↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

第1話 高い壁

挿絵(By みてみん)


 榊紘一は、土色の要塞のような高い壁に囲まれた四角い建物の前に立っていた。


 壁は日干し煉瓦で造られていた。

 五メートル、いや、もっと高いかもしれない。門は固く閉ざされ外から中を窺うことのできる隙間すらない。

 午後の強い陽射しを浴びた壁は、遠目には一枚の巨大な土塊のように見えた。

 荒涼とした大地の中に、その建物だけが異様な存在感を放っている。

 榊は壁の上に視線を走らせた。建物の高い位置には銃眼のようなものも見えた。

 細長い黒い穴の奥は、昼間だというのに何も見えない。榊は無意識に目を細めた。こちらから見えないということと、向こうからこちらが見えないということは、同じではない。


 「麻薬王の邸宅だ」


 背後から声がした。

 振り返ると、丸藤がサングラスを外しながら、壁を見上げていた。

 日に焼けた顔に、白目だけが妙に際立って見えた。


挿絵(By みてみん)


 「大きな声では言えないがな」


 丸藤は少し声を落とした。

 周囲に人影はなかった。それでも丸藤は一度左右を見てから、続けた。


 「俺は一度だけ中に入ったことがある」


 榊は丸藤を見た。


 「中には何があるんですか」


 「戦闘機以外の武器は、なんでも揃ってるぜ」


 榊はもう一度壁を見上げた。

 乾いた風が吹き、周囲に砂ぼこりが舞い上がった。

 丸藤が冗談を言っているようには見えなかったがまさか――


 ここはパキスタン北西部。

 アフガニスタン国境に近い、「北西辺境州」と呼ばれる地域だ。

 タイ、ミャンマー、ラオスの三国が国境を接する山岳地帯が、麻薬貿易の「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれることは、日本でもよく知られている。

 しかし世界には、もう一つの黄金地帯があった。

 アフガニスタン、イラン、パキスタン。

 三国の国境地帯に広がる山岳地域は、「ゴールデン・クレセント」と呼ばれていた。

 世界最大級のアヘン生産地。

 その中心にあったのがアフガニスタンである。


 アフガニスタンから西へ向かうものはイランを通り、トルコを経由してヨーロッパへ流れる。

 東へ向かうものはパキスタンを通り、さらにその先へ流れる。

 そして南へ向かうものは、パキスタンやイランの港から海へ出る。

 それぞれが地図上の線ではなく、人間と金と武器によって作られた道だった。

 榊たちが立っている場所は、その巨大な網の結び目の一つだった。


 貨物はアフガニスタンからカイバル峠を越えてパキスタンへ入る。

 合法の物も、非合法の物も、国境を越える。

 正規の税関を通るものと、地図にも記されない山道を通るもの。

 商品が違うだけで、国境を越えるという行為そのものは同じだった。

 もっとも、内戦によって国土が疲弊したアフガニスタンから、当時「合法に輸出できる商品」がどれほどあったのか、榊には疑問だった。


 「そろそろ行くぞ」


 丸藤が言った。

 サングラスを再び掛けると、その話はもう終わったと言わんばかりに踵を返した。

 しばしの休憩を終え、二人はダブルキャビンのピックアップトラックへ向かって歩き出した。


 五人乗りの車だった。

 キャビンの外、トラックの荷台には、一人の男が座っていた。

 ガードマンのような黒い制服。

 ベレー帽。

 膝の上にはソ連製の自動小銃。

 銃床には無数の擦り傷があり、黒い金属部分には油の鈍い光が浮かんでいた。

 長い髭を生やしているが、身体は細い。

 榊は、初めて男を見た時から、スペインの小説に出てくる風車と戦う騎士を思い出していた。


 ドン・キホーテ。


 男は喋らなかった。

 榊も何を話していいのか分からなかった。

 ここまでの道中、時折、バックミラー越しに目が合った。

 男は笑いもしなければ、目を逸らしもしない。

 ただ黙って榊を見ていた。

 日に焼けた顔には表情らしい表情がない。ただ目だけが、バックミラーの小さな四角の中から真っ直ぐこちらを見ている。

 榊は黙って前を向いた。


 考えてみれば、自動小銃を抱えた男と世間話をする機会など、それまでの人生にはなかった。

 男を視界の隅にとらえながら榊は丸藤に言った。

 

 「強そうには見えませんね」

 

 丸藤が笑った。

 

 「まぁな」


 男は小休止の間も荷台で銃を抱えたままじっと黙って座っていた。

 まるで暑さを感じていないかのようだった。額に汗を浮かべながら立っている榊とは対照的に、男は岩陰の像のように動かなかった。


 「撃ち合いになったら、あの人でどうにかなるんですか」


 「ならんだろうな」


 「じゃあ、なんで」


 「丸腰で入るよりましだ」


 丸藤は車のドアを開けながら言った。駐車していた車の中からは六十度を超える熱波が流れ出てくる。

 榊は思わず顔を背けた。熱せられたビニールシートと埃、それに微かな油の匂いが鼻を突いた。


 「ペシャワールから先へ外国人が入るなら、通行許可を取り、護衛をつける。それが決まりだ」


 ドライバーがエンジンをかけ、クーラーが作動し始めるが、温度を下げるには少し時間が必要だ。

 吹出口から出てくる風は、しばらくの間ドライヤーのように生温かった。


 「こいつがいるからといって安全になるわけじゃないが」


 丸藤は前を向いた。


 「武装せずにこのエリアに足を踏み入れるのは、狙ってくれと言っているようなものだ」


 路面のアスファルトは国境を行きかう過積載のトラックに痛めつけられ荒れていてる。

 大きな轍にタイヤを取られるたび、車体がゆっくりと左右へ傾いた。

 そのたびに車体がガタピシと悲鳴を上げる。


挿絵(By みてみん)


 トライバル・エリアは部族の自治州のようなものだ。殺人など事件が起きてもパキスタン警察の捜査権は道路の上にしか及ばない。

 一歩道を外れればそこは部族が支配する無法地帯だ。


 窓の外を、茶褐色の岩肌が後ろへ流れていく。

 岩山に挟まれた乾いた渓谷をひたすら上る。

 植物の緑はほとんど見えない。岩と砂の色しかない世界の上に、青い空だけが別の絵を貼りつけたように広がっていた。


 やがて小さな集落で車は停まった。アフガニスタンとの国境はもう目と鼻の先だ。

 家々はどこも日干し煉瓦を積み上げた高い壁に囲まれていた。

 壁の高さは三メートルほど。

 窓のない家も多い。

 人の気配はする。それなのに路上を歩く人影はほとんどない。遠くで山羊の鳴き声が一度だけ聞こえた。


 榊は車窓からその景色を眺めた。

 壁が高いのはそれだけ治安が悪い証拠だろう。


 「ちょっと待ってろ」


 そういうと丸藤は車を降りて現地の男と話し始めた。

 相手の男は民族衣装を着ていた。

 民族衣装といっても装飾の類は一切ない。

 膝まである白い長袖のスモッグのような服で、下には同じく白い長ズボン。

 丸藤はこの服装を「オバQ」と呼んでいた。

 灼熱の地域では輻射熱を抑え、気化熱で体を冷やすために長袖長ズボンが必須になる。

 二人の低い話し声だけが、乾いた空気の中に途切れ途切れに聞こえる。


挿絵(By みてみん)


 榊も外に出た。


 強い陽射しが頭上から一気に降りてきた。クーラーで少し冷えた額に、すぐに汗が滲んだ。

 少し先に、低い丘があった。

 上からなら周囲を見渡せそうだ。

 榊は一人で歩き始めた。

 丘を登る。

 榊は二子玉川園のL.L.Beanで買ったばかりのゴム製の狩猟用ブーツを履いていた。


 「ぬかるみに入れる靴で来い」


 出張前に届いた丸藤からの指示だった。

 靴の下で乾いた土が崩れた。

 縦縞のトカゲが岩陰に隠れるのが見えた。

 あと数歩で頂上だった。


 その時だった。


 「No!」


 声が背中を打った。

 榊は振り返った。

 荷台にいた護衛の男が、血相を変えてこちらへ走ってきていた。

 これまで一度も表情を変えなかった男の顔が、初めて歪んでいた。


 「No! No!」


 男は何度も叫び、両手を激しく振った。

 しゃがめ。

 体を低くしろ。

 そう言っている。

 意味は分からなかった。

 しかし男の顔を見て、榊は反射的に腰を落とした。

 それでも男は叫んでいる。


 榊はほとんど四つん這いになるような格好で丘を降りた。

 地面についた肘を通して焼けるように熱い土を感じた。

 心臓が速く打つ。

 喉がからからに乾き、自分の荒い呼吸だけが耳の奥に響いた。

 丘の麓まで来ると、護衛の男はようやく声を止めた。


 榊を見た。

 榊も男を見た。

 何か言おうと思ったが、言葉が出なかった。

 男も何も言わなかった。

 さっきまで血相を変えて叫んでいたのが嘘のように、また無表情に戻っている。

 自動小銃を抱え直すと、そのまま車の方へ歩いていった。


 背中だけを見ると、何事も起きなかったようだった。

 榊はその背中を見送った。

 初めて会った時から、この男とは言葉を交わしていない。

 そもそもパシュトゥー語しか話さない男との会話は無理なのだ。

 それでも、自分が今生きて丘を降りてきたのは、あの男が叫んだからだということだけは分かった。

 そこへ丸藤が歩いてきた。

 額に汗を浮かべながら、片手でサングラスを押し上げた。


 「何してるんだよ」


 「景色を見ようと思って」


 「ここで?」


 丸藤は天を仰いで呆れたように言った。

 そして榊が登りかけた丘を見上げた。


 「ここではな」


 少し間を置いた。

 丸藤の顔から笑いが消えた。


 「塀の上から住居の中を覗く者がいたら、撃っていいことになってる」


 榊は丸藤を見た。


 「撃つ?」


 「無警告でな」


 丸藤は丘の麓にある家を指差した。


 高い壁。

 閉ざされた門。

 風が吹いても、壁の向こうからは物音一つしない。


 「お前が丘の上に立つと、あの家の中が見えるだろ」


 榊は振り返った。

 確かに見える。

 いや、見えてしまう。

 壁は高い。

 だが丘の上からなら、その内側を覗き込める。


 「部族の掟だ」


 丸藤は言った。


 「家の中を覗くのは、押し入り強盗と考える。だから撃っていい」


 榊は顔から血の気が引いていくのを感じた。

 さっきまで肌を焼いていた暑さが、一瞬だけ遠のいたようだった。


 「先に教えて下さいよ……」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 丸藤は笑った。


 「全部教えてもらえると思うな」


 榊は笑えなかった。

 二十五歳だった。

 東亜物産に入社して三年目。

 榊は二年前の春を、まだ鮮明に覚えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。