第2話 シンディ刺繍
大学四年の就職活動では、何社もの商社を回った。
総合商社は学生の人気企業ランキングの上位に並んでいる狭き門だ。体育会での活躍実績のような分かりやすい「売り」のない榊のような普通の学生にとっては、記念受験になる場合が圧倒的に多い。総合商社を「第一希望」ということさえ憚られた。
それでも――
世界を相手に新しい価値を創造する。
若いうちから仕事を任され海外へ出る。
会社案内に並ぶそんな言葉に、心が熱くなった。
色鮮やかな港湾施設の写真。巨大な鉱山を背景にヘルメット姿で並ぶ社員たち。見たこともない外国の街角で、現地の人々と笑顔で握手する若い駐在員。
榊は取り寄せた会社案内を、自室の机の上に何冊も積み重ねていた。
ページをめくるたび、まだ見ぬ世界が自分の前に広がっていくような気がした。
就職活動は、大学の就職課にある名簿でOBを探し、電話をするところから始めた。
就職課の片隅に置かれた分厚い名簿を開き、商社の名前を探す。見つけた卒業生の氏名と勤務先を手帳に書き写すと、今度は電話をかける。
受話器を握った手に汗がにじんだ。
何度も頭の中で練習した挨拶を口にする。
「突然のお電話で失礼いたします。私、大学の後輩にあたる榊と申しますが……」
相手が不在なら、時間を改めてかけ直す。ようやく本人につながっても、忙しいからと断られることもあった。
それでも、何人かは話を聞いてくれた。
リクルーターとのランチは、一応、話を聞くという名目にはなっていたが、実質的には一次選考だ。
採用活動が公に解禁される前なので、面談は秘密裏に行われた。
待ち合わせ場所に指定されるのは、都心の喫茶店やレストランだった。
榊は約束の時間より十五分ほど早く指定された待ち合わせ場所に着くと、ガラスに映った自分の姿を確かめた。ネクタイを締め直し、ジャケットの裾を引っ張る。
慣れない革靴は、歩くたびに踵が少し浮いた。
リクルーターと合流し店に入ると、案内されながらさりげなく周囲を見回した。
窓際の席に、同じような組み合わせが見えた。
三十歳前後の男と、着慣れないスーツを着た学生。
少し離れたテーブルにも、もう一組。
学生は膝の上に両手を揃え、背筋を伸ばしている。向かいの男はコーヒーカップを片手に、何かを問いかけていた。
榊は思わず目を逸らした。
自分たちと同じだ。
表向きはただの昼食なのに、店内には妙な緊張感が漂っていた。
「まあ、そんなに固くならなくていいから」
向かいに座ったリクルーターが、メニューを榊の方へ滑らせた。
そう言われても、この一回で高評価を得られなければ入社の道は閉ざされるかもしれない。
緊張で何を注文したのかは覚えていない。
料理が運ばれてくる。
フォークを持ち上げたところで質問され、慌てて皿に戻す。
学生時代に力を入れたこと。
なぜ商社なのか。
海外で働くことをどう考えているか。
答えながら、相手の表情を窺う。
頷いてくれたからといって、評価されたとは限らない。何気なく手帳に書き込まれる一行が、自分の将来を左右するのかもしれなかった。
数回のリクルーターとの面談の後に、漸く面接に進んだ。
控室には、自分より頭の切れそうな学生がいくらでもいた。
誰も話をせず、緊張した面持ちで目の前の壁の一点を見つめている。
空調の低い唸りだけが聞こえる。
ときおり人事担当者が現れ、学生の名前を呼ぶ。
呼ばれた学生は素早く立ち上がり、背広の前を合わせ、控室を出ていく。
面接室の扉が開くたび、榊はネクタイの結び目を指で確かめた。
結び目は何度直しても、少し曲がっているように思えた。
そして自分の名前が呼ばれる。
「榊さん、どうぞ」
立ち上がると、膝のあたりが妙に重かった。
榊は一度だけ息を吸ってからノックし、中から「どうぞ」と言われるのを待ってから扉を開けた。
その中をくぐり抜け、東亜物産から内定の連絡を受けた日のことを覚えている。
自宅の電話が鳴ったのは、夕方だった。
受話器の向こうから、聞き覚えのある人事担当者の声がした。
「榊さん、東亜物産の採用担当です」
その一言で、心臓が大きく打った。
担当者は明るく力強い口調で選考結果を告げると、おめでとうと言った。
榊は受話器握る手に力を込めて、お辞儀をしながら「ありがとうございます」と答えた。
電話が終わる。
受話器を置く。
それでも、しばらくその手を離せなかった。
嬉しかった。
総合商社に入れる。
机の上には、何度も読み返した東亜物産の会社案内が置かれていた。
榊はその表紙を見つめた。
今まで遠い世界の話だったものが、突然、自分の将来になった。
不安もあった。
正直なところ、自分に選ばれるだけの価値があったのか。
面接で何を評価されたのか、榊には分からなかった。控室にいた優秀そうな学生たちの顔が浮かんだ。
なぜ、自分だったのだろう。
だが、その疑問に答えを出せるのは、これからの自分しかいない。
それはこれからの仕事で証明していこう。
そう思った。
四月一日。
本社で入社式を終えると、新入社員たちはそのままバスに乗り込んだ。
行き先は長野県。
ホテルを貸し切りにした研修所で、一か月の新人研修が始まった。
バスの中では、まだ互いの名前も覚えていない同期たちが、座席越しに自己紹介をしていた。
「どこの大学?」
「配属希望は?」
「海外勤務、希望してる?」
榊も隣の席の男と話をした。
窓の外では、都心のビル群が次第に低くなり、やがて住宅地と畑が広がり始めた。
四月の長野は、朝になるとまだ空気が冷たかった。
ホテルの玄関を出ると、吐く息がかすかに白くなる日もあった。
同期たちは決められた時間に食堂へ集まり、眠そうな顔で朝食を掻き込む。
長いテーブルにトレーが並ぶ。
「昨日、何時まで起きてた?」
「英語の予習してたら二時になった」
「嘘つけ。飲んでただろ」
そんな会話を交わしながら、誰かが腕時計を見る。
「まずい、あと五分だ」
椅子が一斉に引かれ、食堂が急に騒がしくなる。
新入社員たちはネクタイを直し、資料を小脇に抱えて講義室へ向かった。
名刺交換などのビジネスマナーから始まり、経理、貿易実務、契約法務、与信管理、グループワーク。
名刺交換の講義では、二人一組になって何度も頭を下げた。
「名刺は相手より低い位置で」
講師の声が飛ぶ。
榊は相手の名刺を受け取ろうとして、自分の名刺を落としかけた。
周囲から小さな笑いが起こった。
経理の講義では、ホワイトボードいっぱいに勘定科目が書き並べられた。
貿易実務では、信用状、船荷証券、インコタームズといった、それまで聞いたこともない言葉が次々に出てきた。
契約法務では、英文契約書の条文を一行ずつ読み解いた。
与信管理の講義では、取引先が倒産した場合に会社がどれほどの損失を被るか、具体的な事例を使って説明された。
そのときの榊には、与信管理という仕事が自分の将来と深く関わることになるなど、想像もできなかった。
そして外国人講師を招いての入念な英会話。
講師は教壇の前を歩き回りながら、突然、学生を指名した。
「Koichi, what would you do?」
榊は椅子から立ち上がり、頭の中で英文を組み立てた。
言いたいことはある。
しかし、適切な単語が出てこない。
講師は腕を組み、黙って待っている。
周囲の視線が集まる。
ようやく口にした英文は、自分でも情けなくなるほど単純なものだった。
それでも講師は大きく頷き、次の質問を重ねてきた。
朝から夕方まで講義が続いた。
講義が終わっても課題が出た。
グループワークでは、翌日の発表に向けて夜遅くまで議論することもあった。
学生から会社員へ作り替えるための一か月だった。
夜になると、部屋に何人かが集まり、自動販売機で買った缶ビールを飲みながら将来の話をした。
狭いホテルの一室に、男たちが床やベッドの縁に腰を下ろしていた。
机の上には、空になった缶ビールと菓子の袋が散らばっている。
誰かが窓を少し開けると、冷たい風がカーテンを揺らした。
「俺は絶対、海外に出たいな」
「どこでもいいのか?」
「いや、できればニューヨークとかロンドン」
「そんなところ、希望したって行けるわけないだろ」
笑い声が上がる。
「俺はアフリカでも中東でもいいよ」
「本当かよ」
「本当だって。せっかく商社に入ったんだから」
缶ビールを持った男が、大げさに両手を広げてみせた。
同期たちは研修が終わる頃になると、配属先の話ばかりするようになった。
木材。
繊維。
食料。
機械。
金属。
石油。
同じ会社に入ったはずなのに、どの部門へ行くかで、その後の人生はまるで違うものになる。
木材なら東南アジアかもしれない。
石油なら中東。
機械なら欧米。
もちろん、そんな単純なものではないのだろうが、新入社員たちには、それぞれの部門名が世界のどこかへつながる切符のように思えた。
海外へ行きたい。
大きな商売をやりたい。
いつか自分の手で新しい市場を開拓したい。
それぞれが胸に抱いた夢を語り合った。
榊もその一人だった。
配属先が発表されたのは、研修の最終日だった。
講義室の正面に人事担当者が立ち、手元の書類を広げた。
さっきまでざわついていた室内が、急に静かになった。
一人ずつ名前と配属先が読み上げられる。
そのたび、講義室のあちこちで小さなどよめきが起こった。
「おお、よかったな」
隣の男が肘で同期を小突く。
希望通りだった者は、顔をほころばせながら周囲の祝福を受けていた。
反対に、無表情のまま前を向いている者もいた。
榊は膝の上で両手を組み、名前が呼ばれるのを待った。
自分の心臓の音が聞こえるような気がした。
やがて、榊の名前が読み上げられた。
配属先は物産部、物資課。
榊は手元の資料に目を落とし、もう一度、部署名を確かめた。
具体的に何を扱う部署なのか、まだよく分からない。
それでも営業部という響きには、何か特別なものがあった。
商売の最前線に立てる。
そう思った。
五月一日。
辞令を手に、配属された営業部へ向かった。
本社ビルのエレベーターを降りると、長い廊下の先に営業部の入口が見えた。
榊は一度立ち止まり、手にした辞令を持ち直した。
初めて入る自分の職場だ。
入口の向こうから、電話のベルが聞こえてきた。
一つではない。
いくつもの電話が、競うように鳴っている。
榊が足を踏み入れると、窓際の机に座っていた男が受話器を肩に挟み、書類をめくりながら英語で何かを怒鳴っていた。
別の男は立ったまま電話をかけている。
「だから、船積みは来週じゃ間に合わないんだよ!」
受話器を置く音がした。
そのすぐあとに、別の電話が鳴り始める。
部屋の奥では、テレックスがドットプリンターから打ち出されるジジジジという音が絶え間なく響いていた。
紙送りのローラーが回り、細長い用紙が少しずつ吐き出されていく。
机の上には書類が積み上がり、壁には世界地図が貼られていた。
地図には色とりどりのピンが刺され、何本かの線が引かれている。
どこかから機械油とインクリボンの匂いが漂ってきた。
榊には、そのすべてが新鮮だった。
電話のベルも、英語の怒鳴り声も、プリンターの音も、今まではテレビドラマや会社案内の中にしかなかったものだ。
それが今、自分の目の前にある。
榊は胸の奥から気分が高まってくるのを感じた。
「榊君?」
声をかけられて振り向いた。
見るからに体育会系という、がっしりとした体つきの男が立っていた。
肩幅が広く、白いワイシャツの袖が太い腕に張りついている。
男は入社三年目の大井と名乗った。
後日知ったのだが、大井は水泳の元オリンピック強化選手だった。
「はい」
榊は慌てて背筋を伸ばした。
「今日からだよな」
「はい。よろしくお願いします」
頭を下げると、大井は笑いながら片手を上げた。
「そんなに緊張しなくていいよ」
そして、少し離れた一つの机を指差した。
「君の席はそこだ」
榊はその方向へ目を向けた。
窓際から二列目。
机の上には電話と書類受けが置かれている。
その後ろにある椅子の背に、妙なものが掛かっていた。
黒い布だ。
榊は近づいて、思わず首を傾げた。
金色の糸で派手な刺繍が施され、縁には同じく金色のスパンコールが縫い付けられている。
よく見ると、刺繍の線はところどころ歪み、金糸の端がほつれていた。
スパンコールも一つ二つ、糸が緩んでぶら下がっている。
工芸品というよりは、明らかに土産物店で売っているレベルの代物だ。
どう見ても、日本のオフィス家具には似合わなかった。
「なんですか、これ」
榊が布の端をつまむと、スパンコールが小さく触れ合った。
「パキスタンの椅子カバー」
大井は嬉しそうに続けた。
「丸藤さんが買ってきた」
「丸藤さん?」
「君の前任者になる人」
意味が分からなかった。
榊は布から手を離し、大井の顔を見た。
「前任者?」
まだ仕事も始めていないのに、前任者がいるという。
それも、パキスタンから妙な椅子カバーを買ってきた男だ。
「まあ、そのうち分かるよ」
大井は何かを知っているような顔で笑った。
そして榊の肩をぽんと叩いた。
「とりあえず、そこが榊君の席」
榊は勧められて椅子に座ってみた。
椅子がわずかに軋んだ。
背もたれに体を預けると、布越しに刺繍の凹凸が当たった。
なんとなく背中がざらざらする。
座り心地がいいとは、とても言えなかった。
榊は一度背もたれから体を離し、椅子カバーを振り返った。
黒地に金色の刺繍。
パキスタン。
丸藤という、まだ顔も知らない男。
その男が、遠い外国から持ち帰ったものが、今、自分の椅子に掛かっている。
「じゃあ、さっそく10分後から打合せしようか」
大井はそう言い残し、電話の鳴る自分の席へ戻っていった。
榊は机の上に辞令を置いた。
目の前の電話には、まだ自分宛ての電話など一本もかかってこない。
書類受けも空だった。
それでも榊は、その椅子が嫌ではなかった。
むしろ心が躍った。
自分が本当に世界を相手にする会社へ入ったのだという気がした。
パキスタンという国が、どこにあるのかは知っていた。
しかし、そこがどんな場所で、どんな人間が暮らし、何を売り買いしているのか、ほとんど何も知らなかった。
これから知ることになるのだろう。
榊はもう一度、壁の世界地図を見た。
日本から西へ。
海を越え、大陸を越えた先に、パキスタンがある。
そのときの榊には、地図の上に引かれた国境線が、どれほど危険な意味を持つことがあるのか、想像もできなかった。
二年後。
その榊は今、自動小銃を持った男に守られながら、パキスタンの山岳地帯に立っている。
足元には乾いた砂と石が広がり、風が吹くたびに細かな土埃が舞い上がった。
背後では、ピックアップトラックの荷台に腰を下ろした護衛の男が、無言で銃を抱えている。
黒い制服。
痩せた頬。
日焼けした顔に刻まれた深い皺。
男は時折、山の稜線へ視線を走らせる。
その手元で、自動小銃の金属部分が強い日差しを鈍く反射した。
榊は額の汗を手の甲で拭った。
遠くには、茶色い山々が幾重にも重なっている。
空は不自然なほど青かった。
ここには会社案内に載っていたような、ガラス張りの高層ビルも、整然と並ぶコンテナもない。
聞こえてくるのは乾いた風の音と、時折、遠くから響く車のエンジン音だけだった。
夢見ていた「海外」は、会社案内に載っていた写真とはずいぶん違っていた。




