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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第十二章 一握の宴
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第六十話



ザレとは、命のかて


見た目は目の粗い土であり、緑や茶色、灰色などが混ざった粒だ。この村でずっと食べられてきたものらしいが、別に思い入れはない。

囲炉裏の上には平たい銅鍋どうなべ。ザレと雪を入れ、古傷の痛みのような弱火で煮込む。


「ドルニテ、あまり眠ってないんじゃないの? とても疲れた匂いがする」

「ああ、小さな雪崩があったみたいで、ザレ場への道が埋まってたんだ。片付けてたら時間を食った」

「大丈夫?」

「別に平気だ、今日はゆっくり眠るよ」


アルゼリテには匂いを嗅ぐ才能があった。俺のちょっとした調子の変化を嗅ぎ取るらしい。

鼻だけじゃない。アルゼリテはいつも俺よりたくさんのことに気づく。寒風がドアを揺らす音で建物の劣化を、山の上にある雲の形で明日の大雪を知る。この世界が本なら、俺は文字が追えない幼児のようだ。


ザレが煮えてきた。柔らかな感触は木べらに伝わる。木べらを通してザレを撫でる。ザレはそのままでも食えるが、煮込めば消化しやすくなる。鍋にひとつまみの塩を入れる。


「おいしそうだね」

「いつもと同じだろう」


アルゼリテは綿入りのマントで身を包む。このマントは大きく重く、あらゆる場面で着用する。寝床にもなるし、マダラグマの爪から身を守る防具にもなるそうだ。マダラグマなんてものを見たことはないが。


「ドルニテ」

「どうした?」

「誰かが、扉を叩いてる」


え、と俺は扉の方を向く。まさか、俺たちが生まれてから村に来た人間なんて。


音はしない。そこで気づいた。アルゼリテの言っているのは村の他の家のことだろう。俺は囲炉裏の炭を灰に埋めて、マントを後ろに跳ね除けてから立ち上がる。このマントは大きく重く、あらゆる行動に定められた所作がある。マントの存在が俺たちの礼儀を定義する。


その人物は、村の南のはずれにいた。やや控えめに空き家の戸を叩いている。


「おい」


声をかける。その人物は分厚い緑のコートを着ていた。黒ガラスの眼鏡と口には当て布。襟元から白煙が上がっているが、懐炉を燃やしているのだろうか。


「おお、助かりました、冬守りの方でございますか」

「あんたは人間なのか」


後にして思えば間の抜けた質問だ。


だが仕方ないだろう、俺とアルゼリテの両親が死んで10年だ。つまり俺たち以外の人間を見たのは10年ぶりだったのだから。

その人物はフードを下ろし、黒ガラスの眼鏡を外して顔をあらわにする。


若い女だった。アルゼリテよりも若いだろうか。


俺たち以外にも人間がいた、俺はそれを、非現実的な感覚として受け止めた。


「私は雪惑い、名をシャルロットと申します」





「助かりました。このあたりは食べられるものが少なかったもので」


ともかくも雪惑いの女を家に招き、綿入りの上掛けを渡す。シャハトホルムの村には現役の暖炉はない。囲炉裏では暖房としては弱いので、厚手のマントを着るのだ。


俺は絵本で読んだことを思い出す。

雪惑いは旅に生きる人々。雪に覆われた世界でも生きていく力があり、雪の下を歩く小さなネズミを捕らえ、わずかな雪の盛り上がりから植物の新芽を見つけるという。


「このあたりは生き物がいないんだ」


もともと痩せた土地だったらしい。山は岩肌がむき出しで、川には小指ほどの小魚しか泳がない。


「はい、古い地図にもそのように記されていました。シャハトホルムは無垢なる水の村。その水はあらゆる生き物を拒む。されどまずのはらをもたらすと」


水に極端に栄養がない、王都の学者が何百年も前に調べたらしい。貧しい土地らしいが、ここの水はとても美味いし、飲み続ければはらを頑丈にする、大抵の内臓の病に効くらしい。険しい山道を荷馬車が何十台も行き来して、各地に水を届けたと聞いている。


水に栄養がない、それがどういう事なのか俺はたぶん理解できてない。


どうやら「豊か」という概念の対義語らしい。森だとか、水辺の石に苔がむすだとか、空を舞う何千もの鳥だとか、そういう「豊かさ」を親から教わったが、見たことのないものを基準として持つのは、難しい。


「お聞きしたいのですが、冬守りのお二人は食料をまかなえているのですか?」

「大丈夫だよ、土があるから」


アルゼリテが言う。俺は十分に煮えてきたザレをすくい、予備の器で雪惑いにも出してやる。


灰色、茶色、緑の粒が混ざった土、ほのかに粒の輪郭が乱れている。白い湯気がすいと立ち上がり、古い木桶のような、掃き清めた板の間のような、かすかな匂いがある。


俺たちはさじでそれを食べる。わずかな塩味えんみと、その奥にある甘さ。噛みつぶす瞬間には土の気配もある。


「これは……確かに土でございますね。しかし何でしょう。肉でもなく野菜でもない、薬のような無機質な物体でもない、不思議なことです」

「妖精の麦飯むぎめし、親父はそんなふうに呼んでた」


地面を掘ると、これが見つかることがある。深さ10センチから20センチほどの深さにまとまって存在し、手で握るとダマにならずに指の間からこぼれていくのが特徴だ。それを採取して食料とする。


俺がそのように説明すると、雪惑いは何度も大きく頷いた。


「素晴らしいことですね。長き冬が明ければ、この村の産業となるでしょう」

「難しいだろう。別に味が良いもんでもないからな」


それに足が速い。地面から掘り出すと一日も持たずに腐ってしまう。雪で満たした木桶に入れても、すぐに耐えがたい臭気を放ち始める。


食べられる土、大昔はこれを宝の山と考えた人間もいたらしい。だが山を越えて隣の村へ行く間に変質してしまう。名物にできるほど美味くもない。それよりはこの村の水を届けた方がよほど良い。


「ありがたい話なのは本当さ。少なくとも飢えることはない。味は素っ気ないが栄養はあるんだ」


こんなものでも腹は満たされる。口にふくんだ瞬間に食べ物だと体が認識してくれる。噛み締めて嚥下するときに心が安堵を覚える。


アルゼリテを見る。彼女はいつも静かに食べる。


雪惑いをあまり見ていない。アルゼリテだって初めて外の人間を見たはずだが、まるで来客などいないかのように落ち着いている。アルゼリテはいつも、匙の先端に少しだけザレを乗せる。それを小さな口で少しずつ食べる。


「なあシャルロットさん、何か調味料を持ってないか」

「調味料、でございますか。お酒ならいくつか」


コートの中には想像以上にたくさんのものが入っていた。毛皮の毛布に火おこしの道具、革のさやに入ったなた、いくつかの本に、靴底に装着するスパイク類、望遠鏡に懐炉、そして大きくて重そうな一冊の本。


酒はボトルで10本以上あった。ボトルはすべて布で包んであり、手のひらほどの大きさだ。

中身は黒ずんでいるものや、血のように赤いもの。透明だったり、中に金粉のようなものが舞っていたりもする。雪惑いは黒い液体のボトルを差し出す。


「これは砂糖黍さとうきびの搾り汁から作られたお酒でございます。よい感じに発酵しておりまして、酸味のある調味料として使えます。助けていただいた御礼に進呈いたします」

「ありがとう。何しろ料理に使えるもんが少なくてな。村に残ってた蓄えは親父の代で食い尽くしたらしいし」


特に調味料は念願だった。村にはもう樽に半分ほどの塩しかなかったのだ。

俺はアルゼリテに向き直る。


「なあアルゼリテ、昔から考えてたことがあるんだ。どこかからゴーを探してこよう」


そう提案する。彼女はゆっくりと顔を上げて、重たげに首を振る。


「このあたりにはいないよ。どこからも匂いがしないもの」

「ゴーの匂いなんか分からないだろ。一度も嗅いだことはないはずだ」

「大型の獣でしょう。分かるよ」


確かに、このあたりでゴーを見たことはない。マダラグマも、オオワシも、ユキヒョウもいない。アルゼリテにはもっと広範囲のことが分かるのだろうか。


「でも家畜は必要だろう。労働力になるし、ゴーは毛皮も取れる」

「連れてきても死んじゃうだけだよ、かわいそうだよ」


この村では生き物を飼うことができない。


親父の代の記録によれば、ゴーは連れてきても弱って死んでしまう。ニワトリはエサを食べず、小屋の隅にうずくまったまま静かに死ぬ。


長い冬が始まる前はそうではなかったらしい。原因については冬守りも考察を重ねた。水が毒性を帯びたのかも知れないし、動物だけがかかる病があるのかもしれない。何かが変化してしまったのだ。


「獣が死ぬのは何か原因があるんだ……俺が必ず突き止めるよ。山を二つ越えたところに村があったはずだ。そこまで行ってニワトリをわけてもらってくる。ゴーだって交渉次第では」

「その村でしたら、もう存在しないようです」


雪惑いが言う。いつの間にかこの女性は本を広げ、俺たちの話を逐一本に書き留めている。そういえば雪惑いは日記をつけるのだったか。それも絵本で見たことだ。


「私は一年をかけてこのあたりを歩き回りました。16の山と22の谷、古い記録にあったいくつかの村は、すべて雪に埋もれたようです。長い冬が始まってから、このあたりでは家畜が飼えなくなった。冬守りは村を守ることができなくなったのです」

「じゃあ、もっと遠くまで行くよ。王都の方角に歩けば、町だって見つかるはずだ」

「あまりオススメはいたしません。命がけの旅になります」

「あんたは村に来たじゃないか」

「それは私が雪惑いだからでございます。雪惑いは旅の険しさに屈することはない。どのように深い雪も歩き、目印のない雪原でも歩く。雪惑いは本能で道を見つけるのです。ですが、それは羅針盤もなく海に漕ぎ出すようなもの。あなたが真似をすれば、十中八九、命を落とすでしょう」


海、という言葉の意味は知ってるが、その比喩が適切なのかは分からない。雪惑いの言葉の世界は、俺とはだいぶずれてると感じる。


「この村はまさに砂漠に落ちた真珠。旅に生き、数え切れぬ夜を歩き続ける雪惑いであっても、もう一度この村に来れるとは思えない。それほどにここは絶海の孤島なのです。鳥は空を舞うことなく、ネズミは雪をかき分けることもない、不思議な土地です……」

「そんなに厳しい土地なのか……? 俺たちは、ずっとここに住んでいるが……」

「冬守りがかろうじて冬を長らえるのは、黒槍樹ジンガルという歳月の結晶、ゴーという生命の恵み、それ以外にもいくつかの奇跡に支えられてのことです。この村では温室も作ることができず、黒槍樹ジンガルも自生していない。この現象は私も知らなかった。金盞花きんせんかの館ですら知らなかったのです」


雪惑いの女は、己の言葉に熱い息を漏らすようだった。何かしら感慨深いことを言っているような気がするが、俺はそれに共感できない。


「……雪惑いさん、あんたから見て、この村がこれからの数十年を、長い冬を生き延びられると思うか? もし無理そうなら、俺とアルゼリテは移住を考えないといけない」

「わかりません……そもそも、山奥で孤立している村が長い冬を耐えることは難しいのです。しかし、この村は少なくとも世代を重ねている。建物も維持できている。それを持続させている以上、無理とは言えません」


「妖精の麦飯だよ」


アルゼリテがつぶやく。妖精、という言葉が不思議な実感として感じられる。ろうそくの揺らめく炎に、妖精の透き通った羽を幻視する。


「あれさえ食べていれば生きられる。だから村はけして滅びない」

「妖精の麦飯……」


雪惑いは低くつぶやく。そのつぶやきは深い穴の底に投げるかのようだった。


俺には分からない。雪惑いとの共感は得られない。


俺たちの世界は小さく閉じていて、他者というものが遠いようだ。





雪惑いはしばらく村に逗留したいと言った。シャハトホルムの村について書き記したいらしい。俺たちの家に世話になる代わりに、いくらかの生活の知恵を伝えるという。


断る理由もない、それに都合が良いこともあった。


「見てほしいものがあるんだ」


俺は雪惑いを案内する。凍りついた山道をスパイク付きの靴で登る。彼女は何歩か遅れてついてきた。


村から1キロあまり、道はやがて雪深く平坦になり、足を腿まで上げながら歩く。何度も振り返って方向を確かめ、下り坂は接地してある鎖を頼りに下りる。


「ここだ」


たどり着くのは小さな池だ。断崖絶壁のふもとにあり、その崖は頂上が見えないほど高い。崖は氷が張り付いて複雑な光の景色をもたらす。


「これは、滝壺でございますね」

「そうだ、かつてはここに滝があったらしい。川が凍りついたことで水が届かなくなって、今は凍りついた池だけが残ってる」


この池を見つけたのは偶然だ。山菜を探すために雪をどけていたら、凍りついた水面を見つけた。雪は自重によってゆっくりと下方に流れていくが、それでも常に数十センチ積もっている。


「見てくれ、氷の奥を」


滝壺は深い。氷は澄んでいるが光は微妙に歪んでいる。青いような黒いような滝壺の底。


牛。


そのように見える、ものが。


ゴーのように丸っこく毛むくじゃらな牛ではない。茶褐色の短い体毛。山脈のように力強く隆起した筋肉。石のようなヒヅメや、黒い鼻の毛ヅヤを感じる。手でつかめるほどに小さく見える。かなり深くに沈んでいるのだ。


「あれは、牛でございますか」

「そうだ、腐ることもなく、この滝壺湖の底に沈んでいる」


雪惑いは興味深げに滝壺の底を見ている。氷を踏む足音はしない。


「この氷は……気泡がまったくありませんね。これほどに分厚く凍ってございますのに……」

「あんた、牛の料理法を知らないか」

「料理法、ですか」


俺には目標がある。


たとえば村に家畜を持ってくることだとか、村の近くに黒槍樹ジンガルを植えること。あるいは村に建物を増やして、いつか来るかも知れない移住者を受け入れること。


そして、食べ物に関することも。


食いものと言えばザレしか知らない俺が、いつか到達したい目標、星に手を伸ばすような大それた考え。


それを心に抱いて、生きている。



「あの牛を食べたいんだ。いつか訪れる、俺の人生で最高の日に」


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