第六十一話
「食べる、でございますか、あの牛を」
「そうだ。もちろん簡単じゃないだろうな。だからよく考えてから取り組まないといけない」
あの牛を氷から取り出して、解凍して調理する工程を考える。処理には何日もかかりそうだが、時間をかけると腐ってしまうかもしれない、なるべく手早く、腐らないように低温を維持するようなやり方が必要だろう。
俺は考えていたことを言ってみる。肉を一部だけ切り取って残りはまた氷漬けにしておくべきか。それとも大量の炭を使って丸焼きにして、焼いた肉のままで保存するべきか。牛を一頭処理するとなると、村の本には載ってなかった。
「それは、一部だけを切り取るべきでございます。焼いてしまうと組織から体液が流れ出してしまう。その状態で冷凍し直すと食感が劣化するでしょう」
雪惑いはそう答える。雪惑いはたくさんの人間が経験を共有すると聞いているが、肉屋の知識などもあるのだろうか。
「氷漬けになっていれば肉は腐らないのか? 親父の代には村にたくさんの食料があったらしいが、氷に漬けただけの食材は半年も持たなかったとか」
「そうでございますね……」
雪惑いは、俺の言葉にしばらく考え込む。何となく石をぶつけ合うような会話に思えた。質問の文章があまり適切でない感覚がある。
まあ仕方ないだろう。アルゼリテ以外の人間と話すことなど無かったのだ。
「遥かに北方の地では、永久凍土の中から古代の大型哺乳類が発見されたと聞いてございます。それらは数千年から数万年前の姿をありありと残し、体毛も、胃の中に残っていた果物までも腐っていなかったとか」
「じゃあ」
「腐っていない、というだけでございます。その肉は硬くこわばって、腐敗とは違う劣化した異臭を放っていた。食べたという記録もございますが、けして美味とは言えないものだったとか」
美味ではない。それでは意味がない。
食べられればいいわけじゃないんだ。俺は、人生で最良の日を彩るようなご馳走が欲しいんだ。
それは例えばアルゼリテとの間に子ができた日でもいいし、その子が冬守りとして1人前になった日でもいい。村の倉庫には材木などもあるから、いつかは家を建てようという計画もある。柱を組んで屋根を上げて、家として完成した日でもいい。
喜ばしい日を喜ばしい味で飾りたいんだ。だから味は大事にしたい。雪惑いもそれを察したのか、俺をなだめるように言う。
「ですが、あの牛は少なくとも腐敗していない。それどころか生前と変わりない柔らかさを保つとすら思えます。この距離では……よくわかりませんが」
「多少、劣化してたとしても、料理で何とかできるはずだ」
「問題はそれ以外にもございます。あなた方は二人ともザレ以外のものを食べていない。初めて食べる肉を体が食べ物と認識するかどうか」
「まったく食べたことがないわけじゃない。親父が生きていた頃は、村の倉庫に残っていた肉を食べた」
「だいぶ昔のことでございましょう? 人間の肉体は、新しい食べ物を受け付けないことがございます。みずみずしい果実や、砂糖をふんだんに使った甘味も、それを食べたことのない方は吐き戻すことがある。特に冬守りにはそのような話を聞き及びます」
「……なるほど」
それは考えていなかった。俺が肉を求めていても、俺の身体が受け付けるかどうか分からない、か。
俺たちは村へ戻り、村の倉庫にある食べ物を確認する。
冬守りたちが長い冬に入るとき、村はできる限りの物資を残す義務があるらしい。だが長い冬が始まって俺たちで三代目だ。すでに食料の大半は、いや、ほとんど全てが失われている。
残っているのは建物を補修するための木材、衣服、釘や鉛の板、焼成した煉瓦、鉛ガラス、油に塩、そして木炭が麻袋で50ほど。薪は大きめの倉庫に積み上げてある、雪惑いは大量の薪に驚いていた。
「だいぶ残ってございますね。意外なことでした」
「そうなのか?」
「はい、このあたりには黒槍樹が自生していない。通常の薪では冬守りたちが生きるために大変な量が必要です。それこそ一代で森を一つ消し去るほどに」
「親父たちが森を伐採したのかもな。いくらか枯死した木も残ってるが、森と言える場所はないからな」
「そう考えるのが妥当でございますね……。しかし、大量にあるとは言っても、無尽蔵とはとても言えない量ですが」
「そんなに使わないからな。一束で3日は過ごせるよ。マントを使えば暖炉の火が消えていても眠れる」
「そうですか……シャハトホルムの村に伝わる生存術……ということでしょうか」
他の村がどのぐらい薪を使うのか知らないが、俺たちとそんなに差があるのだろうか。
俺たちは毛足の長い絨毯を敷き、円錐状にマントを広げて、座り込むように眠る。冷え込む夜には暖炉も使うが、囲炉裏で十分なことが多い。
「私は、長い冬とは拡大に思えることがございます」
「拡大?」
「はい、厚く降り積もる雪が道を閉ざし、方角を失わせ、旅を困難なものとする。人は生まれ落ちた村から動くことができず、行商は絶えて音を聞かず、冬守りは限られた範囲を懸命に守っていく。これは世界が拡大するような感覚なのです。長き冬の時代において、果てしなく広がりゆくのは人と人との距離なのです」
「それは……別にいいんじゃないのか。旅をする理由もないし、行商だって来れないなら仕方ないだろう。俺とアルゼリテとで意思が通じていれば、それ以外の村なんて知ったことじゃない」
「村によってはまだ交流がございます。しかし、このシャハトホルムの村はあまりにも人界との縁が薄い。冬守りのお二人は旅を、移動というものを実感として持っておられない。それはしかし悲哀ではない。最初から無縁なのですから」
雪惑いの言葉はよく分からない。俺と雪惑いでは何かが根本的に異なっていて、雪惑いは懸命にその差を埋めようとするかに思えた。
この村の外側にも村がある。人がいる。俺はあまりそれを意識できない。月とか星に人が住むという話のように、絵空事と言うよりは微笑ましい想像。別に真実でも嘘でもどちらでもいい話。そんな印象だ。
やがて雪惑いは黙り込む。俺の目を見ているが言葉は生まれない。倉庫の中に無機質な沈黙が流れる。
「私は、水の源流を探してみます」
そのように言う。視線はあらぬ方を向いている。あとで分かった事だが、それは正確にあの滝壺湖に向いていた。
「あの牛が腐っていないのは低温ということもありますが、水に原因がある気がするのです。生き物を寄せ付けないシャハトホルムの水。しかも長い冬に至って、その毒性とも薬効ともつかない力は増しているようです」
「生き物を寄せ付けない水なら、牛だって劣化しちまうんじゃないか」
何となくそう言うが、あまりピンと来ていない。あの滝壺湖の牛が劣化するような気がしないからだ。腐った牛、というものを想像できないためもある。
「ものが腐るというのは微生物……微細なる生き物の働きと言われます。目に見えない小さな生き物が食べ物を食い荒らし、別のものに置き換えるのでございます」
「へえ、じゃあ、あの水はそういう微生物を殺す力でもあるのかな」
「その可能性はあります……しかし、そのような水は人間にも毒性があるのです。何か、もっと違う理屈かも知れません」
それを確かめに行くのです、と彼女は語る。
俺にとっては実感のわかない発言だった。確かめて何になるのだろう。シャハトホルムの水にものを腐らせない力が有ったとしても、無いとしても、別にどっちでもいいじゃないか。
それから、幾日かが過ぎる。
シャルロットは山に入るようになった。布に包んだザレと、火口箱と懐炉を持って険しい山に入っていく。俺ですらうんざりするほど深い雪をかき分けて、数日経ってやっと戻ってくる、そんなことを繰り返す。
俺は食料を探すことにした。
肉を食べ慣れていないと、体が受け付けないかも知れない。雪惑いのその言葉が、不安の重石となって胃の中にある。
「というより……肉にこだわらなくてもいいんだよな。魚でも、野菜でも、とにかくザレしか食べてないのが不安なんだ」
滝壺湖からは、当然ながら川が伸びている。水は残っていない枯れた川だ。俺は雪をどかして、砂利の谷間となった川を探す。
これはすぐに諦めた。川床はえんえん続いているが、凍った魚が残っているとは思えない。水がなくなったのは親父の代か、あるいはそれより前なのだ。
村の周囲には立ち枯れの木が散在している。ほとんどは朽ち果てて黒ずんでいたり、灰色に硬化していたりする。今ある薪がなくなれば、こういう木を伐採することもあるのだろうか。
俺は灰色の枯れ木に斧を打ち付ける。凍りついた樹皮は頑健であり、数度の打撃でようやく穴が空く。
こういう木の内部には虫の幼虫がいると本で読んだが、見つからない。美味らしいが、まあ、あまり食いたいとも思ってなかった。
更に何度も打ち付けると、足元に木っ端が散乱する。俺はそれを回収して、工房にて石で叩く。指を挟まないように慎重に、何十分も叩き続けると濡れた紙のようなものができる。それを銅の鍋に投じて、弱めの火で煮る。アルゼリテに見つからないかと何度も周囲をうかがう。別に見つかったって構わないのだが、無意識の行動だ。
出来上がったものは……土色の粥のようなもの。鼻に近づけた時点であきらめた。とても食べ物とは思えない。
獣も探す。倉庫に残っていた材料で弓を仕立て、毛皮を着込んで村の周囲を歩く。
だが見つからない。鳥やキツネはもちろん。芋虫や蝶もいない。ここ10年ほど、そんな生き物を見かけたこともない。
念のために俺たちの家も調べる。箪笥をずりずりと動かし、絨毯を剥いでみても、生き物の気配すらない。こんな物陰にいるような虫を食うことが何の役に立つのか、という疑問も肥大する。
「長い冬とは、とめどない拡大のようなもの……だったかな」
ならば俺たちは蝋燭の火だ、と思う。
村には新しく生まれるものが何もない。今ある木炭が灰になったなら、ザレを食い尽くしてしまったら、そこから俺たちはどうなるのだろう。
死ぬしかない。
それは当然の帰結だ。俺は死という概念がすとんと胃に落ちるのを感じる。
長い冬とは拡大。
だが拡大と縮小は表裏一体。世界が広く感じるということは、俺たちという蝋燭の炎がどんどん小さくなってることを意味する。俺たちは狭い世界で完結し、火を小さくして長らえる。
やがてすべてを使い尽くして、静かに火が消える。そのような静かな終焉を想う。静謐で完全な感覚。ものごとの終わり。その甘い死を舌先で舐める。
そんなある日、やはり一日中歩き回ってから村に戻ると、俺たちの家の前にアルゼリテがいた。
「アルゼリテ」
「なんだか忙しそうだね、何してるの?」
俺たちのマントは両面が起毛になっていて、外側は灰色である。例によってマダラグマなどの捕食動物から隠れるためだという。
灰色の円錐のうえにアルゼリテの小さな頭がちょんと乗っている。その姿は人形のようで、彼女の整った目鼻立ちが意識される。
「食料を探してたんだ。ザレの他にも何か食いたいだろ」
「別にいいよ」
アルゼリテは静かに言う。言葉に感情が乏しい。俺よりもずいぶんと小さいアルゼリテだが、その顔立ちはだいぶ大人びて見える。美しい黒髪を盆の窪で結い上げて、サファイア色の瞳が細長い目に縁取られている。そのまなざしは古い宝剣のようだった。
「不安じゃないのか? ザレだっていつまで取れるか分からない。食料のあては多いほうがいい」
「他のものを探すより、ザレを探すほうが確実だよ」
「燃料だって限りがある。いつかは燃やし尽くしてしまう」
「そしたらマントにくるまって、雪の底に行けばいいよ」
「雪の底?」
「うん、雪の底なら凍えないし、静かだし、ゆっくりできるよ」
俺は想像する。
窪地に積もった分厚い雪、そこに斜めに掘られた雪洞を降りる。
日が雪を透かすこともなくなり、風の音も遠ざかり、空気の動きすらなくなるような雪の底。
地面に触れればザレがある。俺とアルゼリテはマントで互いを包んで寄り添い、無限のような時間を過ごす。
空腹は訪れない、ほとんど意識の動きがなくなっているのだ。無意識の中で手が地面を掴む。凍りついた冷たいザレを口に運び、ゆっくりと、何時間もかけて咀嚼して。
俺は頭を振る。
妙な想像だった。穴に落ちたように唐突で、脈絡のない夢想だ。妙に具体的で、長い時間を過ごした感がある。起きながら見る夢のようだった。
「雪の底で……それでザレだけ食べて生きるって言うのか? それではあまりに人間らしくないと言うか、そんな状態になったら村を守れないだろう、建物は補修していかないと」
「冗談だよ」
アルゼリテは言い、赤い頬に手をあてて、手の中にほうと息を吐く。アルゼリテはまるでガラス玉のようだ。彼女を喩えるなら透明な真球。不純物がなくて隙がない。
そして、美しい。
「ドルニテが探すのは止めないよ。でもあまり遅くならないでね。暗くなると危ないから」
「……ああ、うん」
さらに日々が過ぎる。
数週間も経っただろうか。雪惑いは時々戻ってきて、湯を張った桶で足を洗う。そして次の日にはまた出かける。
食料は見つからず、牛はまだ滝壺湖で眠っている。
拡大と縮小という言葉を想う。
それは空間だけではなく、時間もだろうか。
冬の日々は永遠のように長く。
日々の歩みは果てしなく零に近づくようで……。




