試練-1.紅剛石の問いかけ
夜の帳を切り裂き、三つの影が南へと奔る。先頭を行くのは、純白のコートを夜風にたなびかせた僕だ。その移動速度は、生物の域を遥かに超越しているが、僕たちの足音は雪が積もる音よりも静かだ。
「……急ぐぞ。アイリス姉さんがヌーベのお粥作りに専念している今が、唯一の空白期間だ」
僕の声は風に溶け、背後を追う二人に届く。フォルトとアストもまた、かつての「翠影双翼」としての野生を取り戻していた。ロップイヤーの姿でカゴに揺られていた屈辱を、地脈を蹴る力強い踏み込みへと変える。
「ハッ、お粥か。ヌーベの奴、生きてることを祈るぜ......それと、月下狂牙。待っていやがれよ」
フォルトが巨大なハルバードを背負い直し、不敵に笑う。彼の足裏からは地脈の振動が伝わり、数キロ先の地形までを完璧に把握していた。
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南の大陸に古くから根を下ろす旧王都。かつての繁栄を物語る石造りの街並みは、今やベスパとマンティ、二つの巨悪が引き起こした「冥静戦争」の余波に震えていた。夜の帳が下りる中、街の喧騒から隔絶された地下の入り口――古びたアンティークショップの裏手に、その瀟洒なアトリエはひっそりと佇んでいた。
――コンコン。
扉を開くと、焦げ付いた戦場の臭気とは無縁の、芳醇な薔薇の香気が鼻腔をくすぐった。
人間の姿に戻った僕、ルウ。そして僕の左右を固めるのは、同じく巨躯の戦士へと戻ったフォルトと、鋭利な殺気を放つアストだ。三人の足音が静かな廊下に響き渡る。
「あら……。珍しい客ね。世界を終わらせる『最悪の終焉』に、森を彷徨う亡霊コンビが揃って私のサロンに何の御用かしら?」
部屋の奥、月明かりが差し込む天窓の下で、一人の女性が優雅にハサミを動かしていた。園芸家としての表の顔を持つ『月下狂牙』の幹部、ロッサだ。彼女が手入れをしている大輪の薔薇は、まるで血を吸ったかのように毒々しくも美しい紅色を湛えている。その傍らに立てかけられた刺突細剣『薔薇棘』が、主の動きに呼応するように鋭い反射光を放った。
「ロッサ、相変わらず優雅なこった。だが、今はその棘を弄んでいる暇はないはずだぜ」
アストが皮肉を込めて応じると、ロッサは細い指先で髪を払い、不敵な笑みを浮かべた。
「……ロッサ、挨拶抜きだ」
アストが険しい表情で一歩前に出る。その瞳には、先ほどまで潜入していた地下施設で見た「絶望の火種」が焼き付いていた。
「あんたらも、この街の地下で何が起きているかは察しているはずだ。今、表向きはベスパとマンティの全面戦争で火の海だが、裏じゃもっとタチの悪いことが進行している。ベスパの野郎、戦いに勝つことじゃなく、この大陸そのものを爆破して『放棄』しようとしていやがるんだ」
「……そのために、あんたたちの『魂を斬る剣』が必要なんだ。物理的な爆発だけじゃない、奴が仕組んだ概念的な因果の鎖を断ち切れるのは、お前たちしかいない」
僕の言葉がアトリエの静寂を切り裂いた。その直後、奥のカーテンが静かに揺れ、重厚な、しかしどこか気品を感じさせる足音が近づいてきた。
「……話は聞かせてもらったわ、ルウ。相変わらず、貴方の周りには退屈な日常なんて存在しないようね」
現れたのは、夜の闇に溶け込むようなマゼンタ色の長髪を揺らす女性――『月下狂牙』のリーダー、カリスだった。その背後には、硝子職人としての繊細さと暗殺者としての冷徹さを併せ持つガーネが、影のように控えている。
だが、再会を喜ぶ余裕は僕にはなかった。僕の「狼王の眼」は、彼女たちが纏う空気の「淀み」を瞬時に捉えていた。魔力の奔流が、ある一点で不自然に遮断され、腐敗した水のように滞留している。
「……カリス、その身体はどうした。魔力の流れが極端に乱れているぞ。お前ほどの剣聖が、なぜこれほど不安定な状態にある?」
僕の問いに、カリスは自嘲気味な笑みを浮かべ、自身の左肩を細い手で押さえた。そこには、数日前に「解体魔」オネブを粛清した際に受けた傷が、不気味な紫色の変色を伴って残っていた。
「……流石ね、リーダーの眼は誤魔化せないわ。あのオネブ……死に際に、執念で自分の魔力メスを折って、私の中に埋め込んだのよ。物理的な傷は塞がったけれど、神経と魔力回路を蝕む毒が消えない。ガーネも、私を庇った時に左足の腱をやられたわ」
ガーネもまた、いつもの超高速移動を誇る身軽さが嘘のように、僅かに重心を右に寄せて立っていた。
「……姉さんの言う通りです。あの解体魔の攻撃には、細胞の再生と治癒を完全に阻害する特殊な呪詛が込められていた。今、僕たちの戦力は全盛期の半分も出せません。……ですが、ベスパがこの大陸を焼くというなら、ただ黙って見ているつもりはありませんよ」
満身創痍の『月下狂牙』。しかし、彼女たちの瞳に宿る、弱者を蹂躙する悪を断つという「意志」の炎は、衰えるどころか、かつてないほど激しく燃え上がっていた。
沈黙を破ったのは、部屋の隅で腕を組んでいた巨漢だった。宝石細工師のルビだ。彼は大太刀『紅蓮石』の柄に手をかけ、値踏みするように僕を睨みつけた。
「おい、そこの銀髪の兄ちゃん。……ルウ、あんたのことだ。あんたが持ってきたその『放棄計画』の証拠とやら、ヌーベが捏造したもんじゃねえのか? 悪いが、俺たちは今、自分たちの身を守るだけで手一杯だ。そんな不確かな話に乗って、残りの命をドブに捨てるわけにはいかねえ」
「ルビ、無礼ですよ」
カリスが制止しようとするが、ルビは止まらない。
「いや、姐さん。こいつは必要なことだ。……ルウ、あんたがそれほどの覚悟と、俺たちを使いこなすだけの『器』を持っているか、ここで証明してみせろ。あんたが持ってきた情報の真偽なんざ、拳と剣で語れば済む話だ。……手合わせ願おうか。あんたの言う『一週間』に、俺たちが乗る価値があるのかどうかをな」
ルビの巨体から、凄まじい密度の殺気が溢れ出す。それは、弱ったカリスたちを守ろうとする彼なりの必死な防衛本能でもあった。
「……いいだろう」
僕は腰の白狼剣、その一振りにだけ手をかけた。
「フン、今回は二刀流で行きたいところだが……お前たちの土俵に乗ることにする。今回は一刀流で相手をしてやろう。僕の言葉が信用できないなら、僕の剣と、その眼で直接確かめろ。……来るがいい、ルビ」
「吠えたな、小僧ッ!」
ルビが地面を爆砕するような踏み込みで、大太刀を振り上げた。宝石の分子結合を見抜くその精密な一撃が、僕の脳天を目がけて振り下ろされる。
僕は「狼王の眼」を開放し、世界がスローモーションへと変わるのを感じた。
「(……悪いが、時間は一秒たりとも無駄にできないんだ)」
僕は無音のステップでルビの懐へと滑り込み、抜刀すらしない鞘のままで、大太刀の「腹」を的確に叩いた。衝撃波がアトリエの窓を震わせ、マゼンタ色の薔薇の花弁が、嵐のように舞い散った。
伝説の義賊たちが交差する、旧王都の夜。
ベスパへの反撃の狼煙は、かつての仲間同士による、激しくも悲しい刃の対話から始まった。




