第3話 FINAL DESITINATION
榊たちが危険を冒しながらもアフガニスタン国境付近まで来た目的は、不法に越境した貨物の在庫量を確認するためだった。
倉庫と呼んではいるが、日本で目にするような建物とはまるで違う。
日干し煉瓦を積み上げた壁が、四方を囲んでいるだけのものもあった。壁の表面には無数の亀裂が走り、ところどころ崩れた煉瓦の断面から、藁の混じった赤茶色の土が覗いていた。
屋根の代わりに、細い木材で組んだ骨組みの上からブルーシートを掛けたものもある。シートは風が吹くたびに端がばたばたと音を立てた。
その壁の内側に商品が積まれている。
榊は倉庫の入口に立ち、手帳を開いた。
積まれた商品を目で追い、列の数と高さを確かめる。
在庫が多ければ、向こう数か月の受注量は減る。逆に在庫が少なければ増える。
単純な理屈だった。
だが、その単純な数字を確かめるために、日本から六千キロも離れた国境地帯まで来なければならない。
日本のメーカーが生産計画を立てるために、現地の在庫数量は重要な情報だった。
工場の生産ラインを動かすか、止めるか。
原材料をどれだけ手配するか。
その判断の一部が、いま榊の目の前に積まれた、商品の山にかかっている。
榊は手帳に数字を書き込んだ。
ボールペンの先が紙の上を滑る。
顔を上げると、壁の上に切り取られた空が見えた。青い空には雲一つない。
東亜物産は、東京証券取引所第一部に上場する大手総合商社である。
都心の一等地に本社を構え、世界各地に支店や駐在員事務所を持つ。毎年発行される会社案内には、巨大な工場や港湾設備、海外の高層ビル群が美しい写真で紹介されていた。
もちろん、そんな上場企業が自ら商品を密輸しているわけではない。
東亜物産が商品を販売する相手は、米国に登記された貿易会社だった。
経営者はアフガニスタン人。
あるいは神戸にある印僑、つまりインド人が経営する商社など。
取引先はいずれも法人登記があり、契約書もある。代金決済の条件も定められ、船積書類も整っている。
日本から出荷された貨物は、まずロシア極東のウラジオストックに陸揚げされる。
港で貨車に積み替えられた貨物は、シベリア鉄道に載せられ、西へ向かう。
延々と続く針葉樹林。
冬には凍りつく大地。
鉄道は国境を越え、中央アジアへ運ばれていく。
貨物はウズベキスタンのテルメズで貨車から降ろさトラックに積み替えられアフガニスタンに入る。
契約上、東亜物産の取引はそこで終わる。
輸出書類に記された仕向地。
買主の名称。
引渡条件。
どれも整合している。
その後、買主が商品をどうするか。
それは買主の問題だった。
少なくとも書類の上では。
だが、貨物はそこで止まらない。
アフガニスタンの平野を通り、南部へ向かうのだ。
舗装の剥がれた道を、古びた大型トラックが黒煙を吐きながら進んでいく。
車輪が深い轍に落ちるたび、荷台が大きく傾く。
運転手は窓から身を乗り出し、前方の道を確かめる。
内戦中のアフガニスタンでは、各地がマスード、ヘクマチアル、ラバニなどの軍閥によって支配されていた。
道路を押さえる者が、そこを通る貨物から金を取る。
通行料という名目の金は、軍閥の軍費になっていた。
検問所では武装した男たちがトラックを止める。
運転手が書類を差し出し、短い言葉を交わす。やがて紙幣が手から手へ渡り、男の一人が顎をしゃくる。
トラックは再び走り出す。
誰が正規の権限を持ち、誰が単に銃を持っているだけなのか。
その境目は、必ずしも明瞭ではなかった。
やがてアフガニスタン南部山岳地帯に達した貨物はトラックから降ろされる。
そこから先は、車では進めない。いや、進まずに通常のルートを外れるのだ。
荷物は一つずつ地面に下ろされ、待機していたラクダの背に積み替えられる。
男たちは黙々と縄を締める。
ラクダが長い首を振り、喉の奥から低い声を漏らす。
一頭、また一頭。
荷を背負った動物たちが、岩の間を縫う細い山道へ入っていく。
国境線は、地面に引かれているわけではない。
尾根を越え、乾いた谷を渡れば、そこはもうパキスタンだった。
貨物は国境検問所を通らずに、パキスタン側の市場へ流れる。
関税を払わない分だけ、パキスタン南部のカラチ港から正規に輸入されるものより安くなる。
同じ日本製の商品でも、流れてきた道が違えば、店頭に並ぶ価格が違う。
買う側にとって重要なのは、商品の品質と値段だった。
その商品が、どこの港を通り、どの国境を越え、誰に金を払って運ばれてきたかなど、気にする者はいない。
東亜物産が密輸するわけではない。
東亜物産は顧客に貨物を売った。
その後、顧客が貨物を動かした。
理屈は明快だった。
榊にも理解できた。
ただ、理解できることと、納得できることは別だった。
これは本当に正しいことなのか。
榊は手帳を閉じた。
目の前には、数え終えた商品が積まれている。
一つ一つは、ごく普通の商品だった。
日本の工場で作られ、輸出されたものだ。
商品自体は麻薬や武器のような禁輸品ではない。それ自体に違法性はない。
だが、それがここにあるという事実は、どう考えればいいのだろう。
東亜物産の法律上の責任は、アフガニスタン向けに出荷した時点で終わっている。
だが、現実には、その先でどの市場に流れるかを会社は知っていた。
知っているどころか、パキスタンで売れる商品を探し、価格を調査し、在庫を数え、次に何が動くかまで予測している。
表向きは知らないふりをしているにすぎない。
その矛盾が、榊の中に小さな棘のように残った。
それでも榊は、まだ自分に言い聞かせることができた。
商社とは、そういう仕事なのだ。
国と国の間に立つ。
メーカーと顧客をつなぐ。
最終的に貨物がどこへ行くかを決めるのは、買主の責任だ。
自分たちは、必要な書類を整え、合法な範囲で取引をしている。
そう考えれば、何の問題もない仕事に思える。
倉庫の外へ出ると、強い日差しが榊の目を射た。
思わず目を細める。
乾いた風が、首筋にまとわりついた汗を奪っていく。
少し離れたところで、丸藤がトラックの車体にもたれていた。
サングラスの奥の視線は、遠くの山々へ向けられている。
榊には疑問に思っていることがあった。
「丸藤さん」
「ん?」
丸藤は顔だけを榊へ向けた。
「メーカーは知ってるんですよね」
「何を」
「最終的に商品がパキスタンで売られてることです」
丸藤はつまらなそうに榊を見た。
「当たり前だろ」
「そうですよね」
「俺が毎週レポート送ってるんだから」
丸藤は胸のポケットから煙草を取り出した。
箱の角は潰れ、表面には砂埃が薄く付いていた。
一本を唇にくわえ、残りを箱ごとポケットに押し戻す。
「値段。競合品。在庫。売れ筋。色。サイズ。来月何が動きそうか」
言葉を区切るたび、指先で数えるような仕草をした。
ライターで火をつける。
炎は風に煽られ、消えそうになる。
丸藤は背中を風上に向け、掌で囲うようにして煙草へ火を移した。
赤い火が先端に灯る。
丸藤は深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐いた。
「メーカーの連中、俺のレポート結構ちゃんと読んでるぞ」
榊は返事をしなかった。
取引の全容について、メーカーも知っている。
商社も知っている。
それなのに、契約書の上では誰も知らないことになっている。
まさに本音と建前だ。
メーカーの人も、商社の人も、みな一流企業の社員であり、家庭ではよい夫であり、自慢の息子だろう。
満員電車で通勤し、週末には家族や恋人と過ごす。
東京で普通の生活を送っている彼らは、この取引に何の疑問も抱かないのだろうか。
榊の脳裏に、東京の朝の風景が浮かんだ。
駅のホームに整然と並ぶ通勤客。
吊革につかまり、新聞を小さく折り畳んで読む男。
磨き上げられた革靴。
蛍光灯に照らされた清潔なオフィス。
そこで交わされる商談の向こう側に、この砂埃の舞う土地がある。
その距離は、地図の上で測れるものとは違うように思えた。
「だったら」
榊は訊いた。
「メーカーが直接やればいいんじゃないですか」
丸藤が笑った。
煙を鼻からゆっくり吐きながら、横目で榊を見た。
「何がおかしいんですか」
「いや。お前、商社マンのくせにいいこと言うなと思って」
「だって、そうでしょう」
丸藤に茶化されたようで、榊は少しむきになった。
無意識に一歩、丸藤の方へ踏み出していた。
「昭和の時代ならいざ知らず、今どきメーカーにだって帰国子女とか英語のできる人はいますよ。輸出だって自分でできるでしょう」
「できるよ」
丸藤はあっさり認めた。
「実際、これからどんどんそうなる」
商社の存在意義を否定するような話を、丸藤が平然と認めるのは少し意外だった。
榊は、反論が返ってくるものと思っていた。
だが丸藤は、何のためらいもなく頷いた。
「昔はな、外国へ行ける。英語ができる。貿易知識がある。それだけでも商社が間に入る理由になった」
丸藤は煙草を口元から離した。
「商社は日本メーカーの代理店として欧米で売りまくったもんだ。でも、メーカーは自分で海外に販売拠点を築き始めた。商社がありがたがられた時代はもう終わるよ」
煙を吐いた。
白い煙は風に攫われ、すぐに形を失った。
榊は丸藤の横顔を見た。
その口調には、商社の将来を憂えるような響きはなかった。
自分たちの仕事が変わっていくことを、ずっと前から承知しているようだった。
「じゃあ」
榊は周囲を見た。
土色の家。
人気のない道。
幾重にも連なる山々。
陽炎が揺れ、遠くの山肌は薄い灰色に霞んでいる。
建物の壁際には、痩せた犬が一匹、腹を地面につけて寝そべっていた。
相変わらず人の姿はほとんどない。
どこかで山羊が鳴いた。
その声は、乾いた空気の中で不思議なほど遠くまで響いた。
「なんで丸藤さんがここにいるんですか」
丸藤は、さっき榊が登りかけた丘を見た。
低い丘だった。
見た目には何の変哲もない。
だが榊は、あの斜面を思い出しただけで、背中のあたりが冷たくなるのを感じた。
護衛の男が突然叫んだ声。
慌てて身を伏せたとき、掌に触れた熱い土。
あのとき、もし声をかけられなかったら。
「あそこ、もう一回登ってこい」
「嫌ですよ」
榊は即座に答えた。
「だろ」
丸藤は笑った。
榊もつられて笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
丸藤は煙草を指に挟んだまま、丘の上へ視線を向けていた。
「メーカーの人間を一人、ここに駐在させるとする」
丸藤は言った。
「そいつが撃たれたらどうする」
榊は黙った。
丸藤は煙草の灰を親指で弾いた。
「家族が騒ぐ。労組が騒ぐ」
灰は風に乗り、地面に落ちる前に見えなくなった。
「新聞にでも載ったら、なんでそんな所に社員を置いていたんだって社長が釈明しなきゃならん」
丸藤はそこで言葉を切り、榊を見た。
さっきまで笑っていた目元から、いつの間にか笑みが消えていた。
風が吹いた。
砂が榊の狩猟ブーツに当たった。
細かな粒が革の表面を擦り、乾いた音を立てる。
「できないんじゃない」
丸藤は言った。
「やりたくないんだよ」
「メーカーが?」
「誰だってそうだ」
丸藤は笑った。
「俺だって帰れるなら帰りたい」
「じゃあ、なんで」
「会社が行けって言うからだよ」
あまりに当たり前の答えだった。
榊は一瞬、言葉を失った。
丸藤は肩をすくめた。
その仕草には、諦めとも自嘲ともつかないものがあった。
榊は、丸藤が自分よりずっと長くこの土地を見てきたことを思い出した。
暑さも、埃も、銃を持った男たちも。
いちいち驚いていては仕事にならないのだろう。
「メーカーが知りたい情報を、メーカーが行きたくない場所まで取りに行く」
丸藤は言った。
「それが商社の価値ですか」
丸藤は少し考えた。
視線を落とし、足元の石を一つ蹴った。
乾いた音を立てて、石が道端へ転がった。
石は二度、三度と跳ね、やがて土埃の中で止まった。
「価値なんて言うと、立派すぎるな」
「じゃあ何ですか」
「飯の種だよ」
丸藤は前を向いた。
その先には、舗装の途切れた道が山あいへ続いていた。
道の両側には、土色の壁が低く連なっている。
遠くの稜線の向こうに、もう一つの国があった。
「誰でも外国へ行ける時代になっても、誰も行きたがらない場所は残る」
丸藤は振り返った。
「そこが俺たちの稼ぎ場所ってわけだ」
榊は何も言わなかった。
丸藤は吸い終えた煙草を地面に落とし、靴底で踏み潰した。
小さな赤い火が、砂の中で消えた。
飯の種。
その言葉は、さっきまでの説明を妙に正確に言い表していた。
誰も行きたがらない場所へ行き、誰も引き受けたがらない危険を引き受ける。
その代わりに、会社は利益を得る。
それを商社の価値と呼ぶのか、ただの金儲けと呼ぶのか、榊にはまだ決められなかった。
ただ、入社した頃に抱いていた誇らしさが、少しだけ形を変えていた。
榊は顔を上げた。
強い日差しの下で、土色の山々が幾重にも重なっていた。
振り返ると榊たちが通ってきた道が谷に沿って伸びている。
その先には、町があり、商品を待つ人々がいる。
東京の机の上では、貨物の輸送ルートは一本の線に過ぎない。
だが実際には、その線の途中に、いくつもの国境があり、武装した男たちがいて、書類には決して書かれない金が動いている。
そして自分は今、その線の上に立っている。
榊は足元に目を落とした。
乾いた土の上に、自分のブーツの跡が残っていた。
風が吹く。
細かな砂が流れ込み、足跡の輪郭を少しずつ崩していった。




