安寧-1.蘇る計画
闇医者ギルの診療所。地下特有の湿った冷気と、薬品のツンとした匂いが鼻をつく。
奥のベッドでヌーベが死線を彷徨う緊急手術を受けていた間、僕たちは別室の古びた木製デスクの上で、ある「絶望」と対峙していた。
ヌーベが文字通り命を削って奪取した、ベスパの「全都市放棄計画」の原本。
僕がひらりと床に落ちた短い脚と口で広げる。
「にゃっ(肉球はものを掴むのに不利だ。マンチカンにされてから数か月経つが扱いづらい)」
この体も慣れたかどうかはまだわからないが紙の扱いはまだまだ不器用だ。
それを広げたアストが、ウサギの短い前足を震わせ、悲鳴のような念話を上げた。
「モグ……(嘘だろ!? おい、冗談じゃねえぞ! ここに書かれていたはずの緻密な図面が、どんどん薄れていやがる!)」
「にゃあ!?(なんだって!?)」
僕は身を乗り出し、机の上に広げられた資料を凝視した。そこにはアニルが作成し、ドラアが持ち歩いていたはずの、南の大陸主要五都市の地下に埋められた「魔力集積爆弾」の配置図が記されていたはずだ。
どれも断片的なものだが、二つとも合わせれば決定的な証拠となるはずだ。
だが、僕の目の前で、漆黒のインクが陽炎のように揺らぎ、紙の繊維から浮き上がって消え去ろうとしていた。
「ムシャ……(……特殊な魔力インクだ。書いた本人の魔力供給が絶たれるか、あるいは一定の時間が経過すると自動的に消滅する「機密保持術式」が組まれていやがる。……ベスパの野郎、どこまで慎重なんだ。証拠を残さない気か)
フォルトが悔しそうに歯を鳴らす。インクの消失速度は予想以上に早い。あと数分もすれば、この紙はただの白紙に戻り、ベスパの陰謀は再び歴史の闇へと葬られるだろう。そうなれば、爆弾の正確な位置も、ベスパが潜む本拠地の座標も分からなくなる。
「にゃあ(……このままじゃ、ベスパを法的に、あるいは社会的に追い詰めるどころか、爆弾を見つけることすら不可能になる。奴の暴挙を止めるには、もう「直接叩く」しか道はないのか……!)」
だが、場所が分からなければ叩きようがない。ヌーベの命懸けの戦いを無駄にすることだけは、絶対に許されなかった。
消えゆく情報の残滓を前に、僕の心の中に眠る「最悪の終焉」の冷徹な理性が、瞬時に結論を導き出した。
「にゃあ!(こうなったら、今ここで、あの薬を飲んで人間に戻る! 獣の体じゃ筆記速度が追いつかない。僕たちが人間に戻り、消えゆく情報をすべてメモに書き留めるんだ!)」
「モグ……(ルウ、本気か!? ここで薬を使えば、ベスパとの最終決戦までの一週間、もう人間に戻る術はねえんだぞ!)」
「にゃあ!(構わない! 今、この情報を失うことの方が、僕にとっては死ぬことよりも屈辱だ!)」
僕は迷わず、ピセアの森から盗み出した『人間に戻る薬』の瓶を前足で叩き割った。飛散する蒼い液体。フォルトとアストもそれに続く。
瞬間、診療所の狭い部屋に、暴風のような魔力が渦巻いた。
――ミシリ、ミシリ。
骨格が急激に伸長し、筋肉が爆発的に膨れ上がる。毛並みは消え失せ、滑らかな皮膚と、かつて世界を震撼させた強靭な肉体が再構築されていく。
光が収まった時、そこにはマンチカンもロップイヤーもいなかった。
黒い髪を揺らし、凍てつくような黄金の瞳を持った僕――「最悪の終焉」ルウ。そして、大樹のように屈強なフォルトと、鋭利な刃物のような雰囲気を纏うアスト。
伝説の義賊たちが、その真の姿でそこに立っていた。
「……手が動く。アスト、フォルト、やるぞ! 文字が消える前にすべてを書き写せ! 証拠こそが、奴の喉元を貫く刃になる!」
僕はギルが置いていた羽ペンを掴むと、超人的な動体視力と「狼王の眼」をフル回転させた。網膜に残るインクの残滓、魔力の跡形――それを一点の曇りもなく読み取り、神速の筆致で白紙の羊皮紙へと転写していく。
「……ル、ルウリーダー……!? それに翠影双翼まで……」
手術室から出てきたギルが、その異様な光景に目を見張った。彼はかつて、権力者の不当な圧力で医学界を追放された男だ。ボーンに拾われ、裏の世界で生きる術を教わった彼は、僕たちが何者であるかを誰よりも理解していた。
「……旦那方、手伝いましょう。私の『外科医の手』なら、ルウ様の指示通り正確に、寸分の狂いもなく記録できます。ボーンさんに叩き込まれたこの技術、今こそお返しする時だ」
ギルは迷うことなくペンを取り、僕が読み上げる座標を驚異的な速度で書き留めていった。かつて命を救うために汚されたその手は、今、大陸を救うための「真実」を刻んでいた。
沈黙の時間が流れる。地下室に響くのは、紙を走る羽ペンのカリカリという音と、張り詰めた呼吸の音だけ。
原本のインクが完全に透明になり、ただの古い紙切れに戻るのと同時だった。
「……書けたぞ。これがベスパの『全都市放棄計画』、その完全な写しだ。アニルの持っていたデータとドラアの持っていたデータ。二つを合わせれば冊子になる」
僕が机に叩きつけた紙には、南の大陸を滅ぼしかねない魔力爆弾の正確な配置地点一〇八ヶ所、そしてベスパの最終的な隠れ家である空中要塞『アバドン』の座標が、一点の狂いもなく記録されていた。
僕はヌーベの荷物の中にあった、予備の『白爪』の正装――純白のロングコートを羽織った。袖を通した瞬間、僕の体温が一段階下がったような錯覚に陥る。
「フォルト、アスト。薬の効果は一週間だ。この『人間の姿』でいられる間に、僕たちの手で決着をつけるぞ。二度と、あんな悲惨な計画が誰かのペンで書かれないように。……そして、僕たちを「ペット」扱いしたあのお姉さんたちに、一泡吹かせてやるためにもな」
僕の瞳に、アイリス姉さんの前で見せていた「便利屋の青年」の甘さは微塵もなかった。
冷徹で、残酷で、誰よりも高潔な義賊のリーダー。
伝説の『白爪』が、今この瞬間、南の大陸に完全な復活を遂げた。
「行くぞ。ターゲットは空の上だ。……掃除の時間だ」
僕たちは夜の闇を裂くように、地下診療所を後にした。一週間の審判。そのカウントダウンが、今、始まった。




