第六十二話
※
視界すべて真綿のごとく。
戦慄ひそみ無垢である柔らかさ。鈍重であり濃密である水気。空であり大地である色の支配。肺の奥まで染み通り血液に浸潤するような鋭利さ。それは命を脅かす白。
雪惑いは歩く。
吹雪いてはいない、雪ははらはらと静かに降りる。もし風が強まるならば雪に潜り、懐炉の熱だけを頼りに数時間も耐えねばならない。
ここは生命の極限。方向も時間も失われ、身体感覚も思考も曖昧になる世界。長き冬の時代において、山とは人の世界からあまりにも遠い。
長大な時間の中で移動は曖昧なものとなる。山を踏み越えたような気もするし、谷を大きく回り込んだ気もする、時には谷底まで降りただろうか。指を岩の割れ目に突き立てる時もあり、靴底の雪の感触に全神経を尖らせる時もある。もし崩れかけた雪面を踏めば、雪崩に巻き込まれれば、人間の命など煙よりもはかなく消える。
「シャハトホルムの村は、本来は長らえる環境にはなかった」
つぶやく。つぶやくことで思考を保持している。
「この土地には黒槍樹が生えない。ゴーもいない。連れてきても死んでしまう。長き冬を耐えるための人間の武器がない。それでも人の叡智で命を繋いできた? それも違う」
足を腰の高さまで上げて雪を踏む。靴底のアイゼンで己を固定する。
「あるいはこんな村こそが当たり前の帰結なのでしょうか。人間は根本的に長い冬を耐えることができない。いくつかの神秘がそれを可能にする。ごく稀に長らえる村がある。長らえることは奇跡でしょうか。それとも人の世にあらざる力に翻弄された結果でしょうか」
言葉は何度も行き来する。一節しか覚えていない本を諳んじるかのように。
「シャハトホルムの村において、命を繋ぐ手段とはザレの奇跡。あれもまた長き冬が生み出した魔法なのでしょうか。まだ知られていなかった世界の神秘なのでしょうか」
違和感。
そうだ違和感だ、と雪惑いは思う。背中に背負った日記は大きく重く、雪惑いの思考に与えられる背骨のようだった。
「ザレは与えていない。無尽蔵の食料となるけれど、土地を離れればすぐに劣化する。ザレは土地から離れられない。そしてこの土地は家畜を殺してしまう。作物を育てることもできない。人の武器である黒槍樹とゴーを拒む。そんな土地は人の味方とは言えない。武器とも言えない。ザレは土地と結びついているから、ザレもまた味方ではない」
いくつの山を越えただろうか。いくつの足跡が雪に消えただろうか。雪惑いの旅の技術とは方向感覚にもある。すべてが真っ白な陶片を組み上げ続けるように、方向を常に意識し続ける。
「ザレとはまるで……支配者のような」
シャハトホルムの村にはザレだけがある。
ザレに縋り生きていくならば庇護を与える。それ以外の歩みを見せれば命を奪う。
それに何の意味があるのか、まだ見通せない。
風景が変化していることに気づく。
いつの間にか雪が消えている。空気が大きく動くことがない。はるか上空に曇り硝子のような透明な天蓋が見える。あれは氷塊だろうか。透明な天井の洞窟。
いつこんな場所に踏み込んだのか。雪惑いが道を見失うことは許されないのに。
目に映るのは氷の柱。
洞窟は大きく広大であり、その柱は垂氷ではない。水晶の柱だ。光が柱の中に振り注いでいる。空気には水蒸気が混ざる。見えざる獣たちが息をひそめるような感覚。
「色、が」
大地に褐色が広がっている。枯れた苔である。布か海綿のような質感で積層を成し、くるぶしまでが埋まる。
この時代において信じがたいことがある。この場所には蒸し暑さがある。
地面の奥から熱気が上がってくる。どこかに強烈な熱源があり、小麦の生地が発酵するかのように苔をはぐくんでいたのか。
匂いがある。雪の世界の虚無に比べれば、大鳴動のごとき生命のざわめき、苔が蒸散させる湿度。
「これは何でございましょうか。温泉ではない。石油や泥炭が燃えているわけでもない。しかし確かに熱がある。それに天蓋のあれも水晶でございますか。天然自然のものとは、とても思えない」
温室、という言葉が浮かぶ。
天蓋と柱の水晶が光を透過し、どこかにある熱源が空間全体に熱を与える。空間がこれほど広いのは空気に対流を生むためだろうか。ここは温室なのだろうか。
むろん、雪惑いであっても水晶を人為的に生み出す手段など知る由もなく、巨木のごとき水晶の柱など見たこともない。世界の端から端までを見て、あらゆる時代に存在した雪惑いたちであっても、見たことがない。シャルロットは己の額を掴んでそれを確かめようとする。
「……熱源が何であるのか知りたいですが、おそらく突き止められない予感がいたしますね。この場所は、雪惑いの理解を超越する」
ここは、人工的な空間だろうか。そうだとすれば誰が作ったのか。
この苔とザレはどう結びつくのだろうか。それともまったく関係がないのだろうか。
「嫌な匂いがいたします。腐敗しているかのような」
おそらくは、この苔が地下の水流に乗って流れ、シャハトホルムの村のあたりで地層となるのか。元からの地層と言うより、地層の隙間に地下水が染み出し、この苔の死骸が堆積していくのか。堆積するうちに不純物は洗い流され、腐りもせず劣化もしない純粋な部分が残るのか。
「そして、この場所は」
シャルロットの目が細められる。なだらかに平野のごとく広がる苔。洞窟を埋め尽くす褐色の王国。
そこにわずかな乱れがある。シャルロットはけして動かず、奥に踏み込まず、視線だけが苔の表層をなぞる。ずっと立ち尽くすうちに、観察と思考の垣根がなくなってくる。
何時間そうしていたものか。洞窟の熱気は動くことをやめ、シャルロットの体温が洞窟の空気と均一化し、短く浅い呼吸を繰り返す。
「足跡が」
そう確信できるまでに何時間かけたろうか。おそろしく微かな、シャルロットの半分も沈んでいない足跡がある。
あれは戦いの足跡だ。羽根のように軽い人物。それでいて踏み込みは大地を割るほどに鋭い。 水晶の柱に刻まれた斬撃。打撃。岩に衝突したときの音が、まだわずかに空間に残るような錯覚。
「越冬官さま」
つぶやく。雪惑いに推測は許されない。確たる証拠があるとは言えない。だが言葉が解き放たれ、洞窟の中に像が浮かぶ。炎よりも赤い鎧、砦を背負うような背嚢。そして腰には剣の柄が。
「この場所で……何を斬ったのですか、ニールさま……」
※
雪惑いが戻らない。それに気づいたのは何日後だったろうか。
俺とアルゼリテの日々はあまり変わらない。村の屋根に積もった雪を下ろし、建物の補修をして、マントのつくろいをして、ザレを採取に行く。すべてが終わるころには日が暮れている。
時間をかけて丁寧にやっても、やや雑にやっても変わらない。終わる頃には日が暮れるのだ。あの薄暮の向こうにある陽光、はっきりと姿を見せる事は少ない。村にはいつも雪まじりの霧が立ち込める。
「なあ、雪惑いの女を探しに行くべきかな」
「難しいよ」
アルゼリテはそう言う。白糸で編んだような繊細な指が針を操る。そういえばアルゼリテが針を曲げてしまったのを見たことがない。そんなことをふと思う。
「ドルニテは探しに行ける?」
無理だろう。
それは疑いようのない感覚だった。俺には山に入る力がない。山の深い雪を踏み越えて進むことはできないし、村の方角を覚えておくこともできない。というよりも、それは人間業とは思えない。あの白一色の世界に踏み込めるのは、どんな人間なのだろう。
「雪惑いは死んだのかな」
「村を離れただけかも」
そうかも知れない。その答えにすがりたくなる。
雪惑いを助けることには意味があるだろう。あの女は遠い村のことを知ってる。雪を渡って他の村に行く力がある。雪惑いがどこかへ旅をして、シャハトホルムの村がまだあることを誰かに伝えてくれれば、やがて村に人が来るかも知れない。
俺はそういった意味のことを言う。言葉は行きつ戻りつして、あまり要領を得ない話になる。アルゼリテは針仕事を続けている。予備のマントに雪の結晶の刺繍がつづられる。
「ドルニテはそうなってほしいの?」
「そりゃ、まあな、村が賑わってほしいし、人手はいくらあってもいいだろう。ザレがあるんだから何人でも食っていける」
「私はそう思わないな」
アルゼリテは手を休めない。言葉とアルゼリテが切り離されていると感じる。アルゼリテの話す言葉は、俺との会話は、アルゼリテの手仕事に何の影響も与えない。
「人が増えても、増えなくても、シャハトホルムの村はずっとこのままだよ」
「俺たちは……もう二人しかいないだろう。子を生んで村を継いでいくには心もとない」
「その時は、それが村の寿命じゃないかな」
村の寿命。
村も死ぬことは何となく分かる。その死に、終焉に、寿命という概念は当てはまるだろうか。
「何もしないで滅ぶのを待つのか」
「仕事はしてるよ」
「そうじゃない、村を長らえるための努力を」
「ドルニテは長らえたいと思ってる?」
思っている。それは当然だ。
だが、この世の真理とまでは言えない。アルゼリテと考え方が違うということか。
何かがずれている。
アルゼリテと俺の価値観が、ものの見方がどこか異なっている。同じものを食べて、同じ館で寝起きしているのに、なぜだろう。
そしてこの差異はどうなっていくのだろう。俺とアルゼリテは二股の道を分かれて進むかのようだ。その差はどんどん広がって、やがてアルゼリテを見つけられなくなる、そんな不安、が。
妄想だ。
何も起きはしない。俺たちはこの村から出ていけないし、食べるものも着るものも変わらない。俺たちの世界に冬守りは二人しかいない。何がどう変わっていくというのか。
「俺は」
言葉がこぼれる。何かに押し出されるような言葉だった。俺は何を言いたいのだろう。
「せめて山を見てるよ。雪惑いらしき女がいたら、助けに行けるように」
「そうだね」
かろうじて、その程度のことを言う。
不安がある。
変わらない、ということへの不安。
俺達にとって一生に一度の大事件であるはずの雪惑い、それが均一なる日々に埋没しようとしている。それを心のどこかが恐れている。
奇妙なことだ。俺たち冬守りにとって変化がないことが至上ではないのか。シャハトホルムの村は健在だし、建物は維持されている。封印されたまま一度も見たことはないが、魔法の本もある。
だが、変化が求められる。俺は変化したいと願っている。だからアルゼリテとずれていると感じるのか。
あの牛が思い浮かぶ。
あれを氷の下から掘り出して、食べてみたいという衝動が湧き上がる。
変化とはハレであり、変化とは到達だろうか。
俺は想像する。硬い筋の隙間に包丁を入れる様子、骨から肉をこそぎ取る様子、炭火を起こして金網を敷き、肉を焼く様子。流れてくる脂の汁と立ちのぼる煙。
実際には見たことはない。以前に食べた肉も硬くこわばった干し肉だ。肉については料理の本だとか、物語の本で読んだ知識だ。
どんな匂いなのか、味なのか、それは想像で埋めることは難しい。あの干し肉は樹皮のように硬かった。その延長ではないだろう。
俺は肉を欲している。
ハレの日を肉で祝いたい。それは裏を返せば、肉を食べることがその日をハレの日に変えるということか。食べることで何かが変わるような。それとも変わりゆく何かをもっと良いものに変えるような気がする。
俺は肉のことを考える。そのことを考える時間はどんどん増えていく。鉄板を敷いて直火で焼くか、鍋で茹でるか、それとも煉瓦で焼き窯を作ろうか。
体を肉に慣らす必要もあった。ザレを突き固めたり、水と一緒にすり潰したり、煮溶かした煮凝りのようなものの形を整え、鉄板で焼いてみたりする。
大抵はうまくない。だがたまに、ほどよく固まって噛み応えのある板状のザレができる。俺はそれを肉に見立てることを思いつく。
アルゼリテは何も言わない。俺の作るものに感想を言うことはなかった。元々そうだったのか、ある時点で言わなくなったのか、それは思い出せない。
俺とアルゼリテの日々は何も変わらず、俺たちの世界は完成されていて、閉じていて、そして狭まっている。
シャハトホルムの村と、アルゼリテと、氷の底の牛のことだけを考える。
アルゼリテは何を考えているのだろう。彼女はとても静かで、ゆっくりとしていて、物憂げでもなく楽しげでもない。雪のように純白な精神性。そんな表現が浮かぶ。
俺たちの日々は流れる。
かつて一度だけ、シャハトホルムの村を訪れた旅人。
そいつのことは、もう顔も思い出せない。




