試練-2.月下の盟約
「兄ちゃん、社会の恥になっても、そのプライドだけは一人前だなぁ!」
ルビが吠える。宝石細工師としての精密な指先が、今は厚い肉に包まれた巨大な拳として握りしめられ、地面を爆砕するような勢いでこちらへ突き進んできた。その一撃はまさに飢えたヒグマの突進そのもの。一撃で城門をも粉砕する破壊力が、空気を歪ませながら僕の眼前に迫る。
「よく言うぜ、剣豪集団の一角が! 鈍重なフリして誘ってんのか!」
俺は冷笑を浮かべ、腰の白狼剣に手をかけた。大太刀『紅蓮石』を背負ったまま、まずは肉体一つでぶつかってくる気か。上等だ。俺は「狼王の眼」を全開にし、ルビの筋肉の収縮、重心の移動、そして殺気の指向性をすべてスキャンする。
大太刀使いの特徴――それは圧倒的なリーチと、一度振り下ろせば逃げ場を失わせる面制圧。ならば、その利点を発揮させる前に懐へ潜り込み、その重さを無意味にするまで。
俺は神速の一刀流の剣技を繰り出した。1秒間に400回。銀色の閃光が網膜に焼き付くよりも早く、ルビの巨体を包囲するように斬撃の雨を降らせる。だが、ルビもさるもの。彼はその巨躯に似合わぬ反射速度で、背負った大太刀を抜き放つこともなく、鞘のまま、あるいは鋼のような前腕で俺の斬撃をすべて弾き飛ばしていく。
金属音と魔力の火花がアトリエの静寂をズタズタに引き裂いた。
「ガタイが大きいにも関わらず、俺の速度についていこうとするのか。……効率が悪いな。ならば、こいつはどうだ?」
俺は斬撃の嵐の中で、ふっと拍子を変えた。剣を振るう予備動作をあえて「無」に書き換える。
「何?」
ルビが眉をひそめた瞬間、俺はすでに剣を納め、その懐の内側に入り込んでいた。
「俺は最初から拳だ!」
最速の踏み込みから、腰の回転を乗せた右ストレートをルビの顔面に叩き込んだ。ドォォン! と肉と骨が軋む鈍い音が響き、ルビの巨体が数センチ浮き上がる。
「……なんだとぉ? てめぇ、このクソガキがぁ! ぶっ殺すぞッ!!」
ルビの眼が血走った。彼は吹き飛びそうになる体を強引に踏みとどまらせると、愛刀を地面に突き刺し、丸太のような腕を振り上げた。
「今から俺もステゴロだぁ! 剣なんていらねえ、その生意気な面を更地にしてやる!」
ルビの重い一撃が上空から振り下ろされる。俺はそれを紙一重でかわそうとしたが、奴の拳から放たれた圧力が空気そのものを固形化させ、逃げ場を奪った。
(――すげえや、これが剣豪の拳か!)
回避不能。俺は両腕をクロスさせて防御姿勢を取るが、ルビの強烈な左フックが防御を突き破って俺の横面にめり込んだ。視界が火花を散らし、脳が揺れる。口の中に鉄の味が広がる。
「上等だぜ、細工師……ッ! 宝石みたいに綺麗に磨いてやるよ!」
俺はよろめきながらも笑った。かつての戦場を思い出す。こうして命を削り、理屈抜きで力と力をぶつけ合うこの感覚。これこそが、俺がアイリスの元で封印していた「裏の世界」の熱量だった。
互いに次の拳を繰り出そうとした、その時。
マゼンタ色の薔薇の花弁が、二人の間に鋭く舞い落ちた。
「そこまでにしなさい」
凛とした、しかし背筋が凍るほど冷たい声。園芸家のロッサが、剣を手にしたまま、僕たちの間に立っていた。その立ち姿は、まるで舞台の上に立つ完璧なアイドルのように優雅で、それでいて有無を言わせぬ威圧感に満ちている。
「あぁん? なんだババア、引っ込んでろ!」
血が上っていた僕は、反射的に毒づいた。直後、ロッサの瞳のトーンが、スッと深淵のような暗闇へと落ちた。
「……今、なんて言ったのかしら? ルウ」
「にゃっ」
情けない声が漏れた。今までの猫時代に縮こまる癖の声で、萎縮してしまう。ロッサの背後に、アイリス姉さんと同じ「何か」が幻視されたからだ。もっと根源的な、逆らってはいけない教育者の圧力とは、また似ているが殺気もある。
「ルウ、そこに正座しなさい。……今すぐに。そんなに言うことを聞けない悪い子なら、今すぐ貴方の飼い主、アイリスを呼んで、その汚れたお口を石鹸で洗ってもらいましょうか? 貴方がどれだけ惨めな姿で便利屋を営んでいたか、殺し以外の黒歴史、彼女に全部バラされたい?」
ロッサから放たれるお説教の波動に、僕の膝はガクガクと震え、気づけば床に完璧な正座をしていた。
「……ロ、ロッサさん、すみません……。ババアなんて、口が滑りました……」
ロッサは冷たく僕を見下ろした後、今度はルビに向き直った。
「ルビ、あなたも妻子持ちでどんな神経をしてるの? 年下の男の子相手に本気で拳を振り回して。奥さんに、あなたが隠れて暴力沙汰を起こしていると手紙を書きましょうか?」
「……あ、いや……それは勘弁してくれ、ロッサ……」
あの大男のルビまでが、バツが悪そうに視線を逸らして縮こまっている。
ロッサはふぅ、と溜息をつくと、僕の瞳をじっと覗き込んだ。
「それと、ルウ。……あなたの目、本当ね。嘘をついている人の濁りがないわ」
「にゃあ……」
反射的に、甘えるような子猫のような鳴き声が出てしまった。
……何これ。この気配。
アイリス姉さんの圧倒的な支配とはまた違う、包み込まれるような、それでいて逆らえばすべてを奪われるようなお姉さまのオーラ。僕よりずっと背が高くて、美しいけれど冷酷なロッサの視線に、僕の中の「俺」が急速にしぼんでいく。
僕は情けなくも、床に座ったまま縮こまってしまった。
「フン、銀髪の兄ちゃん。一度あんたの実力を引き出すなら、これで合格だな。なあアード」
ルビがふと横を見ると、寡黙なアードが口角を微かに上げ、楽しそうにこちらを見ていた。彼もまた、僕が「お利口さん」に戻る瞬間を待っていたようだ。
僕たちの戦いを眺めていたフロスも微笑んでいた。
「いいでしょう。ルウ、ルビ。あなた方が、その証拠が本物であることを認めます。……そして、ルウの覚悟もね」
カリスが静かに歩み寄り、僕たちを見下ろした。
ルビは鼻の血を乱暴に拭うと、僕に向かって分厚い手を差し出してきた。
「付き合ってやるぜ、銀髪の兄ちゃんたち。……いい拳だった。あの証拠がもし偽物だったとしても、今のあんたの眼と拳になら、俺の命を預ける価値はある。……ようこそ、地獄の作戦会議へ」
ルビの口角は上がっていた。それは先ほどまでの殺意ではなく、戦場を共に歩む「相棒」として認めた証だった。ついに僕たちが月下狂牙から合格を認められた。
「……うん。ありがとう、ルビ」
僕は差し出された手を握り返した。
あんなに荒々しく「俺」として振る舞っていたはずなのに、ロッサのひと睨みで、僕の一人称はすっかり「僕」に戻ってしまっていた。
『月下狂牙』との合流。
それは最強の矛と、最強の盾が重なり合った瞬間。
ベスパの「全都市放棄計画」を阻止するため、南の大陸の闇を駆ける義賊たちの布陣が、ついに整った。
(アイリス姉さん……。僕はやっぱり、お姉さま方には勝てないみたいだ。でも、この大陸だけは、絶対に守ってみせるから)
僕は正座を解き、立ち上がった。
僕たちの「一週間」は、ここから加速していく。




