップしますけど、そこはお許しを」
かえでが言った・
「許すも何も……」
「大丈夫。婿殿がお姫様抱っこできる範囲に留めるつもり、ではあります」
「えっ、……じゃぁ、僕も鍛える必要、……とかある?」
「一緒にトレーニングします? 腕だけで細っっそいロープ昇る、とか」
「特殊部隊の人、じゃないんだから、しません。……って、した方がいい勢い?」
「どっちでも。……あっ、腕立て伏せするなら言ってください。私、婿殿の下に潜入しますから」
かえでが笑い、
「……ちょっとぉ、それ、下ネタ!」角成がツッコむ。
「腹筋する時も言ってくださいね。私が婿殿にまたがってぇ……」
「もういいって!」
角成がテレながら困り顔で言った。
「おかえりなさ~い」
家に帰ると角成の母、果子がいた。
「お母さんただいま。かえでちゃん連れて来た」
「かえでさんいらっしゃい。あら、その制服、角成と同じ学校?」
「はい、先々月、転入試験終わってすぐに採寸だけ済ましてたんで、今日に間に合いました」
「なんとまぁ、かわいい。よぉ~似合ってるわ」
果子とかえでが微笑み合う。
角成が自分の部屋から、昔ながらの天使がMの上で逆立ちする黄色いパッケージのキャラメルを持ってきた。
「何? 婿殿、早速私を太らせようと?」
「違う違う、これ、もろたんよ」
角成が苦笑いと共に言った。
「誰から?」
「今日揉めかけた人から」
「御所さん?」
「そんな名前やったっけ?」
「いつ?」
「去年の、……遠足の時」
「今まで封も開けず、食べずに取っておいた、ということは……、登校初日に婚約解消?」
「違うって……」
「ちょっと、痴話喧嘩するなら、こっち来て座ってして、殴り合いにならないように。何か飲み物出すから」
母の果子がダイニングテーブルで手招きしている。
「じゃぁ、お母様ぁ、私が美味しいの淹れますんで、お番茶ありますか? あと、お鍋かフライパン貸してください」
かえでのリクエストを果子が用意する。
「目分量だけど、美味しいの淹れますからね」
かえでがそう言って茶筒を『シャカッ』と軽く回すように一振りした。
茶葉をフライパンで軽く煎り、沸騰した湯でほうじ茶をかえでは淹れる。
ダイニングキッチンに、ほうじ茶の香ばしい良い香りがする。
皆で一口飲む。
「あらいやだ。このお茶すごく美味しい」
果子が言った。
「これ、ペットボトルのほうじ茶の何倍も美味しい。かえでちゃん、すごいなぁ」
角成も瞠目して言う。
「良かった。お母様、褒めてくださってありがとう」
「頼むから、その堅っ苦しい呼び方やめて」
「えぇ~っ、気に入ってるのにぃ~、この呼び方ぁ。……じゃぁ、何とお呼びしましょう? お母様」
「角成はお母さん、って呼ぶから、できればそれより馴れ馴れしい砕けた感じがいいな」
「母ちゃん、とか、おっかさん、とかですか?」
「じゃぁ、いっそのこと、おかん、は?」
果子が少しだけ前に乗り出して言った。
「おか~ん。いいんですか?」
「なんか、かえでちゃんが言うとかわいい」
「そう言われたら、おかんと呼びますよ」
「お願いします」
二人は嬉しそうに微笑んでいる。
「お母さんの呼び名決まったのはいいけど、痴話げんかの続きいいかな?」
「そうそう、婿殿の去年の浮気の件です」
「だから、ちゃうって。とりあえず言い訳、じゃなくって、これをもらった経緯とか……」
「おかんの前で白状する、と」
果子が笑う。
「何とでも言うて。恥ずかしいけど、お母さんも聞いてな。実は僕……」
『友達をたくさんつくり、学園生活をエンジョイし、数々の思い出を作る』
角成はそのような気持ちは、小・中学生時代と同様皆無で、高卒資格を取る、という事だけのために高校に進学した。
……そう思っていた、はずだった。
だが、新学期早々に、親睦を深めるためにと学校側の気遣いからか、遠足があった。
班決めの時、一人で前の授業の教科書をずっと読んでいる角成を、誰も話しかけずにいた。
そこに、御所さんが、
「このままやったら寂しいやろ。あんた、私と一緒の班に入り。ええやろ?」と言って、黒板の御所、の下に河内と書いた。
「おっ、御所が空気読んで、空気に声かけた」
今思い出そうとしても、誰が言ったのかわからないが、男子生徒がそう言った。
(なんか何から何までつまらない。退学して通信学習か何かで高卒資格を取ろうか……)
この時、無責任だった角成は、そう考えた。
自分から何もしないのに、面白くないのは、面白いことを提供しない周囲の責任。
他人とのつながりを拒絶してきた人間の、身勝手で未熟な子供の発想そのものだった。
だが、この時、御所さんが声をかけてれたことで、
(遠足、……休もうと思ってたけど…………)と、角成は考えた。
この日の帰り、ロッカー前で靴を履き替えていたら、
「河内君、遠足、休まんといてな」御所さんは、角成の背中にそっと手を置き言った。
遠足は、大阪北部の遊園地だった、
現地では、解散時刻まで自由時間だったので、気の合う者同士でそれぞれ散り散りになる。
角成は一人で、空いたベンチを探す。
この日は快晴で、平日の遊園地だが、高校生の男女の楽しそうな声がそこかしこから聞こえてくる。
良い天気のなか、一人、ベンチで過ごす角成には、残酷な時間と空気が流れた。
コンビニで買ったサンドイッチとブリックパックのジュースの昼食を摂る以外、角成は本当に座ることしかしなかった。
また、まばたき以外で目を瞑ることもせず、ジッと動かず過ごした。
入学祝の腕時計は、集合時間の一時間前を示している。
トイレに行っておこうと、腰を上げる。
数人の男女が前を横切る。
「私それコワイからパス。みんなで行って来て」
女性の声が聞こえたが、角成は気にせずゆったりとした足取りでトイレに向かった。
用を足して、ベンチに戻ろうとすると、きつく握りこぶしを体の横で握る女性が、角成の前に立つ。
顔も上げず角成は避けようとする。
「河内君、同じ班のよしみで一緒に観覧車乗ってよ……」
唐突に御所さんが言った。
断る理由を見つけられず、袖を引っ張られて角成は黙って後ろを歩く。
係の人がドアを開けてくれて、二人は向かい合わせに乗り込む。
角成は当然のように一言も言葉を話さず、無表情に横を向いて景色だけを見ている。
御所さんも観覧車内で、角成に一言も話さなかった。
二人が降りた時に御所さんは、
「そうや、……一緒に乗ってくれたお礼に……」
そう言って、キャラメルを箱ごと角成に渡した。
角成がキャラメルの箱を見詰めたまま、固まる。
「河内君、今日は来てくれて、しかも、乗り物も一緒に乗ってくれて、本当にありがとう」
そう言って、ぺこりと頭を下げ、恥ずかしそうな顔で御所さんはどこかに行ってしまった。
角成はこういう体験は初めてだった。
世間の人は全員老若男女問わず、自分に興味が無い。
だから、同級生から『空気』と呼ばれるのも当然、と、角成は思っていた。
なので、この出来事に角成は混乱した。
だが、いつも通りの無関心無関係を装い、この日も結局、誰とも会話をすることも、言葉を一言も発することなく家に帰った。
ただ、
(もうちょっと、学校は通ってみようかな?)と、自主退学は少し横に置いておくことにした。
そして、その数日後、通称軽音部、正式なクラブ名は、学校創設時からなぜかギター部なのだが、その新入生歓迎ライブで、前述のように照明係に志願した。
それもこれも、そのキャラメルの一件と、遠足前日の御所さんの気遣いがあったから『僕がやりましょうか?』の一言、……自分でもなぜ言ったのかわからない言動、が咄嗟に出た、と思っている。
角成の高校生活の、本当の意味での第一歩を象徴するのが、一箱のキャラメル、だった。
「そんな事があったん……」
果子はしんみりと言った。
「婿殿、ひょっとして遠足行ったの、去年の〇月〇日?」
「うん、……確か、その日」
「私が具合悪くって、行けなかった遠足。その日のその場所……。どのみち、親しい人一人もおらん班に勝手に入れられてたから、婿殿みたいにベンチで一日過ごしたと思う……」
かえでが寂しそうに下を向いた。
「 ……なんか若い男女多いな、って、あの時思ったのは、それでかぁ。かえでちゃんが通ってた高校も遠足来てたんやぁ」
「じゃ、次の休みはその遊園地でデートね。『敵討ちは早ければ早い方が良い。……相手がまだ弱いうちに』これって、葛葉おばあちゃんが『やり残したこと、心残りにけじめ早くつけろ』って意味でよく言ってた。心残りって、ホンマ置いとくと大きく強くなるよ~、後悔と二人三脚で。……という事やから、角成、かえでちゃん連れて行ってこ~い」
「ありがとうございます、お母様……、おかん……。とりあえず、婿度のおごりで行ってきます」
「ねぇ、かえでちゃん、僕のおごりはわかったから、もう、おかん様でええんちゃう?」
「おかん様? ステキ過ぎる呼び名~。ねっ、おかん様っ」
「なんか、かえでちゃんが言うとかわいい。おかん様が認可しよう、うん。……で、かえでちゃん、私と会うの何年ぶり?」
「十三年か十四年ぶり? ですか?」
「そんなになる? キレイになって、おかん様としては非常に嬉しいわ」
「でも、おかん様も、あの頃とまったく変わってなくって私驚いてぇ……」
どこにでもある、少し年の離れた女性二人の、とりとめのない会話が始まった。
この日、何かと気疲れした角成は、温かく美味しいほうじ茶を飲みながら、
(よかった、お母さんとかえでちゃんが打ち解けてくれて。しかもこれは、僕が一切喋らなくっていいパターン……)と、にこにこと二人の会話を聞いていた。
かえでと果子がとりとめのない話で盛り上がっていると、かえでの電話が鳴る。
「おじいちゃんからや。何かあったんかな? ちょっと電話に出てもいいですか?」
かえでが聞き、果子が黙って『どうぞどうぞ』という手の動きをする。
「かえでです」
「おう、かえで、今、角成クンは?」
「横におるよ」
「じゃぁ、一緒に聞いてくれ」
かえでが、スマホをスピーカーに切り替えた。
「かえで、昨日、姿消すまで入院してた病院で退院前の検査したやろ? 今日その結果聞いてきた」
「あっ、そうやった。で、どうやった?」
かえでの顔が少し引きつるような笑顔に変わる。
「全部異常無しで、体育の授業も、どこも痛みが無ければ、普通にできるし、好きなもん好きなだけ食べてOKやって。」
「よかったぁ、ありがとぉ~」
「よかったなぁ、ホンマに。角成クンと皆さんにホンマに感謝してます。ホンマにありがとうございました」
かえでも一緒に頭を下げ、角成は何と言って良いかわからず、
『イヤー』と『エアー』と『ヒヤー』の中間くらいの発音で、
「いやぁ……」と、言った。
「ついでに、と言うと、アレやけど……。ちょっと聞いて欲しいことがあって……」
と、篤義さんは前置きし、
「今日、本当はかえでの検査の日やったのを、今日から学校行きたいって、かえでが言うから、昨日強引に検査してくれる病院探して検査してもらったから、入院してた病院で今日検査枠の空きができて、私の検診入れてもらったんよ」
「えっ、ちょっと、おじいちゃん、今日すごい真面目な声やけど、……なんか、……できるだけ頑張って聞きます」
「あぁ、角成クンと一緒に頑張って聞いてくれ、実はな……」
かえでと角成の唇が、真一文字になる。
「私は、以前から血糖値とかが高くって、これからの治療計画、そろそろ考え直しの時期に来てました」
「おじいちゃん、食事療法と投薬から、インシュリン注射始めるか、とか言うてたね」
「それそれ。それが……」
かえでと角成の視線がテーブルの、ちょうど真ん中あたりで交差する。
「血糖含め色々な数値が正常範囲に、だから、肝臓の値とかも正常範囲で、二十何年ぶりに異常無しになってた」
「えっ? ……」
角成が反応する。
「そうやねん、来週の再検査で変化なければ、投薬もなくなる可能性、大」
「おじいちゃん、それって、ひょっとして?」
「そう、何て言うのか私素人やからようわからんけど、……キメラ追い出してくれた副反応?副産物? リアクション? ……なんか、そんな感じかな、と思って。それで角成クン改めてお礼が言いたくって」
「よかったねぇ。このまま数値良かったら、お兄ちゃんとこの子、産まれた時乾杯できるやん」
「もともとお酒は好きやないけど……。そうやな、乾杯くらいは……そうやな。それと、私の数値の話したら、修も検査行ってみるって。あいつも血糖値と肝臓の数値上がってきてたから」
篤義さんはしみじみ言った。
それから果子を含めてお礼を言い合い、角成が玄宗さんと般若さんと若菜にお礼を伝えることを約束し、電話を切った。
角成はすぐに三人にLINEで連絡し、皆で喜び合った。
令和七年 五月二十日(火曜日)
「ねぇ、婿殿ぉ~、聴いてる?」
「聞こえてるよ」
「今日御所さんに、なんて言おう?」
「おはよう、でいいんじゃないの?」
「う~ん、そういうんじゃなくってぇぇ~」
(違法ではあるが)角成がこぐ自転車の後ろから、かえでが話しかけている。
そして、歩行者と自転車専用道路がいつものUターンで、くるりと廻った自分の影に、
「おはよう、今日もよろしく」といつものように声をかけた。
「誰にあいさつしたん?」
かえでの問いに、
「自分の影に。今日の一番最初のおはようは、かえでちゃんに言ったから、今日の二番目。……そういえば、今まで自分の影への『おはよう』が、既にその日の最期の言葉だったのが大半だったなぁ……」と言った。
「婿殿の影さん、おはよう。これからはずっと私の影も一緒やから、もう寂しくないですよ。今まで、いつも婿殿を見守ってくれてありがとう」
そして、角成は、
「かえでちゃんの影さんおはよう。これからよろしく」と言った。
角成たちがキメラの呪いを解いてから、まで一か月も経っていない。
あの時祓えなかったならば、この会話も無かった。
橋を渡り、坂を登れば学校である。
かえでが、
「なんて言おう、どうしよう……」と悩み、そして角成は、
「 ……」無言で、二人は自転車を押して歩いた。
「天美さん、おはよう」
後ろから御所さんの、明るい挨拶が笑顔と共に飛んで来た。
今日も良い天気である。
第五章 第四節 空気 終
エピローグ
に続きます。




