安寧-2.聖母の過保護
闇医者ギルの診療所。その一室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
枕元には、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、瞳の奥にドス黒い覇気を宿したアイリス姉さんと、事務的に法典を捲るルンさんが立っている。ここでベッドに横たわるヌーベにとって、そこは戦場よりも過酷な拷問部屋でしかない。
「ヌーベさん。こんなところで、お独りでボロ雑巾のように倒れているなんて……。お友達のルウくんやウサギさんたちの姿も見当たりませんし、何か恐ろしい悪党にでも巻き込まれたんじゃありませんか?」
アイリス姉さんが、真っ赤なリンゴを器用に「ウサギさんカット」にして差し出す。その一切の狂いもない刃筋に、ヌーベは背筋を凍らせながらそれを受け取った。
「……ゲホッ、いえ……ただの、不慮の事故ですよ。あのお三方は……今頃、別の安全な場所で、のんびりと過ごしているはずです。貴女に……過保護に扱われる筋合いはありませんよ……」
ヌーベは内心で、己の知略を自画自賛していた。アイリス姉さんがここに踏み込む直前、彼は捏造した「嘘の冒険記録」を彼女たちの目に付く場所に配置しておいたのだ。そこには、口元から巨大な牙を生やし、血に飢えた眼で魔王の肉を喰らう「白い小さな狼」の挿絵――ルウの変わり果てた悍ましい姿が描かれていた。ルウたちが今、凛々しい「人間の姿」で活動していることを隠し通す。それが白爪の参謀としての最後の意地だった。
アイリス姉さんはウサギ型のリンゴを見つめ、静かに問いかける。
「……ねえ、ヌーベさん。この記録にある『白い狼』……なんだか、とっても寂しそうな目をしているわ。本当は、誰かに優しくブラッシングしてほしいんじゃないかしら? 貴方も、本当は……独りで震えているより、誰かの腕の中で静かに耳を畳んでいたいのではなくて?」
その「耳を畳む」という言葉に、ヌーベの脳裏を正体不明の悪寒が駆け抜けた。
(この女、よくも俺の琴線に触れたな。生意気なことを言いやがって。ルウさんがあの時、この女を『過保護』だと罵倒した気持ちが今ならわかる。窮鼠猫を噛む、か……やってやるよ)
「……いい加減にしろよ、あんた……ッ!」
ヌーベは、傷口の激痛と込み上げる恐怖を怒りで塗りつぶし、アイリス姉さんを真っ向から睨みつけた。
「アイリス、お前はルウさんを猫にして、野生を奪って、何が楽しいんだ! 俺より若いくせに、すべてを見透かしたような口を聞くな! 俺たちの……泥を這い、血を流して掴み取ってきたこの生き様を、お前の『おままごと』で邪魔するんじゃねえッ!!」
アイリスの微笑みが、ピきりと止まった。
彼女の穏やかな水色の瞳が、一瞬にして鮮血のような赤へと変色する。背後に立つルンが、無言で数歩下がった。部屋の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚を覚え、ヌーベの心臓が物理的に握りつぶされるような圧迫感に襲われる。
「……ふふ。おままごと、ですか」
アイリスの声から温度が消えた。彼女はヌーベの頬を撫でようとした手を止め、冷徹な光を宿した瞳で彼を射抜く。
「あなたはルウくんと何も変わらないじゃない。一度目のお説教では済まなかったかしら? あの時、アジトに乗り込んだ私にこってり絞られて、泣きながら解散届を書いたのはどこのどなた? せっかく真っ当な道を用意してあげたのに、またそうやって牙を剥くのね」
ヌーベの脳裏に、かつて白爪が全盛期に解散させられた屈辱の記憶がフラッシュバックする。絶大な武力を持っていたはずの自分たちが、この女一人の「正論」と「威圧」の前に膝を突き、なす術なく瓦解したあの悪夢。
「まあ、いいわ。そんなに元気なら安心しました。……でも、そんなに牙を剥くのがお好きなら、もっと『静かで、温かくて、人間に邪魔されない場所』がお似合いかもしれませんわね」
その言葉は、呪いのようにヌーベの意識の底に沈んでいった。
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アイリス姉さんとルンが部屋を後にした直後、診療所の廊下には、まるで氷の巨像が通り過ぎた後のような、凍りつく沈黙だけが残された。
「先生? 彼の容態はどうですか? 完治するまで、私が毎日心を込めて、特製のお粥を持ってきてもよろしいかしら?」
アイリスが闇医者ギルに問いかける。その声は鈴を転がすように清らかだが、ギルの本能は「これ以上この女に喋らせるな」と警鐘を鳴らし続けていた。
魔王軍の残党や国家規模の暗殺者を幾人も治療し、修羅場を潜り抜けてきたはずのギルだったが、今は滝のような冷や汗を拭いながら、これ以上ないほど深く頭を下げていた。
「え、ええ……。命に別状はありませんが、何分、精神的なショック……そう、重度の『対人恐怖』に近い状態にありまして。しばらくは絶対安静、面会謝絶……ということにしていただければ、回復も早いかと……!」
ギルは必死だった。今、この聖母の皮を被った怪物をヌーベの枕元に近づければ、治療中の傷が開くどころか、彼の精神が跡形もなく消滅してしまうと確信していたからだ。
「あら残念。でも、お粥は毎日届けますわね。栄養をたっぷりつけて、『健康な体』で大人しくしていなければいけませんもの。ウフフ……」
アイリス姉さんの微笑みが、わずかに深まる。
彼女にとって、ヌーベが今ここで衰弱死することは許されない。彼が最高のコンディションを取り戻し、逃げられるという希望を抱いたその瞬間に、その自尊心をへし折る。それが彼女の流儀なのだ。
アイリス姉さんとルンさんが去った後、ギルはついに耐えきれず、ガタガタと膝の震えを抑えることができなくなり、その場に頽れた。
「……バカ野郎が。あんなものに牙を剥くなんて……」
ギルは奥の病室で震えているであろう参謀の男に、心底同情した。自分にできるのは、せめて彼が「人間」であるうちに、最高の治療を施すことだけだ。皮肉にも、彼を完治させることが、彼を最も恐ろしい末路へと導く合図になるというのに。
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天井裏の通気口から、その一部始終を伺っていた僕は、人間の姿に戻り静かに窓から外へと飛び出した。着地したその姿は、白いコートを翻す孤高のリーダーそのものだ。
(……ヌーベ、君の犠牲は無駄にはしない。アイリスをあそこまで引きつけ、僕たちの『復活』を隠し通してくれたおかげで、ようやく自由な時間が稼げた)
僕は手元にある、書き写したばかりの「ベスパの最終計画書」を指が白くなるほど強く握りしめる。
「……ベスパの『全都市放棄計画』を止めるには、僕と翠影双翼だけじゃ戦力が足りない。……あいつを、カリスを呼び戻すしかない」
最強の剣士集団『月下狂牙』。彼女たちは、幸いにもまだアイリス姉さんやルンの「飼育(調律)」の手が届いていないはずだ。今この瞬間も、どこかの戦場でマゼンタ色の蓮の花弁を撒き散らしているに違いない。
「……一週間しかないんだ。急ぐぞ、フォルト、アスト。カリスたちをこの計画の阻止に巻き込む。彼女たちの『魂を斬る剣』があれば、物理的な爆弾だけでなく、ベスパが仕組んだ呪術的な起爆術式そのものを概念ごと断ち切れる」
「……ああ、あの『美しき死神』か。……カリスなら、ベスパの炎すらも千切りにするだろうな」
フォルトが不敵に笑い、アストが鋭く頷く。
僕たちは、次なる希望を求め、マゼンタ色の閃光が目撃されたという南の旧王都へと向かう。
夜風に舞う白いコート。伝説の『白爪』と『月下狂牙』の合流――それは、ベスパという絶望に対する、最後にして最大の反逆の狼煙となる。
(ヌーベ……待っていろ。一週間以内にすべてを終わらせて、必ず君を迎えに行く。……あのお粥を食べさせられている間に!)
僕は闇を裂き、南の空へと走り出した。




