その3
大学時代も恋をした。同じフランス語の授業をとっていた尾長さん、近所のコンビニ店員飯田さん、初めてのバイト先である古本屋のバイト仲間、大学院生の倉舞さん。
いずれの恋も成就することはなかった。僕は誰にとっても気づかれにくく、たぶんその存在を認識されてさえいなかった。
自分から積極的に話しかけたりすれば少しは気づかれやすくなったのかもしれないが、それは僕にとってあまりにハードルの高い行為だった。僕はどんな場所にいても基本一人で誰とも喋らずに過ごした。そうしているとますます気づかれにくくなる。悪循環だが、断ち切る気力も沸かなかった。そのくせちょっとタイプの可愛い子を見ると恋に落ちてしまい、一人悶々とする。そんな大学生活だった。
夢は詩人だったが、詩人になんてなれるはずもなかった。そんな才能なんてなかった。時々自分の気づかれなさを哀愁込めて歌ったポエムみたいなものをツイッターで発表するくらいが限界だった。いいねなんて一回もつかなかった。
そんな誰にも気づかれない人間にまともな就職先がある訳がない。
僕が採用されたソフトウエア系の会社はとびきりのブラック企業だった。連日朝から終電近くまでの長時間勤務なのに残業代はろくに出ない。時間内にノルマをこなせないと上司からの厳しい叱責を受ける。気づかれなさに関しては誰にも負けない自信があったのに、この上司にはちょっとしたミスもすぐに気づかれた。時間内に仕事を終わらせても気づかないくせに、ミスをした時だけ何故か気づかれる。上司は、人のミスに気づく天才だった。
会社を辞めたかったが、辞めた所で自分のような人間にろくな就職先が見つかるとも思えなかった。
そんな辛く苦しい毎日の中で唯一の救いは受付嬢の柴坂さんの存在だった。社員は長時間労働だけが取り柄のろくな人材がいなかったが、受付嬢は派遣社員で皆美人揃いだった。
パソコンとにらめっこするだけの過酷な毎日の中で、受付を通りかかった時に盗み見る柴坂さんの笑顔だけが心の支えだった。彼女は僕が前を通りかかるといつも笑顔でお疲れ様ですと言ってくれた。他の受付嬢は気づいてくれないことが多いのに、彼女だけはいつも気づいてくれた。
だから彼女が今月いっぱいで辞めるという噂を耳にした時、いても立ってもいられなくなった。彼女がいなければ、もうこの会社にいる意味が見いだせない。
月末が近くなったある日、上司の目をかいくぐって定時で帰り、柴坂さんが帰るのを待ち伏せた。柴坂さんは同僚の受付嬢と一緒に会社を出てきたので声をかけられず、後をつけて彼女が一人になる瞬間を狙って声をかけた。
「あ、あの、柴坂さんですよね。奇遇ですね。こんな所で会うなんて。し、柴坂さん、もうすぐ辞めちゃうんですよね。も、もし良かったらこの後どこかでお話でもしませんか?」
後をつけながら胸の中で反芻した言葉を一息に言って柴坂さんの顔を見ると、そこにいつもの笑顔はなかった。完全な無表情で、僕はその顔を怖いとさえ思った。中学時代に好きだった仲嶋さんのことを思い出した。
「すみません、人違いじゃないでしょうか? 失礼します」
美しい顔を強ばらせてそう言うと、柴坂さんは僕の前から姿を消した。
翌朝気まずい思いで受付の前を通りかかると、柴坂さんはいつものように曇り一つない笑顔でお疲れ様ですと挨拶をしてきた。昨夜のことを全く覚えていないというよりも、僕が昨夜の人物と同一人物であるということを認識していないようだった。
結局僕は柴坂さんにもその存在を気づかれていなかったのだ。




