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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第十二章 一握の宴
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第六十三話



毎日は雪原のように純白。


白くなだらかな日々。やることは変わらない、村の建物を手入れして、雪を谷あいに捨てて、ザレを採集し、囲炉裏のそばでつくろいものをする。


赤くなった指先も、足と背中に蓄積するような疲労も、慢性的な胃の震えにもとうに慣れた。


慣れが五感のすべてに現れる。遠く山の稜線を望む白い眺め、絶え間なく上空を行き交う風のうねり、鼻は何にも驚かない、大気から劇的なものが失われて久しい。


失われた、という感覚は正しいのだろうか。俺が子供の頃からシャハトホルムはずっとこうだった。なぜ何かが失われたと思うのだろう。


失われたと言えば、雪惑いの女は。


その言葉は泡のように浮上する。あの女はどうなっただろうか。いくら雪惑いが生存に長けているとしても、あの山で生き続けているとは思えない。


だが名前だけが、言葉だけが背中に張り付くように残っている。冬守りの日々の中で唯一の濁り、夾雑物きょうざつぶつのようなもの。


アルゼリテはあまり囲炉裏端いろりばたを動かなくなった。動きが段々と鈍くなって、建物の補修ができなくなったのだ。


毎日の生活のなかで、ふと気づくと目の前にアルゼリテがいる。火のそばで己のマントを繕っている。囲炉裏に火が入っていないこともある。円錐形に広がったマントは分厚く重く、アルゼリテの首をそっと支える手のようだ。


「ドルニテ、家にいなよ」


そうつぶやく、声がどのぐらいの大きさだったのか分からない。アルゼリテは目を閉じていて、唇には色がない。髪は灰色に近いほど色素が薄まっている。


「でも、建物を補修しないと。雪を降ろして、道を露出させて」

「大丈夫だよ」


アルゼリテはゆっくりと話す。会話というより、アルゼリテという一幅の絵を観察するような時間、そんな比喩が浮かぶ。俺は彼女の言葉を心で補完しつつ会話する。


「家は頑丈にできている。雪で潰れたりしない。あとは私たちが生きていればいい」

「生きるためには……ザレを集めないと」

「そうだね」


アルゼリテはそう言って沈黙する、会話が終わったという実感すら無かった。アルゼリテはゼンマイが切れかけの人形のようだ。だが疲れているとか衰弱しているのとは違う。うまく言葉が見つからない。


言うなれば存在が。この世に確かにいるという確信が薄まっている。

それはつまり、俺の認識が。


俺がアルゼリテという人間を認識しなくなってきている。


何日も。


何日も同じような日々が。


俺は日々のつとめをこなして。


あの滝壺湖にいる牛のことを考えて。


いくつかの吹雪の夜をじっと耐えて。


そしてある瞬間、囲炉裏の向かいを見る。


誰も。


誰もいない。


俺は慌てて周囲を見る。誰かが。失われて。


そうだ、アルゼリテがいないと気づく。夢の中のような感覚。俺はマントの襟を合わせて、頭巾をかぶって外に出る。


痕跡はすぐに見つかった。足跡が残っていたのだ。アルゼリテにまだ体重があったのか、と奇妙な感慨を持つ。


彼女はザレ場にいた。崖沿いのくぼみ。俺がザレを掘り出した跡だ。円錐形にマントを広げて、うずくまっている。


「アルゼリテ」

「どうしたの、ドルニテ」


そのように返す。やはり色素が薄い。色鮮やかなマントが、薄く雪を積もって白くなっている。


「こっちの台詞だぞ……。外にいたら凍えてしまう。村に戻ろう」

「大丈夫だよ」


あるいはアルゼリテは身動き一つしておらず、声も発しておらず、俺がアルゼリテの心を読み取っているだけ、そんな気もする。アルゼリテは白く静かで、穏やかで、呼吸も、心臓の鼓動も読み取れない。


「私はもう、寒さを感じない。何も食べなくていい、不老不死、というものに、なったのかな」


氷で作った像のようだ、そんなふうに思う。


「存在すると思ってるのか……? 不老不死なんてものが」

「かつては、そうじゃなかった」


俺はアルゼリテの近くに片膝をつく。雪がわずかに降っている。アルゼリテの背後にあるのはザレの層。灰色と緑色、褐色の粒が混ざった食べられる土。


「ザレはね、たくさん食べると死ぬんだよ」


俺はぎょっとする。彼女は何を言っているのか。


「私もそうなると思っていた。ゆっくりと死に近づくのだと。ザレというのはね、食べられる土だけど、毒を含んでいた。でも今は違う。何一つほころびはない、完全なんだよ」


蝶の羽ばたきのようにかすかな声。アルゼリテの声はいつの間にこんなに小さくなったのだろう。具体的な何かを言おうとするほどに聞き取れなくなる。


「アルゼリテ、大丈夫なのか。どこか、様子がおかしいぞ」

「そうかな、私、わかって、きたよ。永遠、という言葉。永遠に、生きる、永遠に、ザレを」


そこから先は聞き取れない。

俺の心は停滞している。アルゼリテが普通ではないことは分かるし、死ぬのかとも思う。だが心がざわめかない。大きな大きな布地の、どこかに針の穴が空くような感覚。


こんなのは普通じゃない、俺にも分かる。俺とアルゼリテの心はとても静かになっている。ザレのためだろうか。危機感も、焦りも、不安や恐怖も、星の光のように遠い。


これはザレのせいなのだろうか。

ザレとは何なんだ? ただの食べられる土じゃないのか? 俺たちに何が起きている?


「――牛を」


言葉が、数千丈の深みから昇ってくる。


あの牛を焼こう。氷を割って、頑丈なロープで掘り起こして、ありったけの炭で焼こう。


何のために?


その答えは俺の中にあるはずだが、俺の心は果てのない空洞のようで、とても思い出せず……。





温順なる洞窟にて。生ぬるい生命が足元に満ちる中で。


雪惑いシャルロットは、ただずっと立ち尽くしていた。

目はあらゆるものを追い、耳も鼻も、大気の味も皮膚を濡らす湿度までも、すべてを追い続ける。


どれほどの間、そうしていたのか。

ある一瞬、日記帳を前方に突き出す。こわばった関節が軋む音がして、細かな骨がばきばきと鳴って本が開かれる。白一色のページが。


金盞花きんせんかの娘たち」


つぶやく。それは誰にも届かず、手に落ちた雪のように淡く溶ける声。


「落ちることなき雷を聞き、枯れ果てた花園を嗅ぎ、千年前の都市を見て、感情の落としたる影に触れ、過去と未来を舌先にもてあそぶ娘たち。言葉を肌にまとい、手と足は金毛きんもうの筆、隆盛と退廃、千思万感を愛すべきムネモシュネの娘たち」


日記が。


黒革張りの日記が開く。特殊な速記文字は降りしきる雨のよう。見るものに幻惑と混乱をもたらす文字の輪舞。


空井戸からいど貴人きじんくび王櫃おうひつにはにかわしょ、すべてあるがままに巡礼じゅんれい辿たどれ。黒犬くろいぬ墓守はかもり、十翼じゅうよく鐘守かねもり、時の焦点においてひざまずけ」


ページがはがれて宙に舞う。この洞窟に風の流れはない、見れば紙片は風にはためく様子もない。ツバメのように上空を旋回する。


「世に語られざる言葉なく」


数が尋常ではない。数千、あるいは数万枚。


洞窟の空いっぱいを使って回転運動を行う姿は黄金の輪のごとく。透明な天蓋からの光が白い輪に影を生み、苔の海にも円形の影を刻む。


「世に明かされざる過去もなき」


シャルロットは目を見開く。細く長い指が上空に伸ばされ、その先で紙片が舞う。


紙片の群れが軌道を変え、地上をなぞるように動く。鳥の羽音のような響き、滑空する紙と、虚空のある一点でひるがえる紙。


紙が、虚空の何かに張り付く。


張り付いた次の瞬間には剥がれる。空間に透明な何かがあり、紙の挙動がその何かによって乱され、三次元的な輪郭を残す。


人間がいる。


紙の輪舞の中で姿が見える。長剣を構えた剣士。そばには背嚢。世のどこにでも現れうるというギンワタネコもいる。


相対するのは、褐色の巨影。


古城のように色あせた甲殻。二つの鋏は血の汚れに黒ずみ、尾部からは長大な尾が弧を描いて反る。異形の生物。


一見すればさそりであろうか。尾部にある毒の針が強く意識される。長大な尾の先にあるのは湾曲した針。刺すと同時に肉をえぐり、深く深く食い込まずにはおかぬという意思の現れ。


剣呑さが満ちる。この場には殺意しかない。両者は一触即発の間合いにいる、蠍の尾が後方にたわむように動き、凄まじい力が蓄えられるのが分かる。


じ、という音と同時に着弾している。尾の伸長は黒い閃光。ニールが回避した瞬間に大地に突き刺さる。


腐敗と腐臭、紙の群れはそんなものすら感じさせる。突き刺さった部分が円形に黒ずみ、毒の沼のように溶ける。


すべての脚を使った疾走。重量を物ともしない旋回。続けさまに二撃、三撃、黒い閃光はとても生物の動きとは思えない。分厚い苔を蹴散らして走る。


剣士は構える。脱力とも冷静さともつかない静かな構え。背後から延髄を狙う尾、突き刺さる一瞬、剣士が反転。尾の先端が斬り飛ばされる。


蠍が吠える。そうとしか思えない事象。氷洞全体がびりびりと鳴って氷の薄片が落ちる。この蠍は獅子のごとく吠えるのか。巨大さよりも毒の強さよりも、それを不気味に思う。


尾が根元から自切され、新しい尾が生えてくる。粘液に覆われ、さらなる頑健さとしなやかさを持った尾。

だがすでに雌雄は決したと見えた。あの剣士を上回る怪物ではない。


「この場にてニール様が斬ったのは、蠍。毒を持つ蠍」


それは何を意味するのだろう。蠍は地の底から出てきたから、ニールは地の底に眠る何かから毒性を奪ったのか。


「この苔には毒性があった……それはおそらくこの熱源、地の底に眠る何かから発せられていたもの。ニール様が毒性を斬ったことで、熱源は安全なものとなり、ここにある苔も、ザレも安全となったのでしょうか……」


ここは理想的な場所なのだろうか。ここにいれば悠久不変なる熱と、絶えることのない食料がある。


冬守りが悠久の栄えを得る、その条件が揃ったとも言えるだろうか。


紙片の乱舞は続いている。戦況はもはや圧倒的だった。蠍は甲殻のあらゆる部分を断ち割られ、尾を四つに斬り裂かれた蠍の姿。


「……」


まだ越冬官は立っている。剣を構え、足をわずかに開いて、斬るべき敵を探している。


斬るべきものを必ず斬る、輝きの剣。この眺めは確かにここで起きたこと、雪惑いが再現するものに誤りはない。


だが何も現れない。剣士は数時間も、数日も身構え続けるかに思える。だが何も現れない。やがて輝きの剣は光を失い、越冬官は力なく腕を降ろして、ギンワタネコもどこかに消えていた。


「斬るべきものが見つからない……?」


それは奇妙だ。輝きの剣は斬るべきものを必ず見つけ出す。それが地形であっても、事象であっても、運命であってもかりそめの形を与える。

あらゆる困難を、災いを、怪物の姿に降ろして・・・・斬る。それが輝きの剣のはず。


「ニールさまは、この地の毒を斬った。家畜を殺すという毒でしょうか。それがザレに含まれていたのか、水なのか土地なのか、それは分かりませんが、毒は確実に斬ったはず」


蠍の尾が刺さった地面は腐り果てていた。おそらくは毒を浴びたものも毒になるほどの激甚なる毒。


「斬ろうとしたものは、シャハトホルムの汚染された土地……それとも、その毒の根源とでもいうべきものでしょうか。蠍となった毒はニール様に斬られた。シャハトホルムから毒が失われた……」


何度も同じ事をつぶやく。シャルロットもまた思考が停滞していると感じる。この場所からこれ以上のことが読み取れない。ニールが何を斬ろうとしていたのかが分からない。


斬ろうとしていた以上、この地には毒の他にも何かがあったはず。冬守りたちの脅威となるものが。


なぜ、それは現れないのか。輝きの剣により具現化された怪物とならないのか。


紙の乱舞は収まりつつある。越冬官の影が消えかけるとき、彼が手で顔を覆い、空を仰いだように見えた。天蓋の水晶から差し込む光を、この温室のような奇妙な場所で、彼は嗚咽を漏らして嘆いていた。


「ザレには毒があった。ザレだけを食べ続けていては冬守りの命が危うい、だから毒を取り除いた……」


そこまでは分かる、だがそれで完結ではない。


越冬官は嘆いていた。むしろ事態は悪化したのだろうか。


死ぬよりも・・・・・


なぜ・・そんなことが・・・・・・起きる・・・


「……戻らなくては」


その思いはある。だがためらう気持ちもある。


おそらくシャハトホルムはもう、取り返しがつかない段階に来ている。

どのような形かまるで分からないが、滅びの定めが迫っている。越冬官にも斬ることができず、雪惑いにも解き明かせない複雑怪奇、深淵にしてあらがいがたい滅びが。


滅ぶ村はいくつも見てきた。若い冬守りたちの遺体も、哀惜と憤怒にまみれた日記を見たこともある。無数の雪惑いたちの記憶がシャルロットにもある。


この事態は、おそらくそのどれとも違う。


それは世界に新たに生まれた神秘というものか。それとも。


「まさか、冬の商人様が……」


この洞窟に、どのぐらいいたのだろうか。

数日か、数ヶ月か。




あるいは、時が始まって終わるまでの長さか。



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