第9話 決死の逃亡
マサルは、変わり果てた姿の賢治を見た。牛の顔となった賢治は、虚ろな瞳でマサルを見て来る。
「俺を殺す気か、賢治!」
すると賢治は黄色い歯を剥き出して笑った。
「牛頭馬頭様の命令だからな!」
「なぜだ。なぜそんなことが出来るんだ!ついさっきまで一緒に遊んでた友達じゃないか!」
「じゃあ! お前が俺の立場だったら出来るのか!」
賢治は近くにあった椅子を蹴飛ばす。
「俺の命がかかってんだ! どうして自分の命を犠牲にしてお前を助けるんだ!」
牛男は黄色い歯を剥いた。
「お前と俺とは、ただの友達だろ?」
「賢治、貴様!」
「それにな、今は足を洗ったつもりでも、お前が過去に犯した罪が消えるわけじゃあない。……お前は受け子として働いた経歴があるからな」
「それじゃ、美希だけでも逃してくれ! 美希は何も悪いことをしていないだろう!」
「それを決めるのは俺たちじゃない。牛頭馬頭様が決めることだ」
「話のわからない奴め!」
マサルは振り返って美希を見た。
「逃げろ、美希!」
「駄目よ! マサルを置いて行けない!」
「馬鹿なことを言うな美希!」
マサルは息を荒げながら叫んだ。
「ここは、地獄の門と繋がっているんだぞ!」
美希の頬に涙が伝った。美希の顔が悲しみで崩れる。
「頼む……逃げてくれ美希……こんな化け物から俺……お前を守れる自信がねえ……」
すると美希が悲しみを押し殺してマサルに背を向けた。走り出すその小さな背中を、マサルは静かに見送った。
「どこ見てんだ、マサルぅ!」
「うおおっ!」
賢治が斧で斬りかかって来た。
マサルは飛び退いてそれを躱すと、数歩後ろへ下がった。
賢治が喉をかきむしり、獣の咆哮を上げた。
「ハハハハハ! マサル! 大人しく俺に捕まれ!」
「賢治!お前人の心を捨てたのか!」
だが、牛男と化した賢治は、そんな言葉など届かない。手に握った斧を振り回してくる。
「マサル……お前は俺のことをいつも見下してた……女も出来ねえ、ヘタレ野郎だってな!」
「違げえよ! 俺はそんなこと思ってねえ!」
「言ってなくても俺にはわかってた。お前の態度に滲み出ていたんだ!」
賢治は涎を振りまきながら、マサルの首を狙って斧を振り回す。
「死ね! お前を地獄に突き落としてやる」
その時、マサルの目の前に、眩しい光が広がった。
ガン!
「ああっ!」
強烈な衝撃によって、賢治が吹き飛ばされた。
「賢治っ!?」
マサルが顔を上げて前を見ると、車の中から美希が顔を出した。
「マサル! 乗って!」
美希が熊岡の高級車で賢治を跳ね飛ばしたのだ。
「お前、さっさと逃げりゃいいのによ」
マサルは助手席に飛び乗った。
「文句なら後で言って! 行くよ!」
「ああ、ありがとよ!」
美希はアクセルをべた踏みする。
ギャギャギャ!
タイヤが空転し、車が横にスライドしていく。
「わわわわ! 美希! お前、運転!」
「うん、免許は持ってる!」
「あああ! 俺はお前に殺される!」
急に車がグリップを取り戻し、ロケットのように発車した。
「わあああ!」
真っ暗闇の中、ヘッドライトに照らされた木々が、目の前に迫ってくる。
「ああ! ぶつかる!」
「きゃあ!」
美希が急ブレーキを踏む。
「ああっ! なんで!」
マサルが美希の顔を見ると、顔面蒼白だ。また、車が急発進する。
「おい!美希!急にどうした!」
うなるエンジンに、マサルの顔が青ざめる。
「……体が言うことをきかないのよ……ああっ……」
「おい美希!」
美希の声がだんだんと遠くなっていく。美希は木に衝突しそうになる前に、かろうじてハンドルを切った。
「あ、危ないっ!」
美希のまぶたが重そうに落ちかけ、それでも必死にハンドルを握ろうとしていた。だが、やがてその手からすべての力が抜けた。
「美希どうした?!」
マサルが美希の肩を揺すると、彼女はグッタリしている。
「美希が気絶した!」
美希はシートベルトに固定されたまま、骨のない体のように揺れに翻弄されていた。
「どうなってるんだっ!」
マサルは助手席から腕を伸ばして、美希からハンドルを奪い取った。そしてサイドブレーキを引きながら、ハンドルを切る。
ギャギャギャ……!
車がドリフトしながら大木への衝突を回避する。激しい揺さぶりに、マサルはシートに体を押しつけられる。
「うおおおお! なんだこの挙動は!」
車は、暴れ馬のように制御不能となっていた。
「美希! おい! アクセルから足を離せ!」
だが、美希からの返事はない。しかもアクセルを踏んだままだ。ふと、窓の外を見ると、馬女が両手を広げ、手の平をこちらに向けながら睨んでいる。
「くそ……美希はあいつに操られているのか!」
マサルは必死でハンドルをさばくが、いつまでもこんな曲芸を続けられるはずがなかった。
「エンジンは? エンジンは切れないのか!!」
マサルはエンジン停止ボタンを押してみたが、エンジンが止まることは無かった。
「どうなってんだ……3回押すか、長押ししたら停まるはずだろ! あ! あー、危ねえ!」
目の前にまた、大木が現れた。マサルが急ハンドルを切ると車が横滑りする。そしてそのまま砂利道の斜面へと突入した。
「おおおお!」
2人を乗せた車は、砂利道の下り坂を猛スピードで走った。エンジン音が唸り声を上げる。
その時、車を停めようと牛女が飛び出してきた。
「ああああ! どけえ!」
すると牛女は、フロントガラスの前へ飛び上って来たのだ。
「ひいいいっ! なんのつもりだお前!」
車もエンジンは唸り声をあげ、猛スピードで砂利道を下っていく。左右の景色がとんでもない速さで流れていった。牛女が歯を剥きながらマサルの名を呼ぶ。マサルは悲痛な顔で助手席からハンドルを握った。
「あああっ! 止まってくれ!」
目の前の牛女が、右腕を振り上げてフロントガラスに振り下ろす。蜘蛛の巣状に、亀裂が走った。
「前が見えねえだろ、バカ!」
車は舗装路へと飛び出した。車のスピードが止まらない。
顔を上げると、牛女がまた、拳を振り上げてフロントガラスを叩いた。ガラスが拳の形に割れて、崩れたガラスの破片が座席へと零れ落ちてくる。牛女が黄色い歯を剥いて大きな口を開けた。
「おのれぇ! 逃がさんぞ!」
「うわわあああ!」
マサルは叫びながら、もう一度、サイドブレーキを引いた。その途端、車が左右に蛇行するように揺れ始め、そのままキュルキュルと回転した。
「あああーっ!」
車はガードレールの隙間へ頭から突っ込んで森の斜面へ転落し、そのまま大きな岩へ衝突した。
「ブモオオ!」
岩と車は激しく衝突し、牛女は岩と車に圧殺されて、木っ端みじんに破裂した。肉が千切れ飛び、血がフロントガラスを染めて、そのまま割れ飛んだ。すべてのエアバックが作動する。そして車は岩ごと斜面の下へ落下した。千切れ跳んだ牛女の首が、美希の腹へ落ちて、大きな口を開けて噛みつく。
マサルは牛女の首を掴んで引き剥がそうと腕を伸ばすと、牛女の首が血で濡れた目でマサルを睨みつけた。
「覚えておれ!」
その瞬間、車が地面へドン!と衝突した。
凄まじい衝撃とともに車は横転し、天地がひっくり返った。そして、気が付いた時にはもう、マサルも美希も、シートベルトによって宙吊りになっていた。
「あ痛っ!」
マサルはよろけながらシートベルトを外して、しぼんだエアバックを腕で押し退けた。車のボンネットから、猛烈な水蒸気が上がっている。チョロチョロと、何か液状のものが漏れ始めていた。
「ヤバい……爆発するんじゃねえだろうな……」
マサルは顔を青くしながら、美希の元へと這っていく。そして美希のシートベルトを外すと、彼女の体がマサルの腕の中へドサリと落ちてきた。
「うわっ!」
その時、牛女の生首が一緒に落ちて来たのだ。マサルはそれを後部座席へと投げ捨てた。そして気を失っている美希の体を抱きかかえると、そのまま窓から外へ押し出す。
マサルは全身が汗でびっしょりだった。
マサルは助手席側から這うように外へ出ると、運転席側へと回って、美希を引っ張り出した。
マサルは美希を抱きかかえるとそのまま森の大木まで運んで、そのまま倒れるようにしゃがみこんだ。
「はあ、はあ……」
目の前の車が水蒸気を上げている。
その蒸気の影から赤い着物を着た女が現れた。マサルは目を剥いてその女を見た。
「有佳子!」
すると有佳子は斧を引き摺りながら、マサルの前まで歩いてきた。
マサルは額の汗を袖口で拭った。




