第2話「影の形」
夜は、静かに深くなる。
ノクティアの夜は、音を奪う。
人の気配も、息遣いも、すべてが薄れていく。
その代わりに、濃くなるものがある。
「……来るな」
少年は低く言った。
隣を歩く少女は、少しだけ首をかしげる。
「どうして?」
「いいから、離れろ」
声が強くなる。
その瞬間だった。
ざわ、と。
足元の影が揺れる。
いつもより、明らかに強い反応。
空気が、重い。
「……遅い」
少年は舌打ちする。
気づくのが遅れた。
いや——違う。
これは、普通の影じゃない。
路地の奥。
闇が、歪む。
人の形をしているようで、していない。
輪郭が崩れ、何層もの黒が重なっている。
その“何か”が、こちらを向いた。
「……タスケ……」
声が、聞こえた。
ひとつじゃない。
重なっている。
複数の声が、同時に。
少女が、無意識に一歩踏み出す。
「待て」
少年は即座に腕を掴んだ。
「これは普通じゃない」
「……うん。でも」
少女の視線は、その影から外れない。
「助けを求めてる」
その言葉に、少年の表情がわずかに歪む。
「違う」
吐き捨てるように言う。
「あれはもう——人じゃない」
影が動いた。
一瞬で距離を詰めてくる。
速い。
「下がれ!」
少年は少女を突き飛ばすように後ろへ下げる。
同時に、自分の足元へ視線を落とす。
影が、蠢く。
「……出ろ」
低く呟いた。
次の瞬間。
黒が、地面から這い上がる。
少年の影が形を変え、腕のように伸びる。
それはそのまま、迫ってきた影へと叩きつけられた。
鈍い衝撃音。
だが——
「……浅い」
手応えが軽い。
影は崩れない。
むしろ、笑ったように揺らめく。
「タスケテ……」
その声が、さっきよりはっきり聞こえた。
一瞬、動きが止まりそうになる。
——違う。
これは罠だ。
「……黙れ」
黒が再び伸びる。
今度は絡みつくように、影を拘束する。
だが。
ぶつり、と。
簡単に引きちぎられた。
「……っ」
強い。
明らかに、今までと違う。
そのときだった。
影の動きが、わずかに止まる。
視線が——少女へ向く。
「……?」
異様だった。
明らかに“反応”している。
少女は動かない。
ただ、まっすぐ見つめている。
恐怖の色は、ない。
「なんで……」
少年の口から、思わず声が漏れる。
ありえない。
影は“内側”にしか興味を持たないはずだ。
なのに——
影が、揺らぐ。
一瞬だけ。
動きが鈍る。
「……今だ」
迷わない。
少年は一気に踏み込む。
影が腕の形を取り、刃のように鋭く変化する。
そのまま、核心へと叩き込む。
「——消えろ!」
黒が弾けた。
断末魔のような音。
影が崩れ、霧のように散っていく。
静寂が戻る。
だが。
「……はぁ……っ」
少年の呼吸は荒い。
影が、まだ蠢いている。
足元から這い上がる黒が、身体を侵食しようとする。
「……くそ……」
抑えきれない。
使いすぎた。
そのとき。
「ねえ」
声。
少女が近づいてくる。
「来るなって言っただろ……」
振り払おうとする。
だが、力が入らない。
少女は、そのまま——
触れた。
一瞬。
すべてが止まった。
ざわついていた影が、静まる。
嘘みたいに、ぴたりと。
「……なに、した」
かすれた声で問う。
少女は少し考えてから、首をかしげた。
「何も?」
「……は?」
「だって、触っただけだよ」
理解できない。
ありえない。
影が、こんなにも簡単に——
「……お前、何者だ」
思わず、そう口にしていた。
少女は少しだけ笑う。
「さあ?」
軽い返事。
だが、その目は変わらずまっすぐだった。
「それより」
一歩近づく。
「あなた、大丈夫?」
言葉が、引っかかる。
普通なら怖がるはずだ。
なのにこいつは——
「……平気だ」
短く返す。
「嘘」
即答だった。
「めちゃくちゃ苦しそうだった」
視線が逸らせない。
「なんで、そこまでして戦うの?」
その問いに、言葉は出なかった。
理由なんて、決まっている。
——もう二度と。
同じことを繰り返さないため。
でも、それを言う資格があるのか分からない。
沈黙が落ちる。
少女は、少しだけ困ったように笑った。
「ねえ」
「……なんだ」
「名前、教えてよ」
またその話か、と思う。
だが。
さっきまでとは違う。
なぜか、今は。
「……ジャック」
自然に、口から出ていた。
少女の目が少しだけ見開かれる。
「ジャック」
確かめるように繰り返す。
それから、ふっと笑った。
「いい名前」
「……そうかよ」
照れくさい。
妙な感覚だった。
少女は、少しだけ姿勢を正す。
「私はヒカリ」
初めて、名乗った。
「よろしくね、ジャック」
その言葉が、やけにまっすぐで。
少しだけ、胸が痛んだ。
「……ああ」
短く返す。
それ以上、言葉は続かなかった。
夜は、まだ終わらない。




