第四章 約束の場所 第一節 裏方仕事
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弓弦斎が営む印判作製販売店、末広堂。
その軒下に間口一間の店構えにしては大きく立派な屋号を彫った看板が吊るしてある。
丸に八の字のロゴマークの下に末広堂の文字。
そしてその左には『はん・しるしおつくりいたします』と彫られている。
だが、茂吉が訪れた日の夜からその看板の下に『しばらくおやすみいたします』という紙が貼られた。
その次の日、弓弦斎は菜めし屋の裏手にある宿屋にいた。
そこを拠点に色々と手配をし準備を整える。
そのまた次の日、宿屋の裏手では、罠で捕らえたユリカモメの遺骸の大雑把な形を使い古した紙に書き写し、その後桶にそっと入れる。
そして別に届いたマツカサウオが入った桶を天秤棒の前に、そしてユリカモメが入った桶を後ろに振り分け、自ら茂吉と磐城のだんながいる廃寺へと向かう。
「もし……、茂吉さまはこちらで。 ……お届け物がございます」
変装した、と言っても破れ目を繕わず所々ささくれのある着物にほうかむりしただけだが、弓弦斎が門の前で声を上げる。
「おう、すまない。今そっちにもらいに行くからな」
何食わぬ顔で茂吉が出て来る。
弓弦斎が、
「茂吉さんでいらっしゃいますか」
と問い、茂吉は、
「ああ、そうだが」
と応える。
全ては共に諸国を巡っていた頃によく行っていたやり取り。
ただ一つ違うのは、下準備を茂吉が行い弓弦斎が儀式を現場で指揮・指導していたこと。
要するに、今回はお互いの役割が当時とは逆であった。
そして、
「こんなものを何に、……と言うか、いえ、何をなさるおつもりなのか、 ……良かったら教えてもらえませんか」
と弓弦斎が聞く。
これも二人だけがわかるやりとりであった。
(何か問題はないか? 問題があれば言ってくれ、対処する)
という感じのことを聞いていたのだ。
それに対し、
「決まってるだろ、ここは寺だ。弔いだよ」
(寺での弔い=普通のこと、要するに、順調である)
「さっ、左様で……」
(それは良かった)
「人だって鳥だって生臭ぇモンだって、生きとし生けるものは皆仏さまだからな」
(先ほどと言葉は違うが同様の内容を言う=現時点で全く問題ない)
「そっ、そりゃそうですよね」
(では、このまま変更なしで)
そして茂吉が、
「すまえねが帰りにちょっくら弓弦斎先生んところに寄って「ありがとうございました」って茂吉が言ってたって伝えてくんねえか。本当にすまねぇとは思うが、この後もよろしく頼む」 と言ったのは、
(先生ありがとうございます。それと後の段取りもよろしくお願い致します)という意味である。
これら一連のやり取りは、万一誰かが茂吉と弓弦斎とのやり取りを聞いても、二人が知り合いであるとは思わないように、ということである。
ではなぜ、二人の関係性を隠す必要があるのか。
この呪いの儀式を表立って取り仕切るのは、茂吉である。
そして、裏方として全て極秘裏に物事を進めるのが弓弦斎。
表の仕事は作法の舵取りをし、儀式を段取りよく進めるために働く。
裏の仕事はそれ以外の段取りや仕掛けを、見えない所に仕込むことにより、儀式に奥行きを持たせる。
それは、あくまで神秘性を演出するためであり、呪いという儀式を行った人間の満足度の底上げ、という、大切な役割が裏方にはあった。
実は、これには弓弦斎のポリシーが大きく反映されている。
裏方が行うことは、呪いを執り行う本人=依頼主のさまざまな形の満足を、文字通り裏から支えることである。
それは決して、依頼主を騙すことではない。
たとえ儀式を途中で依頼主が投げ出しても、
『ここまでのことをやったのだからもう満足だ』そう思えるように、茂吉と弓弦斎が表裏一体となること。
それが、拝み屋としてのある種の醍醐味であった。
たとえそこに小細工・目くらましがあっても、決して誰かを騙すことはしない。
誰かを『救う気持ち』以外絶対に持たず、全てを執り行う。
そして誰かを『思いやる気持ち』が根底にあるからこそ、仕掛けには万全を期して、決して失敗のないようにする必要がある。
そういう事情があるため、二人の関係を今回のような場では、誰にも知られないようにすることは大切なことであった。
菜めし屋の若い衆の代わりに弓弦斎が朝夕の食事を運び、茂吉がこっそりと器の下に紙切れを隠す。
それに書かれた短い言葉でキメラ製作の進捗状況を共有する事ができる。
それに合わせて、弓弦斎は準備を整える。
ユリカモメが飛び立つ形の紙を、薄紙や厚めの紙、それに油紙も切っていく。
夜になるとそれらの紙を持って人気のないことをよく確認した野原の真ん中で、弓弦斎はちょうちんの火をうつし、一枚一枚燃やしてみる。
それぞれの燃焼の具合や特徴を調べ、厚紙に薄紙や油紙を少量の糊で貼り合わせ提灯の炎で乾かし、何度目かの試作で納得できる燃え方をするものが出来上がる。
次の準備は少し厄介だった。
鳥を一羽用意しなければならないのだが、今度は生きて元気に飛べる鳥が必要だった。
弓弦斎は茂吉と出会う以前から、全国を歩いて商いをしてきた。
商いの旅でさまざまな人と出会い、そして商売をするうえで身につけたその人懐っこい性質から、各地で多種多様な身分や職業の人達と知り合い、様々な人達から様々な話を聞いた。
そしてそれは、当時の栄七にとって何よりの楽しみでもあった。
またその後も、そうして色々な世間知を吸収し広げることで、拝み屋としての質も上がっていった。
それは茂吉と出会う前のこと。
山城の林道で休憩していた時、たまたま通りかかった、罠を使う猟師と挨拶を交わし世間話をした。
その猟師とは思いのほか気が合い、請われるままに十数日間、そこの家族と生活を共にしたことがあった。
その時弓弦斎は猟師の手伝いをし、その時の知識を生かし、捕らえたユリカモメを廃寺に届けた。
だが今度は生け捕りにしなければならない。
それなりの罠を使って、生け捕りにする方法も、確かにある。
だが今回は、複雑な罠を用意している時間がない。
また生け捕りならば、とりもち等の粘着剤で捕まえる方法もあるが、羽が汚れて飛べなくなると意味を成さない。
最も簡単な首にかかる罠でも、かかった直後に外してやれば、ダメージは最小限で済むはずである。
そのため弓弦斎は、一日中罠を張ったそばで身を潜める、という、何とも気の長い不確実な方法を選択した。
秘密裏に誰の手も借りず、時間もかけず元気な鳥を生け捕りにする方策は、この時の弓弦斎はこれしかないと考えた。
弓弦斎は茂吉と磐城のだんなのところに、菜めし屋からの朝食を届け、その直後先日ユリカモメを捕えた所とは別の場所に身を潜める。
初日は警戒し全く鳥達が近付く事はなく、朝夕共空振りに終わる。
二日目もほとんどの鳥達は警戒を解かなかったが、静かに身を潜め続ける弓弦斎に好奇心の強い若い鳥であろうか、数羽の鳥が徐々に距離を縮めてきた。
そして三日目の早朝、数羽のユリカモメが罠のすぐ傍まで来る。
近くまで来るのだが、まるで弓弦斎の気配、というか殺気のようなものを感じ取るかのようにすぐに遠ざかってしまう。
弓弦斎はこの三日ほど、うとうとするだけでほとんど眠っていない。
この日の朝も疲れた体で、菜めし屋から朝飯を受け取り廃寺へと運ぶ。
廃寺で茂吉に朝食を手渡す時も、ついつい伏し目がちになる。
「いつもありがとうな」
この日、茂吉は弓弦斎の疲労の度合いを、ほおかむりの隙間から見て取り、思わず声をかける。
「いえ、こちらこそ、ご贔屓ありがとうございます」
弓弦斎も、
(心配はいりませんよ、茂吉さん。ええ、私なら大丈夫) と、昔いつも交わしていた表情で茂吉に答える。
「じゃ、昨日の夕飯の器、返すからな」
茂吉はそう言って器を持ってくる。
今日も伝言の紙が器の下にある。
帰り道に懐の中で紙を開き読む。
「きょうできあがり こんやぎしき」
歩きながら弓弦斎は一人舌打ちした。
器を菜めし屋に返して、弓弦斎は一目散に罠を仕掛けていた所に向かう。
眠いだの疲れただの言っている暇は一瞬たりともない。
だが、そこに着いた弓弦斎は呆然とする。
片付けたはずの罠が、出したまま、仕掛けたままになっている。
しかもその罠にユリカモメが一羽、だらりと力なくぶら下がっていた。
その光景を見た弓弦斎はがっくりと膝をつく。
仲間が罠に掛かる姿を、遠巻きに見つめるユリカモメ達。
それはこの場所での鳥の捕獲(生け捕り)が、失敗したことを意味する。
鳥は思いのほか頭の良い生き物である。
仲間がただ一羽罠に掛かったその姿を晒せば、そこにいた全ての鳥達は、罠とそれに頻繁に近づいた人間である弓弦斎を、特別警戒対象として認識する。
同時にそれはこの場所だけではなく、この周辺一帯でのこの方法での生け捕りが、この時から長期間にわたり失敗に終わることを意味する。
弓弦斎がユリカモメを選んだのは、他の鳥と比べて比較的警戒心の薄い、悪く言えば少し厚かましいくらいに人の近くに寄ってくる鳥だからである。
そのユリカモメが、警戒心と敵愾心を剥き出しにして、一斉に弓弦斎を睨む。
実際にはそんなことはないのだろうが、疲れがピークを超えてしまっている弓弦斎の脳内では、遠巻きに見つめている鳥たちが、そうしているように思えてしかたなかった。
心が折れそうになる。
(茂吉っぁんがあそこまで尽力してるんだ、余程の大恩のある人のために動いているに違いねぇ……)
弓弦斎は、茂吉が訪ねてきた時の姿を思い出し、落胆している暇などないことを再確認し必死に踏ん張ろうとする。
(茂吉っぁんが裏方をしてくれて一回でもしくじったことがあったかい? いつも『先生任しといておくんなさい』そう言って毎回毎回万事ぬかりなく支えてくれたじゃぁねぇか。そのことを感謝し、ねぎらっても『なぁに、先生の仕込みが良いからに決まってやす』いつもそう言ってくれてたっけ。だから私もここが踏ん張りどころ。何とかしないと、何とか……、クソっ!)
ひざの間で罠に掛かってぐったりする鳥に、弓弦斎の悔し涙が一滴落ちる。
その刹那、死んだと思っていたユリカモメが弓弦斎の足をバタバタと翼で叩く。
咄嗟に両の手で鳥をかかえ、ユリカモメのダメージを調べる。
何度か手を軽く噛まれたが、どうやらユリカモメはゆるめの罠にかかり気絶していただけのようであった。
弓弦斎は藪に隠してあった竹のざるを二つを合わせ、その間になだめながらユリカモメをやさしく挟み込むようにして身動きできなくする。
弓弦斎は一気に救われた気分になり、自然と東の空に昇ったお天道様に手を合わせ、
「茂吉っぁん、俺ぁ役立たずに逆戻りせずに済んだようだ。ありがたいこった」
そうつぶやいた。
*
弓弦斎こと栄七、父はとある商家で通いの番頭をしていた。
幼い頃奉公に出た栄七は、
「物覚えも悪けりゃ手先も不器用。その上愛想も悪けりゃうちに置く理由もなかろう」そう言われて、奉公先から返された。
その後も何度か奉公に出たが、返されるか栄七が逃げ出すかで、なかなか一つところに落ち着くことができなかった。
当然家に戻れば、理由の如何に関わらず、父親に叱責される。
だが母は優しかった。
「いいじゃないの。そのうち何でもできるようになるよ。ねっ、栄七」
幼い頃からよく手伝いをした栄七を、母はいつも優しくかばってくれた。
名前からもわかるように栄七は七番目の子供、要するにかなり遅くにできた子供であったため、たいそう母に可愛がられて育った。
そのためか少し甘ったれたところが栄七にはあった。
だが十になり、何度目かの奉公に上がった先でのことである。
突然母がたずねて来た。
そして母が言う。
「西国に行く」
その時母が何を言っているのか、栄七にはよくわからなかった、というか、わかっていたが受け入れたくなかったのかもしれない。
だが栄七がまた奉公先を飛び出して家に帰った時、母の言葉の本当の意味を知る。
栄七の母はその言葉通り父と夫婦別れをして、広い西国のどこかへ行ってしまっていた。
隣近所の母と親しかったおかみさん達に話を聞くと、どうやら父が博打を覚えてしまい、愛想を尽かした母が話し合いの末出て行った、ということだった。
そして出て行った先で乞われて再婚をし、今その相手と西国で暮らしている。
そういうことだった。
井戸端でその話を聞き終わった栄七に、厳しい現実が奉公先からやってくる。
奉公先から連れ戻しに来た者が、余計な仕事を増やした罰として、その場で栄七を強く殴ったのである。
しかも、
「帰るぞ、さっさと立てっ! ほらぁ! 役立たず」と、屈辱的な罵声まで浴びせかけた。
栄七が奉公先から逃げ帰った時、今まで一回たりともペナルティーを与えられたことがなかった。
なので今回も『嫌になったから勝手に辞めて帰る』という、いつも通りの無責任な行動を取った。
今までは母が奉公先に出向くなどして間に入り、何とか事を収めてくれていた。
だがその母はもういない。
なので、遁走した責任を今回は自分一人で取る事になる。
栄七はそれから、いっそう辛い仕事ばかり押し付けられるようになる。
いくら辛くともこれからは帰る場所、大好きな母が待っている家はない。
栄七は歯を食いしばって堪える。
だが一度無断で仕事を投げ出した事のある者に、優しい声どころか、普通の表情を向ける者すら、忙しい職場にはいない。
文字通り逃げ場のない、過酷な現実から目を逸らせる方策を持ち合わせない、まだ子供の栄七が出した結論。
それは、
『逃げ場所がなくとも『逃げる』という行動は取れる』というものだった。
子供というものは厄介な時に厄介な事を思い付き、それをいとも簡単に実行してしまう。
朝の水汲みと薪運びの時、隙を見て着のみ着のままで店を飛び出す。
前掛けを付けた丁稚さんが素足のまま通りを駆ける。
これは今で言えば、オフィス街をスーツ姿の男性がブリーフケースを持って颯爽と歩く、それと同じくらいその当時全く違和感のない光景である。
そして栄七はそのまま一気に東海道を西へ向かおうと考えた。
だが人家が途絶え、田畑もない山道に入ると人の目にその姿は少し奇異に映る。
「おや? 丁稚さんこんなへんぴな所までお使いかね?」
「山道は厳しいけど足元はそれで大丈夫かい?」
すれ違う人々が優しく声をかける。
栄七はそれらの人達に、黙ってうつむきお辞儀をするだけでやり過ごす。
夏のことだったので、夜凍え死にすることはないだろうと栄七は思っていた。
夏の山中を着のみ着のまま野宿することの過酷さを知るはずのない栄七は、暗くなって山道を動き回るのは危険と判断し、山の斜面を少し下ったくぼ地に横たわる。
すぐに背中に激痛を感じ飛び起きる。
何かが着物の内側を這い回る。
ムカデであった。
肩甲骨あたりを噛まれた栄七は、着物を脱いで払い落とし、痛みに堪えて月明かりをたよりに少しずつ歩いた。
この日は朝から水以外を口にしていない。
空腹は疲労を倍化させる。
道端に座り込んでは歩き、疲れては座り込んでまた歩きを繰り返し、そしてようやくお天道様がお出ましになられる。
夜が明けてスッキリしているのは、食事や睡眠にありつけた者だけである。
この時の栄七の苦痛は空腹と寝不足による疲労だけではなく、背中のムカデに噛まれたところの疼き、また顔や腕や足などの皮膚が露出したところには、隙間がないほど蚊やアブ、ブヨに刺された跡でぼこぼこになっていた。
疲労困憊したまま清水の湧く旅人用の水場で、顔や手足を洗う。
とりあえずは水腹だが、少しだけ空腹感が遠のき、湧き水が虫刺され後にひんやりとして心地よい。
少し気持ちが落ち着き、これからの事を栄七は考える。
どこに向かっているかは、
「母がいるであろう西国」
ただそれだけがたよりである。
この時の栄七は、西国がどちらのどこで、どのくらいの広さなのかも知らなかった。
しかし、栄七には一つだけ、ハッキリとわかっていることがあった。
「もう絶対に奉公先にも、父が暮らす家にも帰ることはない」
現状がここまで辛いにもかかわらず、栄七の決心はまるで、昨日歩き通した己の足に踏み締められたかのように固くなっていた。
手を水場の大きな岩をくり抜いた水溜めに浸していると、
「ちょっとごめんなさい、水汲ませてもらっていいですか?」背後から声が掛かる。
栄七がびっくりして飛びのく。
「ごめんなさい、驚かすつもりはなかったんだけど……」
声の主は栄七の顔や手足の腫れを見て驚き絶句する。
その人はかつぎの薬売りだった。
「ちょっとその虫刺され、みせてもらってもいいかな?」
優しい声音だった。
「うん……」
と、うなずきかけて栄七が「ハッ!」となる。
「傷薬一つがお前の一年分の給金より高いんだから、そのくらいの傷はツバでも付けときな」
過去の奉公先での番頭さんの言葉を思い出し、無一文の栄七が頑なに首を横に振る。
黙って何度も何度も首を振る栄七に、薬売りは何か見て取ったようで、
「お金はいらないし、役人を呼んだりもしない。安心おし」先程と同じ優しい声音に、今度は笑顔まで付いていた。
それでも栄七は黙って首を横に振る。
薬売りは少しあきれたような顔をして、
「そのままで逃げられると思うのかい? 何の準備もなく逃げ出したのなら、他人様の好意は素直に受けるもんだよ。……それとも疲れ果てて元居た所に帰るかい? もしも帰るなら送ってってあげるが、どうする?」
栄七はやはり黙って首を横に振った。
薬売りは担いでいた商い用の薬箱を降ろし、小さめのはまぐりの貝殻を合わせた物を取り出す。
「顔や手足は虫刺されだな。これを塗ってあげるから、ちょっとこっちに来なさい」
栄七は、今度は黙って下を向く。
「この場では遠慮をしても損しかしないよ。いいからじっとしてな」
薬売りが自分から近付き、はまぐりに巻いてあった封紙を破る。
「ほら、いい香りだろ。俺が扱うのは良い物ばかりだからね、かゆみもすぐに治まるよ」
栄七は目を閉じた。
薬売りが腕にそっと薬を塗る。
その言葉通り薬はすぐに効き始め、全体が腫れて熱を持ち、まるで他人の腕のような感覚になっていたのが、ゆっくりと自分の腕の感覚を取り戻し始めた。
「どうだい? 腫れがひいてく感じだろ?」
そう言いながら脚にも塗ってくれる。
「何も話したくないならそれでいい。でも下を向いたままだとこれを首に塗れないから、ちょっとだけでいい、顔を上げてもらえないかな?」
栄七は目を閉じたまま顔を上げ、顔や首にも薬を塗ってもらう。
「よし、これでいい。俺が今できるのはこれだけだが、またどこかであったらそん時はお互い様でよろしくな」
そう言って薬売りは、今塗ったはまぐりと、もう一つ新しい塗り薬一つを栄七の手に乗せて去っていった。
栄七はその後姿に声をかけたかった。
『ありがとう』
その一言を発するべきなのはわかっていた。
だが声を出せば泣き出してしまう。
泣き出せばせっかく踏み締め固めた西国行きの決心に、己の涙が染み込み緩んでしまう。
……栄七は自分でわかっていた。
なぜ奉公先で『可愛げがない』と言われるか。
『ありがとう』を言わないのである。
言い換えればそれは『感謝がない』ということである。
感謝のない人間は、どこへ行ってもあまり好かれる事はない。
それは現代でもこの当時でも変わらない。
栄七の場合、それは『甘え』である。
母に対する甘え、世間様に対する甘え、そして、自分に対する甘え。
この時初めて栄七は、自分の問題点と向き合った。
そして、今導き出すべき答えはすぐそこにあった。
薬売りは水筒を忘れていた。
栄七は涙を流しながら水筒に水を満たし、そして答えに向かって走る。
追い付き前に回りこみ、涙声で栄七は言った。
「薬、ありがとうございました」
あとはしゃくりあげるだけで、それが精一杯だった。
薬売りは水筒を受け取り、
「俺の薬は良く効くけど、泣いて礼を言うほどのもんじゃない。それよか、水、ありがとな」そう言って栄七の萎えかけた心を支えるように、薬売りは並んで歩いた。
途中の茶店でおむすびを、
「水のお礼だ」と言って、薬売りがご馳走した。
一日半ぶりの飯を栄七はよく噛み味わって食べる。
おむすびが、こんなに旨い食べ物とは思わなかった。
丁稚生活での朝晩の飯は粥である。
だが家に帰れば母は栄七のために飯を炊いてくれて、頼めばおむすびにもしてくれた。
何度も食べた、大好きな母が作ったおむすび。
母には申し訳ないが、これほどまでに旨いおむすびは初めてであった。
「ありがとうございます、おいしいおむすびです」
疲れと寝不足でむくみ、さらに虫刺されで腫れた顔で一度ずつ、薬売りと茶店のおかみさんに言う。
「そうか、そら良かった。旨いもんは血と肉になりやすいって言うから、育ち盛りの丁稚さんには何よりの薬かもな」
そう言って薬売りは笑っだ。
それから栄七は薬売りと行動を共にした。
当時は行商するにも何をするにも国境を通る際に通行許可証、いわゆる通行手形が必要であった。
当然の事ながら、職場から何の準備もせず逃げ出した栄七が、通行手形など持っているはずはない。
だが栄七は堂々とその薬売り、名は竹作という男と共に関所を通った。
最初の関所を通る時、何も知らされていない栄七に、
「とにかく何を言われても黙ってうなずいてりゃいいから」
と言われていた。
関所の窓口係のような人に竹作は「お願い申し上げます」と二人の通行手形を提出する。
通行手形は窓口係から一旦奥に持って行かれ、奥でもう一度検められる。
その際も何ら咎め立てされることなく、
「商いご苦労。通ってよし」
そう言って通行手形が返される。
栄七は竹作に倣い深くお辞儀をする。
「ちょっと待て」
別の役人が二人に声を掛ける。
「そちらの年若い方、名は?」
竹作が、
「栄七で……」
「まて、私は年若い方に聞いたのだ、おい栄七とやら、年はいくつだ?」
栄七は黙ってうなずくように下を向く。
「どうした? 栄七? 自分の歳がわからんのか?」
栄七は辛そうな顔で小首を傾げる。
「そちらの年上の方、名は何と申す」
「竹作と申します。今年で二十七になります」
「そうか竹作。いやな、ちょうど昨日のことなんだが、字が汚ねぇ俺を助けてくれてる、そこにいる乾物問屋の大旦那と話してたんだがな」
役人の口調が急にくだける。
竹作がひざまずき控え直し、栄七もそれに倣う。
「商いしようって人間が名前聞かれて黙ってちゃいけねぇ。逆に俺に名前を聞き返し、ついでに歳まで聞き返して『そいつぁお若く見えますね』くらい言い返す機転が欲しいってもんよ」
「ご最もに存じます」
竹作は平伏する。
「違うんだ、話はまだ続きがあってな、そこの大旦那、いや、今は隠居の身だから元大旦那が言うには『関所でそんなことを言える胆の太いヤツいませんよ』って。だから俺もちょっと試してみたくなって、子供ながらに立派なツラ構えな栄七とやらに声を掛けさせてもらったんだ。それで身を硬くさせちまったんならすまねぇ」
役人がさらにくだけた口調で頭をかく。
「滅相もございません、それはお役人様と大旦那様の、おっしゃる通りでございます」
「俺の気まぐれで脚を止めちまって申し訳なかったな。おい、栄七よ」
栄七は平伏する。
「俺の言ったこと覚えときゃ商いで役に立つかもしれねぇ。これから色々あるかも知れねぇが、明るい気持ちと感謝の気持ち、この二つを両の翼にしてがんばんなよ」
さらに役人が近くに来る。
「それから栄七、これは俺からの侘びだ。受け取ってくんな」
役人は優しく微笑みながら、小さなふくろうの根付を差し出した。
「ふくろうは『不苦労』につながるって縁起もんさ。さっき言った、明るい気持ちと感謝の気持ちの両の翼、コイツ見た時に思い出すように、さっ、持って行きな」
その温かな心遣いに竹作と栄七は、敷かれた筵に額をすりつけた。
二人は山道を急ぐ。
「お役人様に声を掛けられた時は少し焦ったね」
「何かあったんですか?」
「あったんじゃなくって、なかったから作った」
「何をですか?」
「手形」
偽造である。
この当時、公文書偽造はお上を謀る重罪である。
それをいとも簡単にやってしまう胆の太さ、というか、違法行為を堂々行うのであるから図太いというか面の皮が厚いというか、少しそういうところが竹作にはあった。
だが竹作は、
「あのお役人様じゃねぇが、商いするには、このくらいでなくちゃ」悪びれずに明るく言ってのけた。
その後、近江商人である竹作と共に栄七は、東海道を何往復したであろうか。
読み書き算盤が不得手だった栄七に、竹作は歩きながら根気よく算術を教えてくれ、そして立ち止まっては杖の先で文字を地面に書いて教えてくれる。
以前の奉公先では、文字を覚える事を面倒臭がった栄七が、
「竹作さん、次の文字お願いします」自ら催促までするようになる。
そうなると立ち止まるまで待てない。
すると今度は指が筆、空が手習帳になる、
そして薬の種類・薬効・禁忌、そして商い上では各商品名と各仕入れ値や単価等も覚えていった。
栄七はまるで、乾いた地面に雨粒が染み込むように知識を吸収した。
栄七が十五の年、宿で戯れに竹作の杖に切り出しの小刀で『竹』と一文字彫る。
翌朝それに気がついた竹作は感心し、
「帳面の字が綺麗なのは知っていたが、これは見事だ。栄七さんそっちの方もやってみてはどうだろう。この先何があっても大丈夫なように、手に技を覚えさせておくのも良いかもしれないよ」
そう言って、店構えは小さいが寝る暇もないほど注文が絶えないと評判の、遠州一と謳われた印判師を紹介した。
栄七は素直に竹作の言葉に従い、その印判師の下で三年間みっちりと修行をする。
そこを辞してまた竹作と共に行商に戻る時、件の印判師は、
「本当に惜しい。もう二年もすりゃ俺を超えられるのに……」そう言って大層残念がった。
それから竹作と栄七はまた街道を廻り共に商う。
ある日、栄七はかしこまって言う。
「行き倒れ間違いなしの私に、ここまで色々として頂いたご恩、竹作さんには一生かかっても返すつもりです。本当にありがとうございました」
その時、
「栄七さんが世間様のお役に立つ、それが私への一番の恩返しですよ」竹作はそう言って明るく笑った。
あの日、
「役立たず!」と罵られた日から十年経たずに栄七は、誰からも一人前に見てもらえるような立派な体躯と表情をしていた。
その後、竹作が竹助(竹作の勤めたお店は、手代は作で、番頭は助)になると純粋な意味で行商に出る機会は一年に数度になり、ほとんどが手配や仕入れ等で各地を飛び回ることになる。
それを機に栄七は、東海道から母が暮らすと聞いた西国廻りに変更することを決意する。
だが母の消息の手がかりは、あの日井戸端で聞いたことのみ。
「腕のいい小紋の職人で、仁吉っていう人らしいよ……」
それだけを頼りに、広い西国を探し回ろうというのである。
もう役立たずではない自分を見て欲しいという思い、それが母に対する思慕の念を、沸点近くまで上昇させていたのだろう。
その気持ちを原動力にして、栄七は置き薬売りとして西国新規開拓をしながら、同時進行で母を捜した。
最初は広い西国でたったそれだけの手がかりしかないのは、
「それこそ雲を掴むというより、霞を掴むと言ったほうが相応しいやもしれません」そう言いながら、人に話を聞いて廻った。
だが、霞は栄七に向かってたなびいた。
当時、本当に腕のいい職人というのは、どの業界でもそういるものではない。
人がひしめく江戸・浪速のように、人が多くいれば、腕の良い職人の数も相当数いるであろう。
だが地方に行けば人口も少なくなり、腕の良い職人は、それだけ人の口にのぼりやすく、その噂も世間に響き渡りやすくもなる。
「江戸から来なすった腕のいい小紋の職人で仁吉さん? ああ、その人なら川沿いの染物屋に勤めて、そこの長屋でおかみさんと二人で暮らしてるよ」
栄七は、何百の空振りを経験していたので、あまり浮き足立たず冷静に教えられた家に向かう。
行商の癖で、まず井戸端へと足を運ぶ。
「あのもし、お話中失礼を致します……」
栄七はそう言いながら、野菜を洗う女性の背中を見つめる。
「はいはい」
おかみさん達が口々に返事する。
栄七の見つめる背中があちらを向き、懐かしい顔がこちらに向く。
その顔は最初笑顔で、その直後『おや?』と眉が動き、そして立ち上がり、
「ひょっとして……」そう言って涙があふれる。
「お久しぶりです、おっかさん。栄七です」
井戸端が一瞬どよめく。
すぐに誰かが少し離れた場所に縁台を持って来て二人を座らせ、誰かが熱い茶を淹れ、そして皆は気を利かせ、また井戸端での洗濯や炊事の準備や後片付けという、日常に戻る。
「お前今は担ぎの薬屋さんしてるのかい」
「ええ、私も色々ありましたが、今は何とかこれで食べさせてもらってます」
「それにしても大きくなったねぇ」
母は栄七の頬をそっと撫で涙ぐむ。
「おっかさんは全く変わらない、外見も、中身も」
いつぞやの関所のお役人の助言なんぞ吹き飛ぶような、栄七の素直な感想であった。
「本当に良く訪ねてくれたねぇ。風の噂にお前が奉公先を飛び出して行方知れずだってことを耳にして、それから今日まで、どれほどまでに心配したか」
「私ももっと早くに訪ねるべきだったのだろうけど、……役立たずなままでは、おっかさんに顔向けできない、人様のお役に立てるようになってから……、そう思って今日まで頑張って来ました。小さな頃と相も変わらずの自分勝手、勘弁してやって下さいな、おっかさん」
長屋の井戸の中にまで、おっかさんの嬉し泣きの声がこだました。
生け捕りできたことで弓弦斎の疲れは一気に消し飛び、その勢いで用意を進めにかかる。
まずはざるの中のユリカモメの足に万一を考えて慎重に紐を結ぶ。
そして人気のない野原の片隅にあらかじめ掘っておいた穴の中へ合わせたざるごとそっと置き、草をふわっとかぶせて隠した。
次は生きた魚を捕まえる必要があった。
弓弦斎は海を見て驚く。
夜明け頃静かだった海が今、荒れに荒れて強くうねる。
用意したテグスと釣り針を握り、波が割れる波打ち際を見つめる。
岬になった地形であれば必ず風裏が存在する。
だが風裏になった場所まで行ったは良いが、そこで魚が獲れなかった場合のことを考えると時間に余裕がない今、風裏探しはあまり名案良策とは言えない。
弓弦斎は鳥を捕まえることが最難関と考えていたので、この海の荒れ具合は本当に予想外の出来事であった。
「本当に私は、 ……賭け事にむいてない」
ついつい出た弱音であった。
一旦頭を冷やそうと、道具箱片手に宿に向かって歩く。
朝飯がまだであったことを、弓弦斎の腹の虫が思い出し、菜めし屋に顔を出す。
「おやだんな、えらくお疲れのようですが、懐があったかいのならいいもんがありますぜ」
菜めし屋の主人が、心配顔と商売顔の二つを、同時にのぞかせる。
「ほぉ、何を仕入れなすった?」
弓弦斎が疲労も隠さず作り笑顔で言う。
「ええ、ちょうどイキのいい一尺半の鯉がさっき入りやしてね。コイツは川と海の境で獲れたヤツだから元気ですぜ。そもそも鯉って魚は大きくなり過ぎると何でも食うようになって、そうなるとその分臭みが強くなっちまっていけない。それが今日入ったのは一尺半。これくらいが臭みが少なくそれでもって食いでがあって一番良いんでさ。しかも泥を吐かせてあるから今すぐにでも洗いやら鯉こくやらにできるってんですが、いかがですか? だんな」
主人の最後の方の言葉は、ほとんど弓弦斎の耳に届いていなかった。
「ご主人一つ頼みがあるんだが聞いてもらえるだろうか?」
「ええ、なんでも言って下さいまし、洗いで? それとも鯉こく? わかった、生き血を飲みなさる、そうですね?」
「いやいや、生き血どころか、その鯉、生きたまま、そのまんまで売ってもらえないだろうか?」
「う~ん、だんなひょっとして飼うおつもりですかい?」
「いやそうじゃない。少し元気をなくしている人が知り合いにいてね。その人に食べさせてあげたいんだが、足があまり丈夫じゃない。だから私が届けて向こうで料理して食べてもらおうかと思ってね」
「そういう事なら喜んでお譲り致しますよ。なぁに、鯉は強い魚でさ、桶に水草やら海草を敷いて運んでも一刻やそこらはピンピンしてますんで大丈夫でやすよ、へぇ」
それを聞いた弓弦斎は、肩から全ての荷が降り表情も晴れやかなものになる。
「おやおや、鯉は精が付く魚だとは聞いておりやすが、このだんなは見ただけで元気が出なすったようだ。いいねぇ、安上がりで」
主人の軽口に、弓弦斎は腹の底から笑った。
そしてゆっくりと腹ごしらえをし、一度も届けたことがなかった茂吉たちへの昼食の用意を菜めし屋に依頼する。
握り飯に焼き魚、それに鳥や野菜の炊き合わせ。
黙って出せばこれが何を意味するか、茂吉ならわかってくれるはずである。
廃寺に向かう道筋で、土地の漁師に声をかける。
「夜に雨が降るかって? この風ならもうすぐ治まるから、海も凪ぐし、今夜雨が降るこたぁねぇな」
(いいぞ、今朝からツキがこの風に乗って、私たちのところに転がって来ているようだ)
弓弦斎は心の中で叫んだ。
漁師に何度も礼を言い、廃寺への道を急ぐ。
廃寺に着いた弓弦斎は、
「お疲れじゃござんせんか? 今日はこれも食って元気出しておくんなさいまし」茂吉にそう言って、微笑みながらゆっくりうなずく。
岡持ちの中を覗き込み、
「おっと気が利くねぇ、今から行こうと思ってたところだ。ちょっくら器の中のぞかせてくんな。おやまぁ、これはご馳走だな。手間掛けちまって申し訳ねえ。ありがとうよ」
茂吉がそう言いながらゆっくりうなずく。
それに合わせるように、弓弦斎が頭を下げる。
向かい合う二人ともに疲労の色が濃い。
だがそれぞれの満足げな表情に、お互いが安堵した。
弓弦斎が帰りに河口沿いを急ぎ足で歩いていると、大きく曲がった真竹が流され枯れて朽ちかけているのを見つけ、枝をちぎりそれをかつぐ。
その近くに、ほとんど朽ちかけて、打ち捨てられた網があった。
それを竹に引っ掛けて持ちそのまま海岸に向かって歩く。
その竹と網を人目につきにくい砂浜の一角の雑草の中に隠す。
そして道具箱を取りに宿へと帰り、その足で菜めし屋に行き鯉を受け取る。
天秤棒の前に鯉の入った桶、後ろには道具箱という姿で海岸へと向かう。
そこは砂浜だが、満潮時波打ち際になるあたりに岩が露出した場所を探し、岩の向こうに一本、かなり深く杭を打つ。
そこから真っ直ぐ砂浜を登ったところで作業を始める。
道具箱から鉈を取り出し、曲がった竹を正確に半分に割る。
次に半分に割った竹の節を、やっとこで折っていく。
青竹ならそうはいかないが、枯れてしまった竹のふしの内側は、簡単にポキポキ折れてふしが抜けていく。
その竹の中に紐を三本、通すように置き、割った竹を元通り合わせて要所要所を藁で固定して、三本の紐が通るほぼUの字に曲がった竹のパイプが完成する。
その後、道具箱の中身を出して手ぬぐいに包み、空いた箱を竹筒の一方の延長線上の砂浜に埋める。
箱のふたの端には細く短い釘を一本打ち、その釘に一本目の紐を結ぶ。
そしてその紐を竹筒からでた紐と結び、その紐の端に鳥の形をした木の札を結ぶ。
残り二本のうち一本は朽ちかけた網の口をまとめるように結び、最後の一本は網の破れたところに、応急処置を施したところに結ぶ。
そのあと網の二箇所に流木を結び、少しだけ浮くように調節する。
まだ波が荒い。
地元の漁師さんの話では夜には波が静かになるそうなので、弓弦斎は必死に工夫しながら調整し、それらを砂に埋めておく。
そして網に結んだ紐の一本、網をまとめてある方には魚の形をした木の札、もう一本の応急処置側には何の飾りもない四角い木の札を結ぶ。
この木の札は、ユリカモメ捕獲待ちの時を利用して、弓弦斎が削り出したものである。
木の札にはそれぞれの形以外にもう一つ特徴がある。
鳥には一、魚には二、四角い札には三の文字が抜き彫りにしてあった。
三本の紐と木札を一まとめにして砂に埋め、あとに目印代わりの四角い木の札一枚を残す。
これで見えない部分の、しかけと準備は整った。
菜めし屋からの帰り、海岸近くで茂吉は弓弦斎と出会う。
「先生、何から何まで本当に申し訳ねぇ」
「いやいや茂吉さんの運の強さをお借りできたからこそ、準備万端整った、おっといけない、こういうことをゆっくり話している時間はなかったんだった。あそこの小高くなったとこ、あそこから真っ直ぐ浜に向かって行った所に……」
弓弦斎が場所と段取りを説明する。
「さすがは先生だ。それならおいらだってしくじりようがねぇ。それじゃぁ、あっしは三角を互い違いに七つ、そいつを三つ組んで参ぇりやす」
「ではお疲れとは思いますが、もうひと踏ん張りだけお願いします」
「先生、もし万一の時は助けてやって下さいましよ……」
「大丈夫、茂吉さんに、万に一つもぬかりありませんよ」
「こいつぁ参った」
二人で拝み屋家業をしていた時、弓弦斎を深く尊敬する茂吉の口癖は、
「大丈夫、弓弦斎先生に、万に一つもぬかりありやせん」だった。
それを今回は弓弦斎が言った。
これは戯れで言ったのではない。
当時の茂吉の裏方としての優秀さ、それは儀式全体の流れを理解し、淀むこともぬかることもないよう、様々なことを想定し用意をする。
それを茂吉は毎回遺漏なく整えていた。
彼らが行った儀式に一度の失敗もなく、さらに依頼者の満足度が非常に高かったのは、間違いなく、裏方として茂吉が優秀だったから、ということだった。
それを今回初めて裏方をした弓弦斎が、確信したからこそ、出た言葉であった。
夜が来た。
街道筋とは違い、日が落ちてしばらくすると、通りをうろつくのは野良犬かイタチくらいになる。
だがこの日は、異形を作り出すために男二人が夜道を歩いていた。
背筋をピンと伸ばした二人は、大きな荷物を抱えゆったりとした足取りで海岸へと向かう。
茂吉が少しだけ前を歩き、昼間用意した場所へと磐城のだんなを誘う。
むしろを乗せた六芒星に組んだ護摩木の前に来た時、月のない夜の星明りにうっすら見えた目印の木札の上に、そっと荷物を置き隠す。
台をそれぞれ護摩木のこちら側、紐を埋めてある少し前に設置し、左右の台に水・米・酒・塩を神饌ものとして、茂吉が恭しく置いてゆく。
むしろの藁を揉んでほぐし、磐城のだんなに火打石で着火してもらう。
「ちょうちんを用意すりゃいいように思われますかも知れまやせんが、こういうのは他からもらった火を使わず自前の火を使わねぇと、こういう念ってヤツは目に見えねぇもの。どこをどう飛んでったり、遡ったりするかわかりやせん。ご面倒かと思いやすが、だんなの手とだんなの息で火が着きますまで、今しばらくお願いいたしやす」
「うむ、こちらこそすまぬ」
ゆっくり振られる藁の先で、暗赤色の火はゆっくりと藁を灰に変える。
茂吉の掌の中に磐城のだんなが息を吹きかけることで『ぽっ』という音と共に橙の炎が上がる。
その炎を砂浜に置いた三枚のむしろに移し、炎の勢いが強まったところを見定め、六芒星形の護摩壇をそこに乗せる。
中央の護摩壇を持った時に、細い針金が結ばれた釣針が浅く刺してあるのに気付き、その釣針を茂吉は供物台の下の方のだんなから見えない位置にそっと刺す。
炎がゆっくりと藁から木に移る。
真ん中の護摩壇の向こう側に炎に照らされた、中心に小さな板がある、砂に描かれた六芒星が浮かぶ。
弓弦斎が書いた目印。
それを見た茂吉が膝を着いて座ったまま、そっと砂浜を手探りする。
砂に埋められた木札を見つける。
磐城のだんなに簡単な呪文を唱えてもらいながら、自分も呪文を唱える。
そして茂吉は手探りに足元の木札、鳥の形をして一を彫った札をほんの少し引いてみる。
護摩壇の向こうにある砂の六芒星の端が少し崩れた。
間違いない。
茂吉は残り二枚の木札も少し試しに引いてみる。
こちらは弓弦斎から重いと聞いていたが、予想していたよりは軽かった。
だがあまり強い力で紐を引くと、埋めた竹がずれてしまったり、砂浜に不自然な跡が出現したりする。
(こいつはどうやって引くかじゃねぇ、いつ引くかだけが問題だな)
儀式の裏方を多数務めた茂吉の、的確な判断であった。
木札を脛の下に軽く埋めて隠した後立ち上がり、布に包まれたキメラを、中央の護摩壇に載せる。
うろこを剥がされ腹に羽毛を詰められた五尾の魚は、布に包まれたままの姿で、左の護摩壇の上にそっと乗せる。
それぞれの文様が描かれた布に、ゆっくりと火が着く。
二人は低く呪文を唱え続ける。
炎がいっそう大きくなった時、護摩壇がきしみ、そして崩れキメラが炎の中に落ちる。
その直後、魚も護摩壇が崩れて炎の中に落ちる。
茂吉は膝をついたまま後ろを向き、
「だんな、だんなの願いをこの御札に書いて下さいまし。書き上がれば念を込めてこちらに渡して下さい。あっしが火にくべてキメラにくわえさせます。そしてそこに書いたことをありったけの力を込めて、この火に向かって、キメラに向かって叫んで下さい。だんなが精魂込めたキメラが。ちゃんと願いを聞き届けて、腹ん中に願いを飲み込んでくれたなら、その時は相手に向かって、一直線に飛んでってくれますんで」
そう言ってゆっくりと頭を下げる。
「 ……うむ」
だんなは渡された細い紙の御札に、ゆっくりと書きそれを折りたたむ。
茂吉がたたまれた御札を受け取る。
振り向きながら受け取った御札を懐に入れ、懐から弓弦斎から渡された別の紙、鳥が羽を広げた形の紙にすり替え、その紙の端に先ほど見つけた針金が結ばれた釣針にかけて、火にくべる。
そして茂吉が頷くと、だんなは低く通る声で叫ぶ。
「我が家と同じ不幸を。……願わくは、干支一回りのち天美の家へと」
その瞬間、茂吉は鳥の形の木札を引く。
磐城の背後に埋めてあった道具箱のふたが開き、突然明るくなったことに驚いたユリカモメが炎と逆の方に向かって飛ぶ。
その足には長さ一間(約百八十センチメートル)ほどの細い針金が軽く巻いてあり、その先には釣針が結ばれていた。
月のない夜、弓弦斎の切り貼りした紙が、炎の翼で刹那の飛翔を見せる。
茂吉までが見惚れてしまったが、気を取り直し供物台や文様を描いたさらしを、崩れた護摩壇、というか、もうこの状態では単なるどんど焼きだが、そこにくべていく。
そして茂吉は魚の形と四角い木札を、だんなの方を振り返る時の動作を利用してゆっくりと引く。
波打ち際で網の中の鯉が、ばしゃばしゃと音を立てる。
「だんな、魚もちゃんと帰りましたよ。これでヤツらは関係無い方向方角で悪さすることはござんせん」
磐城のだんなが、真っ暗な波打ち際の、音のする方を見て、
「そうか……」と、安心したかのような声音で言った。
茂吉はだんなが立ち上がり音のする方向を見つめる隙に、魚の形の木札を落として足で踏み、四角い木札を、ぐいぐいと引く。
引いていると、すっと軽くなる。
弓弦斎が言っていた『網が口を開けたか、紐が切れたか』のどちらかである。
もしも紐が切れた時は、いつまでも波打ち際で鯉が暴れ続ける。
その時は離れた所で待機する弓弦斎が、そこまで泳ぎ着き、網を小刀で破って鯉を逃がす手はずであった。
だが鯉は一瞬で網から開放されたようで、すぐに波打ち際は静かになった。
もう炎もほとんど上がっておらず、熾き火が小さくはぜる。
「だんな、疲れましたか?」
「あぁ、……茂吉、 ……いや、茂吉さんよ、 ……俺はいいモン見た」
「いえ、何をおっしゃいます……」
「ありがとうな」
熾き火の暖かい色に照らされただんなの顔は温厚そのものだった。
そしてこの直後磐城のだんなが倒れてしまい、その後の儀式を続行し完遂するか、それとも打ち切るかを、誰かが決断する必要があった。
こういった儀式は。本人の満足のために行うものである。
なので、恨んでいる本人の意思決定が不可能になれば、その瞬間即儀式終了である。
だが、弓弦斎はなぜかそうしなかった。
茂吉に最終決定を委ねた。
茂吉からの返答がどちらであったにしても、不必要に儀式の痕跡を残すのは、その地域の人達にとって決して良いことではない。
茂吉からの返事を待つ間、弓弦斎が万全を期すため暗闇の中急いで浜辺の後片付けを行う。
まず網を点検したが鯉は逃げたようで、あとは無事河口を目指してくれるよう弓弦斎が祈り、そして網を細かく切り裂き海に打ち捨てる。
熾き火になった護摩壇のあったところの近くから道具箱とふたを回収し、ふたに刺さった釘を抜き道具箱に入れる。
竹筒を砂浜から掘り出して鉈で一尺ほどの長さにしていき、一番細い部分を幅一寸長さ二寸ほどにしたものに、木札三枚を入れてひもで縛り、道具箱に入れる。
残りは全て火にくべて、浜辺をあとにした。
そして磐城のだんなと廃寺で待っていた茂吉は、呪いの続行を決断し弓弦斎に宣言する。
それは、太夫としてこの儀式に参加した人間が、依頼者に代わるということを意味する。
本来これは、絶対にあってはならない『ねじれ』であった。
だが弓弦斎もこれを了承する。
拝み屋として一流であった弓弦斎が、今回太夫である茂吉を裏方として助けたことで、この儀式を裏側から完全な形で完結させたい、そう思ったのか、それとももっと単純に、身内可愛さから、冷静な判断力が鈍っただけなのであろうか。
こうしてプロとして普通は行わない経緯により、呪いの質や方向が微妙に変化してしまっていた。
そして弓弦斎は、どんぶりに砂と共に入れて持ち帰った浜辺の残り火を基にした火で、さんしち二十一日の間、絶やすことなく六芒星の護摩を焚いた。
複雑に絡み合った災いの根は、いっそう深く太くなっていった。
第四章 第一節 裏方仕事 終
第四章 約束の場所
第二節 直感的思考(が常に正しいとは限らない)
に続きます。




