18
ど、ど、ど、
昔、夫と観光で訪れた滝の下に立った時、同じような心地になった。上流から水が落ちるとき、どどどと足元に振動がくる。指先まで震えているような感覚に、何となく恐ろしい気持ちになったものだ。
体から伝ってきた揺れは、やがて内臓を震わせる。心臓が一番、直接的に振動を感じとっていた。
隣に立っていた夫の腕を掴み「何だか、怖いわ」と言えば「怖くないよ」と笑って答えてくれたその人。
まさに今、あのときのように。
体全体を震わせるもの。目の前に滝があるわけではないのに、身体が震えた。心臓が、大きく揺れた。
だけど、あのときとは違って、隣に縋りつくことのできる人はいない。
それでも。
指先は砂を掻き、銀色のクッキー缶を掘り出した。放っておくことができなかったのだ。
元々、深い穴を掘っていたわけではないらしく、とても浅いところに埋まっていたので、簡単に取り出せた。そのこと自体に、何か不吉な予感がした。
隠していたことは明確なのに、それと同時に、まるで見つけてほしいとでも言っているかのように存在感を放っている。
「拾い上げたら―――――」
説明しようとして、喉が詰まった。窓から入り込む風と一緒に、子供の歌声が部屋の中に入り込む。
これは何の歌だっけ。思い出せない。
思い出せないけど、幸三郎を膝に抱えて見ていた教育番組で、若い女性が身振り手振りを交えて歌っていたのを覚えている。
自分の胸の下辺りで柔く揺れる小さな頭。リズムにのって「あ」「う」と言いながら歌っているつもりになっている。脛に、小さな足がとんとんと当たって、それが案外曲調に合っている。
この世界で、あれ以上に可愛い存在はない。
本当は、この世界のどこかであの子は生きているんじゃないか。
あのときの、あの姿のまま。どこかの道を歩いているんじゃないか。ブランコに乗ったり、滑り台を滑ったり。砂場で穴を掘ったり。
『ママ』と呼ぶ声を思い出す。一人で寂しがっているかもしれない。母親を捜しているのではないか。
スーパーに連れて行ったとき、あの子を見失ったことがある。すぐに見つけたけど、もしかしたら本当は今も迷子になっているだけで、どこかにいるかも。
これまでに何百回、何千回、あるいは何万回、頭の中に浮かんでは消えていったありもしないことをまた、考えている。
*
「征二郎の宝箱だった……?」
母がなかなか言い出せずにいるので、耐えきれず言葉にする。ひゅっと息を吸ったその人は、顔の前にあった己の手を落とした。唖然としているかのように口を開き、両目をこれでもかというくらい大きくしている。まさか、俺が知っているとは思わなかったのだろう。征二郎の宝箱が、父によって発見されていたなんて。
「征ちゃんは、宝物を入れたクッキー缶を砂場に埋めてたんだね」
誰にも見つからないように隠していたのだ。それは、悪事を働いたからではない。単純に宝物を誰にも取られないように隠していただけ。
そして、砂場に埋めたものはもう一つ、あったはず。
「他には?」
「……、」母の目から、決壊するみたいにほろりと涙が零れた。
ひくり、と喉が鳴って呻き声に似た嗚咽が一つ。
「幸ちゃんの、……靴が、……一緒に、」
初めはよく分からなかった。銀色のクッキー缶を砂の中から掘り出した後、中身を確認して。昆虫の羽が入っていたり、見ていて気持ちの良いものではなかったけれど、子供が集めそうなものだと思った。大人には分からないけれど、征二郎にはこれが良いと思った理由があるのだろうな、と深く考えもせず。
あの子には変わったところがあると、笑みが零れるほどだった。
久しぶりに笑ったと、自分でも思った。一瞬、穏やかな気持ちになれたのに。缶に蓋をして改めて砂場を見ると、その下に見覚えのあるものがあって。
気づいた刹那、額に汗が浮いた。
だというのに、背中が異常なほどに冷える。
「それでも、まだ意味が分からなかった。……単純に、なんで幸ちゃんの靴が埋めてあるんだろうって……」
拾い上げて、手の平に置いた。砂の中にあったのに、あまり汚れておらず、砂を払えば元通り。汚れ一つないように見える。
そしてまた、思う。
何で、こんなところに。
「幸ちゃんの靴が片方見つからなかったと言われたのは、もっと後なの。庭で幸ちゃんの靴を見つけたとき、警察はまだ現場捜査を終えていなかった。だからまず初めに思ったのは、幸ちゃんは靴を履いていなかったんだって……、裸足で出て行ったのかもって。そう、思った」
幸三郎がいなくなったとき、まさか一人で家を出るとは思っていなかったので家中を捜しまわって、いないと分かってから玄関を確認した。そしたら、そこにあるはずの幸三郎の靴がなかったので、もしかしたら外に出たのではないかと考えたのだ。
そして実際、そうだった。
でも、庭に幸三郎の靴があれば、俺だって母の言うとおり「幸ちゃんは靴を履いて出なかったんだ」と考えたはず。
まさか、事件現場から幸三郎の靴を持って帰ってきて、庭に埋めた人間がいるとは思わない。
赤の他人が犯人だったとしたら尚更。犯行を終えた犯人が、わざわざ我が家に侵入して靴を埋めるなんて常軌を逸したことをするなんて、考えもしない。
そもそも幸三郎が遺体で発見された当初は、事故と事件の両面で捜査が行われていたはずだから。
事故の可能性が捨てきれなかったあのとき。幸三郎が池に沈んだ後、あの靴を持ち去った人物がいるとは、想像すらできなかっただろう。
「征二郎の宝箱と靴を持って、家の中に入って……、ずっと考えてた。どういうことだろう。何で、幸ちゃんは靴を履いてなかったんだろう。一緒にお散歩や買い物に行くとき、あの子は自分で靴を履くようになっていたのに。何で、なんで……、」
ぐるぐると同じようなことをひとしきり考えてから、今度はふいに、別の考えが浮かぶ。やはり幸三郎は靴を履いていたはず。警察から衣服を剥ぎ取られていたと聞いた。その中には、池の汚泥を吸って沈んでいるものもあるので、捜索している最中だとも。だとしたら、どういうことだろう―――――?
リビングのソファに座って色んなことを考えた。
「とりあえず考えがまとまるまで、征二郎の宝箱と幸三郎の靴は寝室のクローゼットの中に置いておくことにしたのよ。警察に訊いてみようかなって……、でも、」
そんな風に考えていたとき、事は起こったのだ。
「夜中、一人でリビングのソファに座っていたとき、征ちゃんが起きてきて言ったの」
―――――ママ。ぼく、幸ちゃんを、押しちゃった……。
おし
ちゃ、
った?
「征ちゃんは、泣いてた。怖い夢見たって。幸ちゃんを、泣いてる幸ちゃんを、池に、池に落としたって……! 背中を押して、落としちゃったって……!!」
そんな夢を見たと、泣きながら抱き着いてきた。ほとんど何も考えず、しがみついてくる我が子を抱きしてて、あやすように背中を撫でる。寝不足で頭が働かない。怖い夢見たわね、と言って。大丈夫、大丈夫と慰めて、唐突に点と点が繋がった。バラバラに散らばっていたパズルのピースが、互いを引き寄せ合い、勝手に全体像を見せてくる。
そんなはずはない。
絶対に、そんなはずはない。
もう一人の自分が、頭に描いたとんでもない仮説を何度も否定してくるのに、つじつまを合わせようとすると導き出される答え。
「征ちゃんだって、思ったの」
理屈ではなく、直感に近かった。なぜか、確信があったのだ。幸三郎を池に落としたのは、征二郎で間違いない。
―――――そして、それは事故なんかではない。
「征ちゃんは、幸ちゃんに時々、意地悪だった。とっても、意地悪だったの。……でも、気にしてなかった。私がきっと、幸ちゃんに構いすぎるから嫉妬してるんだって。私が、征ちゃんを、抱きしめれば大丈夫だって、……思ってた……、」
悪夢を見たと言って泣きついてきた征二郎を強く抱きしめる。それ以外に、どうすればいいか分からなかった。うわ言のように、それはただの夢だから大丈夫。征ちゃんは何もしてない。幸ちゃんを押したりしていない。と繰り返しながら、酷く冴えた思考はもう結論を導き出していた。
「征二郎なんだね。幸三郎を池に落としたのは、征二郎なんだ」
確認するように問う。
母は顔を真っ赤にして泣きながら、断罪を受ける罪人のようにはっきりと頷いた。
征二郎の集めた奇妙な宝物たち。それと一緒に埋められていた幸三郎の靴。
父は、征二郎の宝物を戦利品だと称した。だとするなら、幸三郎の靴もまさしく戦利品だったのだ。
幸三郎を池に落として、奪い取った靴を持ち帰り、誰に見せるでもなく庭の砂場に埋めた。誰にも取られないように。
昆虫から、羽をもぎり取ったのと同じ。
「―――――でも、なんで? お袋はさ、みちのお父さんに罪をきせようとしたんだろ? もう分かってるんだよ。お袋が出版社にいって、あることないこと言って……、おじさんに疑惑の目が向くように仕組んだこと」
真実、征二郎が幸三郎を殺害したとして、それを立証するものは少ない。いや、現段階ではないと言っていいだろう。だったら、警察に話すべきだった。現場に征二郎が居たことを。
幸三郎の死のきっかけが征二郎だったとするなら、あれはきっと事件にはならなかったはずだ。だって、征二郎はあまりに幼かった。故意に突き落としたと考える大人はいない。
幼い兄弟がじゃれ合って、結果的に幸三郎が池に滑り落ちてしまった。―――――そう考えるのが、普通だ。つまり、事件ではなく事故として終えることができたのではないか。
なのに、この人は。
あえて、別の犯人を仕立て上げたのだ。
「……あのまま、あの人が逮捕されるなんて思わなかった。何もかも分からなくなればいいと思ったの。それだけなの……。捜査が混乱して、誰も、捕まらなければいいと思った」
ひくり、ひくりと大きく肩を上下して泣く母を、慰める言葉を持たない。
「自分が何をしたのか、本当に分かってる?」
頭の中には、母を追い立てるように、責めたてる言葉が浮かんでは消える。なるべく冷静でいなければと思うのに、身体が沸騰しそうなほどに熱い。
「おじさんは、―――――死んじゃったんだよ!!」
自分の声で耳鳴りがする。他にどう言えばいいか分からなかった。母のせいだ。母が、余計なことをしたから。おじさんは警察に連行され、近隣の人から忌避されて、深く傷つき、怯え、生きる気力を失ったのだ。
「……分かってる! 分かってるの! 私が悪い。私のせい……! 全部、全部、私のせい! 私が、私のせいで……、私が、私が、幸ちゃんを殺したの――――――!!」
悲鳴のように響く泣き声でなされた告白に、しばし言葉を失う。
「今、何て……?」
「お母さんのせい。全部、全部、お母さんのせい。幸ちゃんが死んだのも、征ちゃんがあんなことをしたのも、全部。全部、」
「何を言ってるの?」
「あの日、お母さん……、幸ちゃんに、あっちに行ってって言ったの。あっちに行って!って、そう言った」
それが、母が幸三郎にかけた最後の言葉になったと、嗚咽を交えながら話した。
あの日、キッチンで料理をしていた。疲れていた。とても、疲れていたのだ。専業主婦なんだから、ちゃんと子育てして完璧に家事をこなさなきゃ。そう思っていた。
仕事をせずに主婦だけやっていればいい自分は幸せだ。時間もたくさんある。仕事をこなしながら主婦をやらなければならない人に比べれば、恵まれている。夫は子育てに専念してくれればいいと、言ってくれたから。
実際、子供たちを連れて散歩に行けば、近所の人はそんな風に声をかけてきた。
『働かなくていいなんて、羨ましい』
そうだ。働かなくていい。
経済的に余裕があるわけではないが、赤字なわけでもない。自分の時間の全てを子供たちのためだけに使える。夫のお弁当だって、いつも手が込んだものを作れるし。家の中だって毎日、隅々まで掃除できる。フローリングの床は掃除機をかけて雑巾で拭き上げて。時々、夫が連れてくる会社の人は、ほこり一つ落ちていないと褒めてくれた。それは、そう。だって、気を付けている。
一日に何回も洗濯をして、柔軟剤の香る洗い立ての洋服を家族に着せることができた。料理は得意じゃないけれど、料理本を見ながら手の込んだものを作れる。
時間があるから。
結婚してからは魚だってさばけるようになったし、夫が望めばどんなジャンルの料理だって挑戦して見せた。朝食も昼食も、夕食だって何品もおかずを並べられる。一品や二品だけじゃ少ないから。
空いている時間に買い物に行って、時々は役所で用事を済ませて。
あ、そうだ。芳郎の学校行事がある。それだけじゃない、征二郎の保育園から呼び出しがあったのだった。何の話だろう。準備しないといけないものがあったかしら。
忙しい。
時間はあるのに。
『奥様はすごいわね。いつもきれいにお化粧して。お洋服だって素敵』
誰かがそう言ってくれた。『そうなんです。働いてないから、時間があるんです』と答える自分の声が上滑りする。
どうして?
何だか心が忙しない。朝起きて、時間があると思っていた今日はあっという間に過ぎ去って夕方になった。おかしい。何だか、疲れている気がする。おかしい。
私には、時間があるはずなのに。ああ、何だかとても疲れている。
なのに、また、朝がきた。
「あの日。キッチンで玉ねぎをみじん切りにしてたら、幸三郎がきて足にしがみついたの。だっこって」
また、征二郎に意地悪されたのだと思った。また……、
考えている内にまた「だっこ」と手を伸ばしてくる。でも、早くご飯を作らなくちゃ、またいつの間にか夕方になってしまう。だから言った。
「あっちへ行って!」
そして、リビングの長男に声をかけた。幸ちゃんを見ていてね、と。
母親に抱き上げてもらえなかった幸三郎は、むんと唇を結んで泣きそうな顔をしたけれど、泣き出すことはなく、しょんぼりとした背中でキッチンから出て行った。
可哀相だったかな?
でもこの手は二つしかない。今は包丁を握っているので、時間が空いたら後で思う存分抱きしめてあげよう。そういえば、最近絵本を読んであげていない。芳郎がやってくれるから任せていたけれど、寝る前にお気に入りの本を一冊、読んであげよう。
そう思っていたのに。
その後、あの絵本を開くことはなかった。
「……幸ちゃんに最後に言った言葉は、あっちに行ってて。それだけ……、幸ちゃんて、名前さえ……、呼ばなかった」
「……、」
「何で、幸ちゃんなんだろう。何で、お母さんじゃないの? 何で、お母さんは生きてるの? ど、どうして……っ、幸ちゃんじゃなくて、お母さんが死ねば良かったのに―――――」
自分で自分を抱きしめるみたいに体の前で両腕を交差させた母が、テーブルに突っ伏すようにして泣いた。テレビドラマみたいに、声をあげて。いっそ、大げさなほどの泣き方だった。
―――――そんな風に。
ずっと、そんな風に思ってたんだ。
俺や征二郎がいるのに。自分が死ねば良かったって?
何で?
何で、俺にはこの人を救えないんだろう。
こんなに泣いてるのに。こんなに苦しんでるのに。どうして、何もしてあげられないんだろう。
幸三郎以外には何もいらないみたいに言う人を。
どうして、助けてあげられないんだろう。
俺が、幸三郎じゃないから? 俺が幸三郎じゃないから救えないんだ。
幸三郎だったから、この人を救える。
そうだ。結局は、そういうことだ。
死ねば良かったのは、俺。
池に沈んだのが俺だったら。何も見なくて済んだのに。




