14
赤城と大衆食堂で食事をしたとき。
昼時の店内は大勢の客で賑わっていた。常連と思しき作業着を纏った二人組の中年男性が、店の主人にテレビのチャンネルを変えていいかと訊く。はいはいとおざなりに答えた店員が、カウンターに置いていたリモコンを手に取って、ボタンを操作した。
天井近くに吊るされた架台に載った小さなテレビの画面が、何度かの暗転を挟んで切り替わる。
いつもそのチャンネルにしているのか、昼間によくやっているサスペンスドラマが始まった。
見るともなしに眺めていると「若い子はこんなのつまらないわよねぇ」と揶揄うように声をかけられる。
顔を向ければ、隣のテーブルの注文を取っていた女性店員が、困ったように笑った。
あきらかに自分へ向けられただろう言葉に「いえ」と愛想笑いをすれば、「つまらないから別のチャンネルにしろとは言えないだろ」と、赤城がくくっと喉の奥を鳴らす。
さすがに冗談だと分かる悪態に、周囲の客が「そりゃそうだ」とどっと沸いた。
そのとき。
唐突に『臨時ニュースです』と、ドラマが打ち切られニュース映像が差し込まれる。険しい顔をしたアナウンサーが訥々と原稿を読み上げる姿に、店内の客たちの視線が集中した。
小嶋もやはり、記者魂が疼くのかテレビを見ている。
その横顔を視界の隅に置いて、事件のあらましを耳で辿った。それは、ある組織的横領事件の関係者とみられる男が、九州のホテルで遺体となって発見されたというものだった。現場の状況から、どうやら自死と思われるらしいと。
主犯は既に逮捕されているが、現在も捜査中の事件で。幾人もの関係者が事情聴取を受けているという話だった。
そんな中、行方知れずとなり指名手配されていた容疑者の一人が、逃げた先で極端な選択をしたのだ。
「……あ~、死んじゃったんだねぇ。捕まるよりも死んだほうがいいのかね」
近くの席に座っている男性の、ぽつりと落ちた呟きが耳に入る。
「捕まりそうだから怖くなったんじゃない?」と、その声に答えたのは若い女性だった。
「そういうもん? 死ぬよりも怖いもんかね。捕まったほうがマシでしょ」
「うーん。有罪になったらどのくらいの刑期なのかなぁ。それにもよるんじゃない? 早く出られるなら捕まったほうがいいって思えるかもだけど。何十年も入ることになったら、それこそ怖いじゃない」
「いやいや、入るとしても数年でしょ。場合によっては入らないかもしれないし」
いかにも法律なんて詳しく知らないだろう、事件には何の関係もない人たちが訳知り顔で、盛り上がっている。真剣な顔つきだというのに、どこか楽し気なのは何でなのだろう。
自身が穿った見方をしているだけなのか
不意に赤城が「ああいう事件で死ぬ奴っていうのはさ、」と、運ばれてきたとんかつ定食を覗き込みながら言う。
「自分が可愛くてそうするんじゃないんだよ」
みそ汁うまそう。豆腐もわかめもたくさんだ。なんて、右から左から器の中を観察している。
隣の小嶋は茶を啜りながら、忙しない赤城を面白そうに眺めていた。
「誰かを庇ってるんだ」
捕まったら、その誰かを売ることになる。逮捕されたとして、沈黙することも許されているけれど、取り調べに耐えられるとは限らない。目の前に証拠を突き付けられたなら。もうどうにもならないと観念したなら。きっと、喋ってしまう。永遠に口を噤むことなんてできない。
「人間だからね。追い込まれたらどうしたってあらいざらい喋っちまう。罪の意識からは逃れたくなるもんだよ」
「だから、ね。いっそ喋らなくて済む方法を選ぶ」
とんかつに齧り付きながら、さして興味もなさそうに告げられた見解を、ただ聞き流した。そういうものなのかと。
あのとき小嶋は少し、ほんの刹那、こちらに視線を向けた。まるで顔色を読むように。
「タオル、使いな」
濡れ鼠と化した自分に渡されたのは、柔軟剤が香るフェイスタオルだった。
初めはどこか屋根のあるところを探していたけれど、びしょぬれのままだとどこに入っても迷惑がかかる。身体を拭くものも持っていない。―――――それなら、と。ちょっと歩くが構わないかという小嶋の問いに頷けば、近くに彼の構えている事務所があるという。
先日訪ねたのとは違う場所だ。
隠れ家というわけではないらしいが、あまり公にはしていないという話だった。こういう、誰にも知られていない所がないと気が休まらないのだと。
確かに、前回お邪魔した事務所はモノがあふれていて雑然とした雰囲気だったけれど、ここはロッカーと応接台にソファ、ウッドデスクと椅子が一脚という必要最低限のものしか置かれていない印象である。
「風邪をひくといけないから着替えなさい」
ロッカーから取り出したジャージをソファに置いて、小嶋自身も着ていたものを脱ぎだした。
ぼんやり佇んでいると、扉にかかった鏡越しにもう一度「早く、着替えて」と重ねて指示される。
重たい腕でのろのろとタオルを頭に置いて水分を拭きとっていった。なのに、頬が濡れていく。己の意志とは関係なく涙が零れていくのに気づいて、頭を覆ったままタオルの端で顔を包み込んだ。
何が悲しいのか、もうよく分からない。
「……着替えたら、少し、話をしよう」
しんと静まり返った無機質な事務所に、小嶋の柔らかな声が響く。
「……そもそも、征二郎君が犯人だというのはあまりにも想像に過ぎると思わない?」
体格はあまり変わらないというのに、小嶋のジャージは少し大きかった。泊まり込むことも多いし、原稿を書くときは楽な恰好のほうがいいから何枚か着替えを用意しているんだと、その人は笑う。
たった数日共に過ごしただけなのに。朗らかな人柄だと思えるのは、どこまでも優しいだからだ。その一方で、小嶋が真剣な顔をしているときは何となく威圧感を感じる。責任のある仕事をしているからかもしれない。
失敗は許されないのだろう。
今や、名の知れたライターなのだ。彼の書く記事は、他人の人生を左右する。大勢の人が、彼の動向を注視しているといっていい。
その影響力は計り知れない。幸三郎の記事を書いたときよりもずっと、大きい。
「征二郎君は当時、五歳かな? できると思う? そんな小さな子に」
「……わかりません」
でも、と反論しようとして声が震えた。小嶋が用意してくれたコップを握る両手が震える。ペットボトルに入っていた緑茶を、コップに移し替え、わざわざレンジで温めてくれたのだ。『コップなんてありませんよ』と言っていた事務員さんの声が蘇る。
あのときは、こんなことになるなんて微塵も思っていなかった。
「赤城さんが、小さな男の子を見たって」
「ああ……、うん」
「鈴の音がしてたって言ってましたよね?」
「うん、そうだね」
思い出したことがある。
あの頃、征二郎がいつも持ち歩いていたフィギュアだ。日曜日の朝、放送されていた戦隊ものの登場人物を模したものだった。黄色の戦闘衣装を着ていたことだけははっきりと覚えている。それは、征二郎の手の平よりも少しだけ大きかったはずだ。
あの子はそれをひどく気に入っていて、肌身離さず持ち歩いていた。それこそ、寝るときまでベッドに持ち込んでいたほどに。
けれど、幼い子がそうであるように何度かどこかに置き忘れることがあった。
いずれも、母か父、あるいは俺が気づいて紛失するには至らなかったものの。いつかは失くしてしまうのではないかと、正直気が気ではなかった。大切なものを失くしたとなれば、征二郎はきっと悲しむ。そして、癇癪を起した弟は、手が付けられないほどであったから。
そう。
あの子は確かに、昔はそういう気質だったのだ。今でこそ、落ち着いていて、怒ることなど滅多にないけれど。
―――――ともかく。征二郎と共にまだ幼かった小学生の俺は兄として、心配事の解決策を提示した。
フィギュアを落としたなら、すぐにそうと分かるよう音が鳴ればいいんじゃないかと。
いかにも小学生が考えつきそうな浅知恵だが、己ながら良い案だと思った。紐のついた鈴をフィギュアに巻き付ければ、万事解決だ。
『良い考えね!』と、一も二もなく賛成したのは、母だった。そんなのうまくいわけがないという顔をしていたのは父で。意気揚々とフィギアに鈴のついた紐を巻き付けたのは、征二郎だった。セロハンテープで補強したのは俺だ。
歩く度、ちりんちりんと音がして。楽しそうだった。
「鈴、ね」小嶋は、どこか納得したかのように、ふっと息を吐き出した。彼がもし、事前に赤城の話を聞いていたなら、きっと音の正体を探ったはずだ。でもきっと、答えは見つからなかっただろう。フィギュアにつけた鈴のことなど、家族しか知らない。
「赤城さんが、突然現れた男の子を幸三郎と勘違いしたのも無理はないです。普通、三歳と五歳なら体格が全然違うから見間違うはずはない。……だけど、征二郎はとても華奢だったから……、」
他人からすれば、到底五歳には見えなかったはずだ。
なら、三歳に見えるかと言えば、それは怪しいけれど。
しかし、だ。よほどあの事件に興味を寄せていなければ、被害者の年齢や体格について熟考することなどないだろう。ましてや、あの時刻、あの場所に幸三郎と年齢の近い、似た顔の子がいたとは思わなかったはず。だから、赤城は思い込んだ。
きつねに揶揄われた。あるいは、幸三郎の幽霊を見たのだと。
「……いや。でも、ね。そもそも君の話には無理があるようには思わない? 今の段階ではやっぱり、一番怪しいのはあの人だよね。だって、ドライブレコーダーにも映像が残っているし」
神社に続く階段を登る幸三郎と、その後、幸三郎の後を追うように階段を登った満の父親。
その映像は、テレビで何度も放映されていた。
「早送り、されてましたよね?」
何度も、何度も繰り返し、執拗に映し出された男の後ろ姿を覚えている。記憶の中のその人が、普通の人間とは思えないほどに速く階段を駆け上がるのは、ワイドショーで流れた映像が、早送りされていたからだ。
早送りされては、巻き戻され。通常の速さで再生される。
不自然な編集ではあるが、そうしなければならなかった。
なぜなら、みちの父親が階段を登ったのが、幸三郎のすぐ後ではないからだ。数分、間が空いていた。ワイドショーという限られた放送時間内で映像を流すために、倍速にする必要があった。
要するに、おじさんが幸三郎の後を追っていた。というのは、ただの憶測でしかないのである。
そもそも、幸三郎の姿が見えていたかどうかさえ疑わしい。
「あの神社、近所の子供たちの遊び場だったんです」
膝に重ねた指が震えている。温かい飲み物が入ったコップを握りしめても、震えが収まらない。
「俺や征二郎、幸三郎。あと、満」
他にも何人かの子供たちで、よく遊んだ。あの長い階段で、じゃんけんをしては童謡を口ずさんで登ったり、下りたり。誰が一番早く登れるか競争をしたり、高い場所から、履いている靴を放ってその距離を測ったり。
「幸三郎が見つかった池のほとりでもよく遊んだんです。バッタやトンボを捕まえたり、池に石を投げて距離を競ったりして」
「……へぇ。何だか昭和みたいだね。懐かしい気がするよ」
ふふ、と小嶋が微笑む。それから、一つ間が空いた。呼吸を整えるのに、息が上がる。
「あの池には、本当は―――――階段を使わなくても行けるんです」
近所に住まう子供たちの秘密だった。けれどきっと、大人たちも知っていた。誰もそのことに言及しなかったのはきっと、事件とは関係ないと思われていたからだ。
「体格の小さな子しか通れない道があって。当時の俺はもうそこを抜けることはできなかったけど、征二郎くらいなら通れたはずなんです」
境内へと続く階段の周辺は、緩やかな丘になっていて、その斜面にはいろいろな種類のつつじが植えられていた。春には色とりどりの花を咲かせて見ごたえがあったから、周辺に家を構えている人たちは『つつじの神社』とも呼んで親しんだ。
剪定されていたけれど、大きく成長していたつつじは密集して生えており、地面が見えないほどであった。しかし、つつじとつつじの間には隙間があり、小さな子であれば入り込むことができる。
だから、近所の子供たちはそこを通り抜けて神社に入ることがあった。
迷路みたいで、楽しかったから。
つつじの中で道に迷っても、登っていけば必ず、境内のどこかに出られる。
「かくれんぼするときだって、小学校低学年まではよく、つつじの中に隠れてた」
幸三郎に何かあったと思われる時間帯、確かに満の父親はそこにいたかもしれない。けれど、生い茂った草に隠れた子供の姿は見えなかった。
あるいは。そのときすでに、幸三郎は池に沈んでいたのだろう。
「幸三郎が階段を登って……、そのとき、征二郎はつつじの中を通って境内に入ったんです」誰にも気づかれずに。
いや、違う。すなわち、赤城だけが唯一の目撃者だったのだ。
彼は、小さな男の子が突然現れて、気づいたらいなくなっていたような話をしていた。けれど、多分そうではない。その子は、来た道を戻ったのではなくつつじの下に潜り込んだのだ。消えたのではなく、隠れた。
「階段を登るよりもずっと早く、神社の中に入れます」
小嶋はただ黙って俺の話を聞いていた。
ため池のほとりに佇む幸三郎の姿が目に浮かぶ。あの子があの場所に行った、正確な理由は分からない。ただの冒険心みたいなものか。一人で家を出て神社に向かい、俺や征二郎と遊んでいたときと同じように、ただ階段を登ったのだ。
現に、ドライブレコーダーに映り込んだ幸三郎は。
ステップを踏むみたいに階段を登っていた。一人で遊んでいたのだろう。
そうして登っていった先、境内の裏にため池があった。
「―――――それでも。それでも、だよ。君の言う通り、あの場所に幸三郎ちゃんと征二郎くんがいたとして。……当時まだ五歳だった征二郎くんに殺意があったとは思えない。一緒に遊んでいて、幸三郎ちゃんが池に落ちてしまったのかも」
だとしたら、それは事故なんじゃない?
小嶋の静かな声に問われて言葉に詰まる。確かにそうだ。だけど、もしもそうなら幸三郎が服を脱がされていた理由が見つからない。
「君はもう既に、征二郎くんが犯人だと思い込んでいる。―――――思い込みは危険だよ?」
「……違います」
「え?」
「多分、思い込みなんかじゃない」
だって、想像できてしまう。
幸三郎から無理やり服を剥ぎ取って、それを、池に投げ捨てる征二郎の姿が。Tシャツもインナーも、靴も。泣いて嫌がる幸三郎を押さえつけて、無理やり。
「征二郎は何もしなくて良かった。ただ、幸三郎の服を池に投げるだけで、それだけで」
あの日、幸三郎は父に買ってもらった長袖のTシャツを着ていた。とても気に入っていたので、朝、別の服を着せてもいつの間にかそのTシャツに着替えていることもあって。
『自分で、箪笥から出したのね』と、吹き出すように笑った母の声が耳の奥で蘇る。夕食のとき、そんな幸三郎の話を聞いた父が『そんなに気に入っているなら色違い、もう一枚買えば良かったかな?』と言った。
色違いじゃだめなのよ。とくぎを刺したのは、そのTシャツが赤色だったからだ。幸三郎の憧れていたヒーローのメンバーカラーと同じ色。それじゃなきゃ駄目だった。
大切なTシャツ。大好きなもの。
だから幸三郎は、池に投げ込まれたTシャツを追った。ただ、追いかけた。
殺意はなかった?
いや、違う。だって、そうなら。
幸三郎の靴に関してはどう説明する? あれが、あんな所―――――、床下収納に隠されていたのはどう考えてもおかしい。
あの子が遺体となって発見された後、警察は当然、池の底まで攫った。幸三郎の身に着けていたものを全て探し出すために。けれど、池の底は深く、汚泥もたまっており、遺留品の捜索には困難を極めたらしい。そして、とうとう見つけられなかったと、両親はそういう報告を受けたはずだ。
なのに結局、見つけられなかったはずの靴は、母の手元にあった。
要するに。警察にも申し出ることなく、意図的に隠していたのだ。では、現場になかったものを、誰が、いつ、どこで見つけたのか。
そうだ。どこで?
―――――恐らく、自宅だ。
あの靴には、砂がついていたものの水に濡れた形跡はなかった。泥がついていたなら、落としても染みになる。けれど、そんな汚れはついておらず、洗い落としたわけでもなさそうだった。
例えば、幸三郎が初めから片方の靴しか履いておらず、元々自宅に置いてあったものなら汚れるはずはない。が、きちんと靴を履いて歩いているあの子の姿が、映像にも残っている。
ということは。
征二郎は、池に落ちる前のあの子から直に奪った靴を、持ち帰ったのだ。
だったら、どうして幸三郎が池に落ちたことを誰も知らない?
それは、―――――征二郎が、黙っていたからだ。
弟が池に落ちたのに、何事もなかったかのような顔をして家に帰ってきたうえに、助けも求めなかった。大人たちが幸三郎を捜しまわるのを見ていたはずなのに、知らぬふりをして。
退屈そうに。つまらなさそうに。DVDが見たい、と言った無邪気な声を。どうして今、思い出すんだろう。
そこに、悪意がなかったと、言えるだろうか。
故意ではなかったと。
何の意図もなかったと。そう、言えるだろうか。




