第五十九話
「おお……!」
たどり着いた。そう思えた。
より正確に言うならば、たどり着くべきだ。というべきか。
洞窟はやや登りながらずっと奥まで続いている。
ガノーは洞窟に入るべきだと思った。それ以外の選択肢はなかった。何かを考えようとする自己を腹の中で抑えた。
一度、家に戻ってカンテラや食料を持ってくるべきだと、そう考えようとしている自己をどこか遠く認識し、認識した上で黙殺する。
踏み込む。なだらかな、傾斜で言えば三度にも満たない坂である。意識していなければ坂とも思えない。
歩くとすぐに背後からの光が途絶える。
そして、そのあたりで前方から風が吹いてくるのを感じた。
ガノーは風が吹いていることの意味をおぼろげに思考する。この洞窟にはどこかに出口があり、ガノーが雪を崩したために風が通るようになったのだが、そこまで正確な思考はできない。ただ、この洞窟は行き止まりではないとだけ認識する。
歩幅は大きく、スコップはがりがりと地面をこする。百歩ほど歩いたところでスコップも捨てた。ガノーは振り返りもしない。
隧道の高さはガノーの身丈よりかなり大きい。円形であり、表面は石が飛び出してごつごつしている。湾曲しているのか、ひたすらに直線なのかも分からない。踏みしめる板だけを頼りに歩く。
壁に触れると滑らかな質感があった。足元もそうであり、土気がまったくない。砂利を踏むような音も少ない。溶けて固まった飴のようだ。
恐怖はなかった。戻れなくなったらとか、危険が潜んでいないかとか、そのような思考を持続させないようにしていた。あの橋は何処かへと渡る橋。この隧道はどこかへと導く通路。その確信だけを持って歩き続ける。
とてつもなく長いと感じる。長さだけではない。時間だけが無限に引き延ばされているのだ。
光が見える。
そう感じて歩を速める。闇に慣れた目に光は大きく感じる。
「ここは……」
周囲はやはり白い。白一色の雪の世界。
そして目の前には峻厳なる霊峰。村を囲んでいた山々のさらに外側の世界だと感じた。
振り返る。隧道の入り口が木で補強されている。明らかに人の手になるものだ。
そして視界の端に、たたずむ人影が。
「おや、下から登ってきた方ですか」
それは黒のコートを着て、分厚い毛皮の帽子をかぶった人物だった。首から画板を下げて、羽ペンを持っている。コートは刺繍で飾られ、胸には紋章のついたバッヂを留めていたが、ガノーにはその紋章の意味が分からない。
「あんたは?」
「私は王都の役人ですよ。ユーゼル双器(そうき湖の記録をつけています。ここを訪れるのも20年ぶりですがね」
「何が……なんだか」
「すぐそこに監視小屋があります。お茶でもお淹れしましょう」
それは地面から10メートルほどの高さにあった。巨大な四本の柱で支えられ、鉄製の梯子がつけられているのだ。
「こんな建物が……」
「あなたはユーゼル開拓村の冬守りですか? 20年前の時点で冬守りはいなかったはずですが」
「下にある村のことか……俺たちはノーフォーと名付けてる。村に誰も住んでなかったから、俺たちが冬守りとして住んでるんだ」
「そうですか。あそこはユーゼル開拓村というのですよ。双器湖を開拓するための村でした」
テーブルも椅子も分厚い板材でできている。そのように、何もかも頑丈に作るのはこのあたりの流儀なのだろうか。
「まず……教えてほしいんだが、あの村は何だったんだ」
「ユーゼル双器湖とは、やや離れて存在する二つの湖です。上にあるのを上ユーゼル湖、下にあったのを下ユーゼル湖といいます」
役人は壁を示す。このあたりの地形図なのだろうか。山岳地帯のなかに二つの湖がある。高低差も示されており、上側は青く塗られているが、下側は紫に塗られている。
「このうち、下ユーゼル湖は湖とは呼ばれてますが沼地でした。貯水池として役立つほど水量はなく、土壌が軟らかすぎて建物も建てられないのです。ある時。その下ユーゼル湖を開拓しようとする計画が持たれました。沼地の土というのは栄養豊富で、水気さえ除けば耕作地として良好なのです」
「沼を……人が住める場所にするのか? どうやって……」
「長い冬を利用するのですよ」
反対側の壁を示す。そこにはいくつかの絵図が貼られていた。畑を作っている様子や、地面に深く杭を打っている様子が見て取れる。
「このあたりは石灰岩質でして、水は少しずつ地下に抜けていく。上流の水が来なくなれば、沼は少しずつ乾いて土になるのです。長い冬の時代は雨が雪となり、本来の川の流れが止まりますからな」
「……だが、冬が、終われば」
「ですから導水路を造るのですよ。下の村から来たのであれば見たでしょう。大きな橋のようなものを」
あの橋。とガノーは目を見開く。
「あの橋の上に樋を渡して導水路とするのです。一種の水道橋ですな。下ユーゼル湖の地盤は軟らかいので、安定性を持たせるために橋のような構造になっています」
「馬鹿な!」
ばん、と手をついて立ち上がる。木のテーブルはびくともしない。
「あの橋は川の跡じゃないのか! あんなものが水道橋だなんて!」
「下ユーゼル湖には一箇所だけ比較的低い峠があるでしょう? あれが本来の水の抜け道であり、豪雨の際にはあそこまで水位が上がったそうです。あの橋は、下ユーゼル湖へ水が注ぐ入り口から、出口である峠までを繋ぐ橋なのです」
「橋は峠まで伸びていなかった……」
「ですから、建造途中だったのですよ」
役人は残念そうにかぶりを振る。
「橋ができてから長い冬が訪れれば良かったのですが、少し早すぎましたな。あの橋は建造途中のまま残り、開拓者の村は冬守りが守ることになりました。しかし、どうも雪の多さに耐えかねたのでしょうな。20年前の時点で冬守りはいなくなってしまった」
「橋は土が……板の下まで土が積もっていた。水道橋というのなら、高さが要るはず……」
「それで良いのですよ。大地から水が抜けると、地面そのものが下がっていくのです。あれは地盤の沈下まで計算に入れて橋となっているのです。鎖の長さを変えることで、部分的な地盤沈下に対応できますからね」
役人は立ち上がり、窓から外を眺める。その言葉には乾いた軽さがあった。すべての言葉は重みがなく、彼がそのような開拓村に何の思い入れもないと感じられた。
「なかなかに独創的な計画でしたが、長い冬が訪れてしまった。あの橋も、開拓計画も一からやり直しでしょう。それ以前に、今回の冬が明けたあとは、人間の版図はかなり狭くなりそうです。土地を開拓して、農地を増やすなどそもそも不要となるでしょうな」
では、と疑問の問いかけが口をつく。
「では俺たちは、何のために」
「さあ。人生に意味などあるのかどうか、私も常に悩んでおります」
「王都は、まだ健在なのか」
「見ようによっては健在でしょう。私から言えるのはその程度です」
この土地を20年ぶりに訪れたと言っていたが、役人はまだ若いように思えた。話しぶりがとても落ち着いており、知性のにじむ声である。冬守りの社会しか知らぬガノーには、役人の年齢や社会的地位を推し量ることができない。それを恥ずかしく思う。
「じゃあ、あの橋は、つまり……ただの橋なのか」
「とんでもない。いま説明したとおり、独創的な干拓計画の一部ですよ。けして尋常なる建築物ではありません」
「それは……そう、だが」
ふと、脳裏に浮かぶ言葉がある。
浮かぶ勢いのままに口に出す。
「あんたは、雪惑いを見たことがあるか」
「雪惑い? あのおとぎ話に出てくるやつですか? いいえ、ありませんね」
「……越冬官や、冬の商人はどうだ」
「何人かの冬守りが、そのような言葉を語ります。実際に会ったと主張する方もいました」
役人は、少し話し疲れたという気配をにじませる。架空のことについて語るような器質の人間ではないと、ガノーに分からせたいようだった。
「ですが、それはおそらく狼でしょう。冬守りたちの村を訪れ、おとぎ話の住人を名乗って庇護を受ける連中です。いくらかの労働力や、冬を生きる知識を伝えることもあるでしょう。ですが、彼らは魔法の本に入らなかった。王の勅令に従わなかったのです。卑しい存在ですよ」
「……」
「冬守りのお方。生きていれば辛いこともあるものです。だから絵空事のような話にすがってしまう。しかし、地に足をつけて生きるべきですよ。長い冬には税がなく、人々に規律を求めるような法理もない。どのように生きても良いのです。それだけで素晴らしいと考えてはどうです」
税がなく、法理もない。それはとても輝かしく喜ばしいことだと、ガノーに言い聞かせるように語る。
「なぜ」
「? 何か」
「なぜ、この世界には魔法がないんだろうな。不可思議なことや、驚くべきこと。俺たちを労働から救ってくれるような、魔法の力が」
「冬守りのお方、繰り返しますが、地に足をつけねばいけませんよ」
役人は少し困ったような、困惑したような様子をあえて声に乗せて話す。
「それはきっと選択なのでしょう。不思議なものを信じる人間というのは弱いのです。地に足をつけてまっとうに働く人間のほうがずっと強いのです。私は冬守りの皆様を尊敬していますよ。彼らは愛すべき働き者であり、その人生が私を」
言いかけて言葉を止める。視線がガノーに落とされるが、彼は机に伏せたまま、役人の言葉など聞いていないようだった。
役人は熱い茶を淹れたが、自分の分には口をつけなかった。茶はだんだんと冷めていき、立ちのぼる湯気はか細くなる。ガノーはゆっくりと頭を上げた。
「もう戻らなければ……」
「見たところカンテラを持っていないようですが、よければ予備のものをお渡ししましょう」
「ああ……助かるよ、ありがとう」
梯子を降りて隧道の前まで至る。その穴は暗く湿っていて、歩いて帰ることがひどく億劫に思えた。自分はなぜスコップもカンテラも持たずにここまで歩いてきたのか。
「中は入り組んでいるようです、慎重に行かれると良いでしょう」
「一本道だったように思うが……」
「いいえ、王都が何度か調査したことがありますが、横道もいくつかあるようです。暗闇を歩いていたから分からなかったのでしょう」
「そうなのか……」
「風の通りが生まれていますね。風の流れる方向に歩けば大丈夫でしょう」
「本当に、世話になったな、役人のお方……」
隧道に踏み込む。確かに少し進んだ先で真横に分かれ道がある。来たときは出口の光に目が向いていて気づかなかったか。
歩く。足音が硬く、内部で何度も反響する。
「冬守りのお方。魔法は確かに素晴らしいものかも知れませんが」
声が響く。それがどのぐらい後方からの声なのか分からない。振り向く気力はなかった。
「世界に魔法がないと気づく、それもまた人生の節目。卵を破ってひな鳥が飛び出すように、蛹が羽化して蝶になるように、劇的なこととは思いませんか。私はそのような瞬間に心震わせるのですよ。お分かりですか、魔法があることとないことは等価なのです。どちらも捨てがたく、どちらも悦しむべき人生なのですよ」
最後の方は反響にまぎれて聞き取れなくなる。ガノーは口中で礼らしきものをつぶやいて歩く。
帰り道ではスコップは見つけられなかった。どこかの横道を滑り落ちてしまったのか、それとも直進したようで、来たときとは別の道を通っていたのか。
何時間もかかったように思える。ようやく出口に至れば、何やら騒がしい気配がした。
視線を上げると、橋の向こうにたくさんの人影が見える。
複数の人間。そしてゴーが四頭、いや、子供のゴーもいるから五頭だろうか。ゴーが引いているのは大型のソリと、そこに積まれた黒い丸太。黒槍樹である。
「マシュナ」
「ああ、あんた!」
先頭にいたマシュナが駆け寄ってきて、冷たくなっていた手を掴む。
「村にいないから心配したんだよ! どこ行ってたんだい!」
「いや……それより、あいつらは何だ?」
「途中で知り合った冬守りだよ。あの人たちも自分の村を守ってたんだけど、雪崩が起きて温室が埋まっちまったそうでねえ。ゴーを5頭と冬守りを4人、うちの村で面倒見れないかと思ってねえ」
「はじめまして、あなたがガノーさんですね」
一人が歩み出て握手をする。握手という習慣は忘れかけていた。
「雪は深いようですが、とても立派な村ですね。これだけの雪をお一人で片付けていたのですか。大変な仕事だったでしょう」
「いや……そんなことは」
「マシュナさんから話を聞いていたのですが、このあたりには黒槍樹が生えてないそうですね。とりあえず200キロほど持参しました」
「炭焼き小屋はありますか? さっそく焼きましょう」
別の人間が口を挟む。4人の冬守りたちは、村にたどり着いた喜びもあってか、かなり早口で話し合っている。
「だいぶ離れていますが、黒槍樹の群生地を知っています。しばらくは私たちが往復して、この村に運びましょう」
(生きていく)
その言葉が、胃の中で重みを増す。
あの橋は魔法などではなかった。
雪惑いも、おとぎ話にあるような人々も、すべて絵空事だった。
何もかも幻想のようなこの時代で、それでも地に足をつけて生きている人々がいる。あの役人のように、この冬守りたちのように。
(俺は)
どこかで道をそれた、そんな気がする。
どこかで、魔法がある世界にたどり着けなかった。それは妄想のような幻覚のような思考。
(あの雪惑い)
あれは、お伽噺の住人だったのか、それとも舌先三寸で身分を偽る狼だったのか。
雪惑いが村に残っていたなら、何が起きていたのか。
それはガノーには想像できない。あまりにも深遠で、そして遠い過去になってしまった「もしも」の想像。
「さて、これで村人は六人か、役割を決めないとな」
「そうだね、じゃあ私は温室を広げるよ」
「僕は食料と備品の記録をつけよう。みんなで均等に消費しないと」
「役所みたいなものを作ろう。紙で記録を残さないとね」
「ガノーさん。雪かきをお任せしてもいいですか」
「それはいいんだが……実はさっき、スコップをなくして、作り直さないと」
「ああ、それでしたら僕のがあります」
受け取る。何の変哲もない普通のスコップ。柄の長さは1メートルほど。
そしてそれは、己の体格にぴたりと合っていると感じた。
手足を見る。ごく普通の太さしかない。筋肉はついているが、並の人間から外れていない。
(当たり前のことか)
ガノーはスコップを見つめ、どこかに落としたものについては考えることをやめた。マシュナがそんな彼を見て首をかしげる。
「? ガノー、あんた少し痩せたかい?」
「そうかな」
「あたしは何年か村に戻れなかったけど……ガノーはもっとこう……丸太みたいに太い腕で、背中は岩みたいで、巨人みたいに大きかった、ような」
「いないさ、マシュナ」
生きていく。
厳しい冬を、労働の日々を、人と人との関わりの中で。
その実感に、ガノーは強く奥歯を噛み締めた。
「そんな、おとぎ話のような人間など――」




