第1話「夜の街」
朝が来ても、この街は明るくならない。
ノクティアの空は、いつも濁っている。
太陽は確かにあるはずなのに、光はどこか弱々しく、世界の輪郭を曖昧にしていた。
少年は路地を歩いていた。
足音は静かで、迷いがない。
この街を歩く者にとって、それは生き残るための習慣だった。
視線の先に、人影がある。
壁に背を預けるように座り込んでいる男。
眠っているようにも見えるが——違う。
足元から黒が這い上がり、輪郭を侵食している。
影に喰われた痕だ。
「……遅かったか」
小さく呟く。
助けるつもりで来たわけじゃない。
だが、こうして“間に合わなかった”形を見るのは、何度経験しても慣れない。
男の顔は、穏やかだった。
まるで何かから解放されたような——そんな表情。
それが、逆に不気味だった。
「ねえ」
背後から声がした。
反射的に振り向く。
そこにいたのは、ひとりの少女だった。
この街には似つかわしくない目をしている。
濁りがない。
夜を知らないような、まっすぐな瞳。
「その人、助からないの?」
唐突な問いだった。
少年は一瞬だけ言葉を探し、やめた。
「無理だ」
短く答える。
少女は男を見つめる。
ほんの数秒だけ、静かに。
それから、もう一度少年を見る。
「そう」
それだけ言って、近づいてくる。
足が止まりそうになる。
普通じゃない。
この街の人間なら、影に近づこうとすらしない。
恐怖を知っているからだ。
だが彼女は違った。
男のすぐそばにしゃがみこむ。
「やめろ」
思わず声が出る。
少女は振り向かない。
「どうして?」
「——危ないからだ」
「もう、終わってるのに?」
言葉が詰まる。
確かにその通りだった。
男はすでに“終わっている”。
それでも、この黒に触れるのは——
「……触るな」
少しだけ強い口調になる。
少女はようやく振り向いた。
「怖いの?」
「違う」
即答だった。
怖いわけじゃない。
ただ——
「……面倒なんだ」
嘘でもないし、本当でもない言葉。
少女は少しだけ首をかしげ、それから静かに目を閉じた。
両手を合わせる。
祈りのような仕草。
この街では、意味のない行為。
それでも、彼女はやめなかった。
数秒の沈黙。
やがて、少女は立ち上がる。
「変な子だな」
少年が呟くと、少女は小さく笑った。
「よく言われる」
その瞬間だった。
少年の足元の影が、わずかに揺れた。
ざわ、と。
まるで——“何か”に反応するように。
「……?」
違和感が走る。
影は基本的に、内側——つまり“自分自身”にしか反応しない。
なのに今、明らかに“外”を見た。
少女の方を。
「ねえ」
少女が振り向く。
「あなた、名前は?」
唐突な質問。
少年は答えなかった。
代わりに、胸元に触れる。
古びたネックレス。
小さな結晶が、鈍く光を吸っている。
理由は分からない。
ただ、無意識に触れていた。
「……?」
少女が不思議そうに見る。
その視線から逃げるように、少年は口を開いた。
「どうでもいいだろ」
ぶっきらぼうな返答。
そのまま背を向けて歩き出す。
関わるべきじゃない。
そう思った。
なのに。
「じゃあ、私がつける」
足が止まる。
「勝手に呼ぶね」
振り返る。
少女は、少し楽しそうに笑っていた。
「……じゃあ、“夜の人”」
センスは最悪だった。
否定するべきだと思った。
けれど。
なぜか、言葉が出なかった。
代わりに、ため息だけが落ちる。
「好きにしろ」
それだけ言って、また歩き出す。
今度は、少女が隣に並んだ。
距離は近くも遠くもない。
微妙な位置。
「ねえ、夜の人」
「……その呼び方やめろ」
「やだ」
即答だった。
少しだけ、沈黙。
それから。
「あなた、優しいね」
足が止まりそうになる。
だが止めなかった。
「どこがだ」
「だって、その人のところに来たでしょ」
振り返らないまま答える。
「たまたまだ」
「うん。でも、来た」
言葉が刺さる。
理由は分かっている。
“たまたま”なんかじゃない。
——放っておけなかっただけだ。
「……勝手に思っとけ」
ぶっきらぼうに返す。
少女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を、少年は見なかった。
見ないようにした。
——見てしまえば。
何かを、思い出してしまいそうだったから。
そして
夜が、少しずつ近づいていた。




