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昼休みは少しだけ遅れる

 目覚ましは、鳴ったはずだった。

 そう思って目を開けたときには、もう鳴り終わっていた。音の残りだけが部屋のどこかに薄く貼りついていて、剥がれきらないまま消えていく。

 時間は合っている。

 針も、デジタルの数字も、どこも間違っていない。

 ただ、自分だけがほんの少し遅れてそこに辿り着いたみたいだった。

 洗面所で水を出す。

 蛇口をひねる音と、水が落ちる音が、わずかに重ならない気がする。耳を澄ますと合っている。けれど、さっきまでの感覚が、まだどこかに残っている。

 顔を洗って、タオルで拭く。

 その動きが、自分のものじゃないみたいに、ほんの一瞬だけズレる。

 気のせいだと思う。

 そう思うまでに、少しだけ時間がかかる。

 テレビでは朝のニュースが流れている。

 キャスターの口の動きと声は一致している。正確すぎるくらいに。

 それなのに、どこかで“合いすぎている”感じがして、逆に落ち着かない。

 音が先に来ているのか、後に来ているのか。

 分からないまま、番組は次に進む。

 家を出ると、夏の空気がまとわりつく。

 蝉の声が一斉に鳴いている。ばらばらのはずの鳴き声が、どこかで一つに束ねられて、同じ場所から聞こえてくるみたいだった。

 明は一瞬だけ立ち止まる。

 それから、何もなかったみたいに歩き出した。

 教室はいつも通りだった。

 ざわざわとした声。椅子の音。机に置かれる鞄。全部がいつもの位置に収まっている。

 けれど、その“いつも”が、ほんの少しだけ滑っている。

「おはよー」

 唯が手を振る。

 明るい声。普段と変わらない。

 けれど、ほんの一瞬だけ、その手が上がるタイミングが遅れた気がした。

 気のせいかもしれない。

 そう思うまでに、わずかな間がある。

「おはよ」

 唯は笑う。

 その笑顔は完璧で、どこにも隙がない。

 だからこそ、昨日のあの一瞬が、余計に引っかかる。

 授業が始まる。

 チョークが黒板に当たる音が、やけに綺麗に揃って聞こえる。先生の声と、生徒がノートを取る音が、同じリズムで刻まれているみたいだった。

 明はノートを開く。

 ペンを走らせる。

 文字を書くリズムが、周りとぴったり合っている。

 合わせたつもりはないのに、合ってしまう。

 前を見る。

 唯がノートを書いている。

 いつも通りの速さ。綺麗な字。

 けれど——

 唯のペン先が、紙の上で一度だけ空振りした。

 線を引くはずの場所に、ほんの一拍分の空白ができて、それを埋めるように次の線が少しだけ強く押しつけられる。

 ほんの小さな違和感。

 すぐに整う。

 ちゃんとやっているはずなのに、どこかだけ自分が遅れて届いている気がする。

 その感覚は言葉になる前に消える。

 唯は何も考えないまま、次の行を書き始める。

 休み時間。

 友達に囲まれて、唯が笑っている。

「それでさー、ほんとにありえなくて」

 身振りも自然で、声もいつも通りだ。

 誰も違和感を持たない。

 相手が笑う。

 唯も笑う。

 ——ほんのわずかに遅れて。

 一瞬だけ間が空いたのを、自分でも感じて、唯は少し大きめに笑い直した。

 音量で、間を潰すみたいに。

 何もなかったことにする。

 軽音室のドアの前で、美遊と会う。

 表情は変わらない。

「……残ってる気がする」

 明が言う。

 美遊は少しだけ考えて、それから頷いた。

「残るよ」

「消えないの?」

「消えないときもある」

 短いやり取りのあいだに、妙な間が挟まる。

 言葉は繋がっているのに、その順番だけがどこかでずれている。

「唯は?」

「……気づいてない」

 美遊はわずかに目を細める。

「気づかない方が、続く」

「何が?」

「ズレ」

 チャイムが鳴る。

 その音が、ほんの少しだけ長く尾を引いた。

 昼休み。

 校内放送が流れる。

『えー、本日の昼の放送はですね——』

 軽い声。いつもの二人。

『最近ちょっと気になる盤がありまして』

『また変なの持ってきたでしょ』

『変じゃない、これは“ズレてる”んです』

『それ、褒めてる?』

 軽口の応酬。

 いつも通りのやり取り。

 なのに、二人のタイミングは妙に揃いすぎている。

 かぶらない。遅れない。

 完璧に受けて、完璧に返す。

 まるで一つの文を分け合っているみたいに。

『じゃあ、いってみましょうか』

『どうぞ』

 レコードの音が流れ出す。

 その瞬間、明はほんの一瞬だけ息を止めた。

 朝の違和感が、形を持って重なる。

 同じ音ではない。

 けれど、同じ“ずれ方”をしている。

 理由は分からない。

 ただ、繋がっている気がする。

 食堂がざわめいている。

 トレーの音。椅子の音。話し声。

 全部が混ざって、いつもの昼休みを作っている。

 そのはずだった。

 箸が当たる音が、一斉に揃う。

 カチャ、と同じ高さで鳴る。

 椅子が引かれる音も、同じタイミングで重なる。

 笑い声が、別々の場所で同時に起きる。

 一瞬だけ、世界が一つになる。

 次の瞬間。

 ほんのわずかに、ズレる。

 音が遅れる。

 動きがずれる。

 会話の間に、微妙な隙間が生まれる。

 でも誰も気づかない。

 すぐに埋まる。

 元に戻る。

 唯が笑った。

 ——遅れて。

 一瞬だけ、表情が止まる。

「……あれ?」

 口に出したあとで、自分でも何に対して言ったのか分からなくて、唯はすぐにその言葉を笑いで消した。

 さっきのズレが、どこにあったのかだけ思い出せない。

 明は、それを見ていた。

 唯は、もう完全には揃っていなかった。


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