第3話「距離」
夜は、まだ終わっていなかった。
路地を抜けて、少し開けた場所に出る。
崩れかけた建物の影が、わずかな風に揺れていた。
ジャックは壁にもたれたまま、息を整えていた。
呼吸は落ち着きつつあるが、体の奥に残る重さは消えない。
影を使ったあとの感覚には、どうしても慣れなかった。
「ほんとに大丈夫?」
ヒカリの声。
さっきよりも少し近い位置にいる。
「しつこいな」
「だって、明らかに無理してる」
図星だった。
だが、それを認める気はない。
「問題ない」
短く言う。
ヒカリは少しだけ考えるような顔をしてから、小さく息を吐いた。
「じゃあ、座って」
「……は?」
「立ってる方が無理してる感じする」
意味が分からない。
けれど、体が言うことを聞かなかった。
壁から離れ、近くの石の段差に腰を下ろす。
ヒカリも隣に座った。
距離は、さっきより少し近い。
沈黙が落ちる。
遠くで、何かが崩れるような音がした。
この街では珍しくない音だ。
「ねえ」
ヒカリが口を開く。
「さっきのって、何?」
分かっていた質問だった。
「……影だ」
「うん、それは分かる」
即答。
「どうやって使ってるの?」
視線を感じる。
まっすぐで、逃げ場がない。
「契約みたいなもんだ」
「契約?」
「自分の中にあるものを使う」
それ以上は言わない。
言えば、余計なものまで出てしまいそうだった。
ヒカリは少しだけ黙る。
それから、静かに言った。
「つらそうだった」
胸の奥が、わずかにざわつく。
「別に」
反射的に否定する。
「嘘」
また即答だった。
ヒカリは視線を逸らさない。
「見てたら分かるよ」
言葉が続かない。
こういうとき、どう返せばいいのか分からない。
ヒカリは少しだけ柔らかく笑った。
「でも、助けてくれた」
その言葉に、息が詰まる。
「……違う」
かすれた声が出た。
ヒカリが首をかしげる。
「違う?」
「たまたまだ」
自分でも、弱い言い訳だと思う。
それでも、そう言うしかない。
ヒカリは少しだけ考えてから、小さく首を振った。
「たまたまじゃないよ」
静かな声。
「だって、あのとき」
少し間が空く。
「私を、先に守った」
言葉が刺さる。
あの瞬間のことを思い出す。
考えるより先に、体が動いていた。
理由なんて、なかったはずなのに。
「……癖みたいなもんだ」
無理やり言葉を絞り出す。
ヒカリは、ふっと笑った。
「優しい癖だね」
否定しようとして、やめる。
これ以上言っても、たぶん伝わらない。
また沈黙。
今度は、さっきよりも少しだけ穏やかだった。
ヒカリが空を見上げる。
濁った空。
星も見えない。
「この街ってさ」
ぽつりと呟く。
「ずっとこんな感じなの?」
「ああ」
「昼も?」
「大体な」
ヒカリは少しだけ目を細めた。
「変なの」
「……そうか」
「うん。変」
少しだけ笑う。
その笑顔が、この街に合っていない。
それが、妙に印象に残る。
「ねえ、ジャック」
名前を呼ばれる。
まだ慣れない響き。
「なんだ」
「昔から、こういうことしてるの?」
影を使って戦うこと。
ヒカリの言いたいことは分かる。
「……まあな」
短く答える。
「怖くない?」
質問は、まっすぐだった。
少しだけ考える。
怖くないわけじゃない。
けれど。
「慣れる」
それだけ言う。
ヒカリは納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、ぽつりと呟く。
「私は、怖いかも」
意外な言葉だった。
思わず横を見る。
ヒカリは、自分の手を見ていた。
「影じゃなくて」
静かな声。
「なくなることが」
その言葉に、心臓が一瞬だけ強く打つ。
「家族とか」
少しだけ間が空く。
「大切な人とか」
それ以上は続かなかった。
ジャックは何も言えない。
言える立場じゃないと分かっている。
ヒカリは小さく笑った。
「変だよね。さっきまで普通に話してたのに」
「……別に変じゃない」
気づけば、そう答えていた。
ヒカリが少しだけ驚いた顔をする。
「そう?」
「ああ」
それだけ言う。
理由はうまく説明できない。
ただ、否定したくなかった。
ヒカリは少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか」
そのまま、少しだけ体を倒す。
ジャックの肩に、軽く触れるくらいの距離。
触れているか、いないかの境界。
拒絶するほどでもない。
受け入れる理由もない。
それでも、離れなかった。
「……ねえ」
小さな声。
「しばらく、ここにいてもいい?」
「好きにしろ」
ぶっきらぼうに返す。
けれど、追い払う気はなかった。
夜は静かだった。
危険なはずなのに、今は不思議と落ち着いている。
ヒカリの呼吸が、少しずつゆっくりになる。
眠っているわけじゃない。
ただ、力を抜いているだけ。
ジャックは視線を前に向けたまま、動かない。
胸元に手を当てる。
ネックレスの感触。
冷たいはずなのに、どこか熱を持っている気がした。
触れたまま、少しだけ力が入る。
思い出しそうになる。
あの夜のことを。
「……」
やめる。
今は、いい。
隣にいる気配だけが、妙に現実的だった。
この距離は、長くは続かない。
なんとなく、分かっていた。
それでも。
もう少しだけ、このままでいいと思った。
夜が、静かに深まっていく。




