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暗闇に、月を葬る  作者: はなぶさ


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15

小嶋がいま、どんな顔をしているか分からない。

俺はもはや喘ぐような呼吸を繰り返すだけで、膝の上に置いたカップの中をぼんやりと眺めることしかできなかった。揺れる水面が部屋の明かりを淡く反射して眩しい。

「なぁ芳郎君。……君の言う通り、俺は確かに幸三郎ちゃんの事件を検証しようと試みた。でも、止めたんだ。つまり、投げ出した」


そんな人間に何かを言う資格はない、と続けた。

顔を向ければ、憐れみにも似た眼差しにぶつかって息が詰まる。肩にかけていたタオルで顔を覆えば、抑えることのできなかった嗚咽が漏れた。ほぼ無意識に、もう何も考えたくないと呟く。

「それでもいいと思うよ。何もかも全部忘れて元の生活に戻るんだ。―――――そして、これまでと同じように過ごせばいい。何事もなかったかのように」

ただ、過去を乗り越えることだけ考えればいい。

応接台を挟んで対面していたはずの小嶋が、いつの間にか隣に移動していて。その手が後頭部を撫でてくる。

そうして、今にも倒れ込みそうになっていた自分に気づいた。

「あなたは?」

「え?」

タオルに吸い込まれた声がくぐもった音質で室内に響く。

「乗り越えられましたか?」

震えてはいたものの妙にはっきりと聞こえた己の声に、どうしてか慄いた。人の心の、入ってはならない領域に土足で踏み込んだような気がしたからかもしれない。

ほんの刹那、言葉に詰まったらしい男がふっと息を吐き出すのが分かった。


「―――――乗り越えるつもりはないよ。抱えて生きると、決めたから」


病で娘を亡くしたという小嶋。その悲しみはどれほどのものだっただろう。きっと誰にも、理解できない。

分かるとすれば、それは子供を亡くした親だけで。

でも、彼が先刻言った通り『子供の命を「誰かに奪われた」親の気持ち』というのはまた、全く別の感覚なのだろう。


瞼に刻まれた蒼褪めた母の横顔。瞬きをする度に、蘇る。

誰もが胸を痛めるような事件だったというのに、幸三郎の葬式は実に厳かだった。大きな祭壇に飾られた色とりどりの花々は照明を浴びて、輝いて。

斎場備え付けのモニターに、あの子の画像が映し出される。我が家の庭にしゃがみこんでこちらを見ていた。小さな手に、タンポポの花。カメラマンは母だろう。

庭で摘んだ黄色い花を、手渡そうとしている。

大きな目が日差しをそのまま映しこんで、それはまるで未来を覗き込んでいるかのような希望に満ちていた。幸福をそのまま形にしたかのような、俺の弟。


母はただ、頬を流れ落ちる涙を何度も拭っていた。震えた唇が嗚咽を呑み込み、それでも堪えきれずに大きく胸を鳴らす。その潤んだ目が見つめるのは、小さな棺に張られた淡いブルーの布。見慣れないそれが、どうしても悲しみを呼んだ。白い棺掛けじゃないのは、中に入っているのが子供だから。

葬儀屋さんが持ってきたパンフレットから、母が自身でその生地を選んだ。

可愛いわね、と潰れた声。そして「後はお任せします」と、途切れ途切れにやっとの思いで伝えるのを横で見ていた。

幼い子供に、可愛い棺掛け。本人は、見ることもできないのに。

苦しい。あの中に、本当に幸三郎が入っているのだろうか。


あんな箱の中に。


参列者のために用意されたパイプ椅子に腰かけて、葬儀場に流れるオルゴールの曲に耳を傾ける。そうすることで少しでも気を紛らわせようとした。流行りの歌。訊き馴染みのある曲。隣に座っていた征二郎が、音を追うように小さく歌い始める。


幸ちゃんはこの歌を、知っているだろうか。歌えるだろうか。

いや、違う。幸ちゃんはもう、死んだのだった。歌えない。知っていても―――――、

天井近くに掲げられた遺影に収められた弟の顔は、どこまでも明るい。カメラに向かってにっこりと笑う丸い頬。柔らかな弧を描く双眸。いまにも胸をくすぐるような可愛い声が、聞こえてきそうだった。

その小さな手から伝わる温もりをまだ覚えている。握り返すその、強さも。

いつか忘れるのだろうか。


本当は、母の手を握りたかったし、握ってほしかったけど。

できなかった。だって、俺と母の間には征二郎がいる。どうやったって届かない。


「過去なんて全部、消え去ればいいのに。昨日までのことなんて忘れて、朝目覚めたら、新しい人生が始まるんです。悲しいことなんて何一つ思い出すことはなくて……」鼻を啜る。小嶋はただ黙って頷いた。でも「忘れることなんてできない」と呟いた声が重なる。

息を吸えば、しゃくりあげるような呼吸になった。

「さっきは……。何もかも全部、忘れていいって言ったのに」

「うん。そうだね」


震える指を握りしめる。すると、そのときポケットに入れていたスマホが振動した。着信だ。メッセージでのやり取りが主流の今、電話をかけてくる人は少ない。画面を確認するまでもなく、きっと母からだろうと思った。


『芳くん? 今どこにいるの?』


耳元に響く柔くも焦りの感じられる声に、こんな状況にも関わらず安堵感を得られるのが不思議だった。

返事をしようと口を開いてから、躊躇う。窺うようにこちらを見ていた小嶋は、電話の相手が誰なのか察したらしい。口元に微笑を刷く。

「―――――知り合いのとこ……。ちょっと、用事が、あって」

不自然に詰まった声に気づくだろうか。

『知り合いって誰?』不信感を抱いた様子の母が、いぶかし気に問うた。心配されている。


「帰ってから話す。もう、帰るから」

『何時くらいになる? ご飯、用意しておくから』

「まだもうちょっとかかる。電車に乗るとき、また電話する……、」

平静を装うとして全身が強張る。咳払いをして「じゃぁね」と言ったものの、不自然に思われていないか気になった。

『分かった。気を付けてね』


あと、遅くなるならちゃんと連絡しなさいと釘を刺されて頷く。電話を切るなり「そういや未成年だもんな。遅くまで悪かったな」と言われて首を振る。「俺が頼んだことなので」と返せば、心の中を覗き込むような強い眼差しを湛えた小嶋が「これは多分、お互いに必要なことだったんだよ」と言った。そして、赤ん坊を寝かしつけるがごとく、俺の背をぽんぽんと叩く。

「恐怖を和らげることができる方法はただ一つ」


「知ることだ。得体の知れないモノ、人、事象……それこそが本当に恐ろしい。だから、そういったものに立ち向かうために必要なのは、知ることだ。できるのは、それしかない」


帰ったらちゃんと話してみるべきだと言われて、頷く。

誰と? とは聞かなかった。もう分かっていたから


**


勇気を出す、というのは言葉にすれば簡単だけれど。いざ、実行しようとするとなかなか踏ん切りがつかない。真実を知ることが本当に必要なのか分からなくなってくる。それでもやるべきだと思ったのは、満の存在があったからだ。彼女の家の玄関に貼られた落書きが忘れられない。

ああいった誹謗中傷を、これまでの間どれほど耳にし、目にしてきたのだろう。

そしてそれを、当たり前のことだと、いっそもっと傷つけばいいと思ってきた自分は一体、何なのだろう。


本当の怪物は誰で、罰を受けるべきは誰なのか。


「話がある」と告げた俺の顔を、母はじっと見つめた。こちらを見上げた大きな瞳に影が差す。暗い眼差しだと思ったと同時に、その陰が、虹彩に映り込んだ自分の顔だと気づいた。

「分かった」と神妙に頷いたその人は、一瞬で覚悟を決めたわけではなく、まるでこの日が来ることを理解していたかのような潔さで。てっきり拒絶されると思い込んでいたので、拍子抜けする。

ただ、立ち話で済ませるわけにはいかない。向き合ってじっくりと話す必要があることはよくわかっていた。

そうなると、互いに時間を作る必要がある。

母の仕事が休みで征二郎のいないときを狙って話をするとなると一週間は先になりそうだった。了承したのは、その間に自分も考えを整理する必要があると感じたから。

しばらく学校を休みたいと言えば、困惑した様子もあったけれど最終的には同意してくれた。

翌朝すぐに、母が学校へ電話を入れて担任と話をした。その声を聞いていたけれど、学内でのトラブルではないと前置きしてから、体調不良ということで了解を得たようだ。運よく、テスト前ではなかったことも幸いした。復学した際には補習をしてくれるようだ。

「良い先生ね」と言われて、その人のことをよく知りもしないのに頷く。生徒の今後を考えて、休んでいた間遅れた分の勉強を補う約束をしてくれるなんて。聖職とはいうけれど、他人のために尽くすことができるのはなぜなんだろう。今度聞いてみようと思う。


そうしてこの数日の間に俺は。

―――――父へ会いに行くことにしたのだった。


「久しぶりだな」

実に数年ぶりの再会だ。相変わらず雄々しい印象与える人で、いつも穏やかで優しかった満の父親とは正反対かもしれないと、思う。

「元気だった?」と訊けば「ああ」と一つ頷いて、ぽんと頭を撫でられる。「それはお父さんのセリフだな」と。

部屋の中に招かれて、置かれているものが異常に少ないことに面食らった。クローゼットの中に仕舞っているのかもしれないが、洋服ダンスすらない。重ねられた衣装ケースがあるだけだ。

室内を見回していることに気づいた父が笑う。何にもないだろ、と。頷けば、

「一人だからな。必要なものなんでこのくらいだよ」と、笑みを深めた。


ふと、考える。―――――この人、こんなに笑う人だったっけ?


「何か飲むか? サイダーがあるんだよ。お前、好きだったよな」

単身用の小さな冷蔵庫を覗き込んだ父に問われて、断ろうとしてからはっとする。慌てて「飲みたい」と返せば、振り返った父は嬉しそうな顔をした。

親父は炭酸を好まない。昔からそうだ。でも、冷蔵庫の中には数本の炭酸飲料が並んでいた。満杯のそれは開栓されておらず、飲んだ形跡もない。……ように見えた。

だとすれば、そのジュースが俺のために用意されたものだと分かる。

いつ会うかも分からない、それどころか家に来るのかさえ知れない息子のために飲み物を用意している。


そんな優しい父が、ある日、家を出て行った。


確か、夏真っ盛りで。空が抜けるように青くて、噎せ返るほどに気温の高い日だった。

ベランダに下げた風鈴が優雅に音をたてていたことすら、はっきりと思い出せる。翻った風鈴の短冊が、部屋の中に小さな影を描く。プリズムみたいに、ひらひらと。

関係に亀裂が入っていた両親の間では既に結論が出ていたのだろう。その日、二人は一言も言葉を交わさず、だけど不穏な様子もなく喧嘩すらしなかった。

普段通りの朝を迎え、いつもと同じように朝食をとって。流しっぱなしのテレビを眺めて、タイミングを見計らったかのように立ち上がった父は、ボストンバック一つだけを持ってこちらを見る。

「またな」

ぽつんと、床に落としたみたいな挨拶。滑らかな床を転がったその声を受け取ったのは、俺だけだ。

食事に時間がかかる征二郎は寝ぼけた様子で、フォークを持ったままこっくりと船を漕いでいる。母は、キッチンの奥に引っ込んだまま顔も見せない。

慌てて父の背を追ってみたところで、間に合わなかった。俺が見たのは、閉じていく玄関の扉の隙間に除いたジャケットの裾だけ。裸足のまま土間に下りたけれど、伸ばした指先が触れることもなく、カチャンと軽い音をたてて扉は閉まった。


開ければ良かったのに、もう一度。

でも、できなかった。去っていく父親を止める術を持たなかったから。


家具も家電も何一つ持ち出さなかったこの人は。たった一人で暮らし始めたとき、何を思ったのだろう。

知っている限り、親父は何度か住まいを変えているけれど。

未だに大きな家具を購入していないところからすると、どこにも住み着く気がないようにも見える。

「親父はさ、再婚する気ないの?」

頭に浮かんだ疑問をそのまま口にする。

サイダーの瓶を持った父が、虚を突かれたような顔をした。しまった、と思ったけれど、一度口にした言葉は戻らない。それなら、回答を待つしかないだろう。

「……どうした? 急に」

我に返った様子のその人が、ふっとため息を吐くみたいに微笑する。はい、と手渡されたサイダーを受け取って、椅子に座った。対面に腰かけた父が、様子を窺うように俺の一挙手一投足を見守っている。

少し、居心地が悪い。

顔を合わせるのは数か月ぶりだ。前は少なくとも1か月に一度は会っていたのに。だんだんと会わない期間のほうが長くなっていった。

父は頻繁に連絡をくれたけれど、最近は返事をすることさえ億劫になっていたのだ。

だっていつも同じ会話を繰り返すだけで、話が広がらない。会っていないから当然かもしれなかった。共通の話題もない。通話することさえなくなって、メールで短い言葉を交わすだけ。


『元気か?』

『うん、元気』


『今日は何してた?』

『学校だよ』


『お母さんや征二郎は? 元気か?』

『うん』


堂々巡りの会話。元気でいてさえくれればいい。互いにそう思っていたのがよく分かる。

だからこの人は知らない。成長して、なぜか炭酸を苦手だと感じるようになった息子はもう、長いことサイダーを飲んでいないって。大きな理由があるわけではない。ただ単に好みが変わっただけ。母も「芳くんは最近、炭酸飲まなくなったわね」と笑っていたくらいだ。大したことじゃない。だから言えばいい。

フルーツジュースのほうがいいって。


なのに。


あまりに些細なことだ。気にしもしないようなことなのに、なぜか大きな隔たりとして感じられる。この数年、父とは一緒にいなかった時間が存在していて、その内、一緒に過ごした時間を追い越してしまうだろう。もう二度と、一緒に暮らすことはない。


「征二郎は、オレンジジュースが好きなんだ。小さい頃からそうだったよね」

何から切り出せばいいか分からず、何となく伝えれば父は「そうか」と答えた。興味なさそうに。

いや、違う。むしろどこか冷淡な返事ですらあったように思う。

「?」

さっと背中を撫でるように落ちた冷や汗に、手の平に落ちたサイダーの水滴が答える。―――――冷蔵庫には、俺の好きなサイダーだけ。

そのときなぜか、テレビ台の端に並んだ家族写真が目に留まる。三つの写真立ての内の一つは幸三郎。後の二枚は家族で撮ったものだ。何ら不思議なものではない。だけど。その二つの写真立てには征二郎が写っていない。

一枚はお袋と俺、もう一枚は親父と俺。


征二郎は?


「この、写真」

「ん?」

指差せば、親父は口の端を緩ませた。いい写真だろうと。

お袋と俺が写っている写真は、小学校の入学式に撮ったもので。経緯はよく覚えていないが、そこに並べと言われて指示通りにそうしただけだ。写真を撮ったのは父だった。

征二郎はいなかった。祖母の家か、保育園だったかもしれない。


親父と二人で写っている写真は、水族館へ遊びに行ったときのもの。このとき、征二郎と幸三郎、母は家にいたはず。生まれたばかりだった幸三郎にはまだ遠出は無理だと、母が留守番を決めて、征二郎は母と家に居ることを選んだ。


あえて、征二郎だけを置き去りにしたわけではない。滅多にないけど、たまにはそういう日もある。

だけど、父の家に並ぶことを許された写真は、征二郎の写っていないものだけのようだ。あえてこの写真を選んで、ここに飾った気がした。

つまり。


「親父は何で家を出ていったの?」


口をついて出た言葉は、長年俺の頭に渦巻いていた疑問で。これは別に問いただしたかったわけではなく、何となく、いつか答え合わせをしたいと思っていたものだ。

幸三郎という最愛を亡くした家庭内で居場所を失くした。だから父は家を出たのだと、そう思い込んでいた。でも、本当にそうだったのだろうか。いま、新たな疑問が生まれる。

胸の奥をぐるぐるとかき回される気分で、己の相貌が色を失っているだろうことを察した。

指先がしびれる。全身の血が、足元に流れ落ちて消えていく。


「――――――征二郎は、幸三郎に何を、したの?」


知ってるんでしょう? その言葉が、熱の塊となって喉を塞ぐ。

唇の震えを抑えることが難しい。ひゅっと大きく息を吸い込んだ父の視線が、俺の顔を射貫く。

そして確かにこう言った。


なぜ、それを。











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