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ズレの練習


 放課後の軽音室は、誰もいないはずなのに、どこか一箇所だけ温度が違っていた。

 窓は開いている。けれど風は入ってこない。その代わりに、まだ鳴っていないはずの音だけが先に入り込んで、部屋の隅でじっと待っているような気がした。

 アンプや椅子や譜面台が、やけに整った間隔で並んでいる。意図したわけでもないのに、左右が揃っていて、中央だけが空いている。

 そこに、唯が立った。

「ここでやるの?」

 自然と、真ん中にいる。

「……ここがいいと思う」

 明はギターケースを床に置いた。硬い音が一つ、部屋の奥まで転がっていく。どこにもぶつからずに、消えた。

 美遊は窓際にいる。光の当たらない場所で、古いカセットプレイヤーを机の上に置いた。コードは少し絡まっているが、ほどかない。絡まったままのほうが、正しい配置みたいに見えた。

「それ、使うの?」

「うん」

 短い返事。説明はない。

 唯は興味ありげに覗き込んで、すぐに椅子に座る。机に指先を置いて、軽く叩く。まだ音にはならない。

「で、どうするの?」

 明は少しだけ考えて、それから首を振った。

「……とりあえず、鳴らしてみる」

「オッケー」

 それで十分だった。

 アンプのスイッチを入れると、小さなノイズが空気を撫でた。その瞬間、部屋の形がほんのわずかに定まる。さっきまで曖昧だった輪郭が、音に合わせて引き直されたみたいに。

 明は弦に触れる。

 一音。

 低くて丸い音が、床に落ちた水みたいに広がって、壁に届く前に少しだけ形を変えた。

 もう一度。

 同じ音のはずなのに、さっきよりわずかに遠い場所から聞こえる。

 四つで一周する短いフレーズ。それはただの繰り返しのはずなのに、やめなければ終わらない種類の音だった。

 明はそれを続ける。

 トン、と唯が机を叩いた。

 その音は驚くほど自然にギターの隙間に入り込んで、まるで最初からそこに置かれていたみたいに収まった。

 次も、同じように。

 ズレない。探らない。合わせようとすらしていないのに、合ってしまう。

「いいじゃん、これ」

 唯が笑う。軽い調子で、でも外していない。

 明は弾き続ける。変えない。変えられない。変えた瞬間に、この形が崩れる気がした。

 部屋が安定する。音と音の間に隙間がなくなって、空気が均一になっていく。

 カチ、と小さな音がした。

 美遊が再生ボタンを押したのだと、少し遅れて気づく。

 テープが回る。

 音が出る。

 ——遅れて。

 ギターの後ろから、影みたいに追いかけてくる。ぴったり重ならない。追いつかない。けれど離れもしない。

 残る。

 同じフレーズが、少し前の時間から持ち上がってきて、今の音に重なる。

 唯の手が、ほんの一瞬だけ迷った。

 それは失敗というより、初めて“合わせきれなかった”感覚で、ほんのわずかに、自分の外に置いていかれるような気がした。

 トン。

 わずかに早い。

 すぐに修正する。何事もなかったみたいに戻る。

 でも、今の一瞬だけ、確かにズレた。

「もうちょい、外して」

 美遊が言う。視線はカセットに向けたまま。

 明は頷く。

 次のループで、ほんの少しだけ遅らせる。自分でも分からないくらいのズレを、意識して置く。

 その瞬間、唯のリズムが一度だけ空白をつくった。

 埋めようとする。でも、間に合わない。

 音が、揃いきらない。

 美遊がノブを回す。

 遅延が伸びる。

 さっきの音が、さらに遅れて戻ってくる。過去が増える。重なり続ける。

 部屋の奥行きが、急に深くなる。

 壁が遠い。

 音だけが手前に残る。

「……これ、変だね」

 そう言いながら、唯はほんの少しだけ笑うのが遅れた。

 明は今度は逆に、わずかに前へ出る。リズムの先端をほんの少しだけ押し出す。

 テープが追いつかない。空白が生まれる。

 唯がそれを埋める。無意識に。いつもの癖で。

 でも、ぴったりにはならない。

 合わないまま、続く。

 三人の音が、それぞれ別の時間にいる。

 それでも切れない。一本の線の上にあるまま、位置だけがずれていく。

 明は手を止めた。

 音が途切れる。

 一瞬、完全な無音が落ちる。

 唯の手も止まる。

 けれど、テープだけが鳴っている。

 さっきの音が、遅れて、さらに遅れて、部屋を満たしていく。

 少し前の自分たちが、まだここにいる。

 それが一つずつ消えていく。

 最後の残響が壁に触れて、戻らない。

 静かになる。

「……今の、なんか」

 唯が言いかけて、言葉を探す。見つからないまま、肩をすくめて笑った。

「ちょっと面白いかも」

 軽い。けれど、さっきまでの軽さと同じではない。

 明はギターを下ろす。指先に、まださっきのズレが残っている気がする。

 美遊はテープを止めない。回り続けている。

「……止まらないね」

「うん」

 唯が立ち上がる。さっきと同じように、部屋の中央に戻る。

 けれど、位置がほんの少しだけずれている。本人は気づいていない。

「もう一回やろうよ」

 今度は少しだけ慎重な声で言う。

「今の、もうちょいちゃんとやればさ」

 机に指を置く。タイミングを測る。

 一瞬だけ、合わない。

 すぐに合わせる。

 でも——完全ではない。

 明はそれを見る。

 美遊も見ている。

 誰も言わない。

 音は止まっているのに、部屋のどこかで、まだ続いているものがある。

 見えないまま。消えないまま。

 ズレだけが、そこに残っていた。

 ——それは、誰のものでもないはずなのに、確かに三人のあいだにあった。


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