潜入-1.新しい「手駒」
南の大陸。華やかな表舞台から見捨てられたその場所には、煤けた空気が重く停滞するスラム街が広がっている。
立ち並ぶ廃屋の隙間からはゴミの腐敗臭が立ち昇り、住人たちの殺気立った熱気が肌を刺す。
ベスパが提唱する「全都市放棄計画」の触手は、すでにこうした日陰の場所にまで深く食い込んでいた。暴力が唯一の正義であり、良心が文字通り「放棄」されたこの街で、一人の暴漢が老人の胸ぐらを無慈悲に掴み上げている。
「ジジイ、あんときはよくも言ってくれたな! おかげで商売が台無しだ!」
「お前さん……あの時は、子供たちまで巻き込むような真似を……っ、通報されて当然の……!」
老人の震える抗議は、周囲で冷笑を浮かべる無関心な群衆の中に霧散していく。だが、その暴力を振るう汚れた腕を、背後から音もなく、しかし岩のように強固な力で制する者がいた。
「おい……そこまでにしておけ。無抵抗な者を痛めつけても、あんたの『格』は上がらない。むしろ、ゴミ箱に捨てられた残飯以下に成り下がるぞ」
低く、氷の礫を思わせる理知的な声。変装したヌーベだ。
彼は今、しがない旅の風来坊を装い、古びた大きな背負いカゴを背負っている。そのカゴの中、窮屈そうに身を丸めているのは、不機嫌を絵に描いたような顔をした――白いマンチカンの僕。そしてその両隣には、耳をぴったりと畳んで気配を殺している二羽のロップイヤー、フォルトとアストだ。
「にゃあ(……ヌーベ、あまり目立つなと言ったはずだが。……まあいい、あの男の魔力の質はドス黒い。ベスパの息がかかった末端組織の人間だな)」
僕はカゴの隙間から、宝石のような黄金色の瞳で状況を俯瞰する。かつて「最悪の終焉」と呼ばれた僕の直感は、この街全体を覆う火薬の匂いと、底冷えするような焦燥を敏感に感じ取れないほどではない。猫になったからと言って衰えやしない。
「あんだと!? てめえ、どこの馬の骨だ! この『黒鉄の牙』の俺に指図する気か!」
暴漢が逆上し、腰のナイフに手をかけた。その刹那、ヌーベの瞳が鋭く細まり、かつての異名『最悪の不可視』を彷彿とさせる圧倒的な圧力が放たれた。
魔法ではない。純粋な「殺意」の質。それだけで暴漢の身体は、極寒の呪縛に囚われたかのように石化し、指一本動かすことすら許されなくなった。
ヌーベはその隙を逃さず、男の手首を万力のような力で掴み上げる。
「いててててっ! わかった、悪かったよ! 離してくれ!」
「爺さん。さっさと帰りな」
ヌーベが緩やかに手を放すと、解放された老人は脱兎のごとく群衆の中へ消えていった。先ほどまでの威勢を失い、縮こまった子犬のように震える暴漢を見下ろし、ヌーベは声音をふわりと「求職者」のものへと変えた。
「……そうそう。あんた、この近くを根城にしている組織の者か? 実は金に困っていてね。よければアジトまで案内してもらえないだろうか。最近職を失ったばかりで、新しい『仕事』を探しているんだ。見ての通り、腕っ節には自信がある」
その豹変ぶりに、暴漢はガチガチと歯を鳴らしながらも、抗う術を持たず無様に頷くしかなかった。
「はぁ……はぁ……わ、わかったよ。あんたみたいな化け物なら、上が喜ぶかもしれねえ。案内してやるから、その殺気を引っ込めてくれ……」
「にゃあ(……誘導成功か。流石はヌーベだ。保育士助手に甘んじていても、かつての参謀としての手腕は錆びついていないな)」
僕はカゴの中で小さく鼻を鳴らした。その横で、フォルトが念話を通じて悪態をつく。
『(モグ……おいルウ、尻尾が邪魔だ。それにしても、あいつのナイフの手入れのなさは何だ。あんな鈍らで人を脅すとは、ベスパの部下も質が落ちたもんだぜ)』
『(モグモグ……静かにしろフォルト。ピセアの森の清浄な空気に比べれば、ここはただの埃溜まりだ。今は耐えろ。……アスト、周囲の熱源を拾っておけ)』
アストの冷静な言葉を背に、一行を乗せたヌーベはスラムの深部、光の届かない路地の奥へと足を踏み入れた。
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「おい、あんた。ここが俺たちのアジトだ。めちゃくちゃ厳しい場所だからな。覚悟しとけよ?」
暴漢に案内されたの場所は、地図にも載っていない廃墟と化した巨大な地下貯水施設だった。
男たちがギッシリとした扉を開ける。
重厚な鉄扉の向こう側には、重武装した男たちが慌ただしく行き来し、大量の爆薬や魔力触媒を運び込んでいる。その光景は、まさに「戦争の準備」そのものだった。
「おい、新入りを連れてきたのか?」
奥から現れたのは、顔に大きな傷跡を持つ、組織の幹部らしき男だった。彼はヌーベの体格と、その奥に隠された「ただ者ではない気配」を品定めするように眺める。
「ちょうどいい。ベスパ様からの無理難題で人手不足だったんだ。……お前、名前は?」
「……『ベル』です」
ヌーベは迷いなく偽名を口にした。
「いいだろう、新入りのベル。今日からお前はここで雑用だ。その動物たちも、せいぜい腹が減った時の非常食にでもしておけ。ウサギは煮込めば美味いからな」
その言葉を聞いた瞬間、カゴの中が微かに震えた。
「モグ……(俺を食べるだと? 食ってもうまくねえだろうが!俺を煮込む前に、てめえの臓器を地脈振動で粉砕してやるよ! ルウ、今すぐ薬を飲ませろ!)」
フォルトが激昂し、前足でカゴを蹴ろうとするのを、アストが必死に抑え込んでいる。
「モグモグ(……フォルト、落ち着け! 俺たちは今、ただのロップイヤーだ。人間に戻った瞬間、この基地ごと吹き飛ばせばいい。なんて言いたいところだけど、ウサギの姿じゃまともに戦えん。というか、それまで待て、まずいのは俺たちじゃなくて、あいつの脳みそだ)」
ヌーベは引き攣る頬を必死に抑え、「ベル」として組織の内部へと潜り込むことに成功した。
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見張りの目が逸れた一瞬、ヌーベは物陰にカゴを置き、檻の格子越しに僕たちと顔を近づけた。
「(ルウさん、まずは情報の収集を。奴らがベスパに何を命じられているのか、爆薬の設置場所、そして『家族を人質に取られている者』の特定……その全容を掴みます)」
僕はカゴの隅で、鋭く研がれた爪を一瞬だけ出し、再び引っ込めた。
「にゃあ……(……わかっている。ヌーベ、焦るな。今回は『月下狂牙』のような派手な依頼を受けているわけじゃないだろう?あくまで、この最悪の計画の根を断つための調査だ。……僕たちが薬を使うのは、ベスパの本体、あるいは計画を止めるための決定的な瞬間だけだ。タイミングを間違えるなよ。……僕を、これ以上『猫』の姿でいさせるな)」
「(ルウさん。タイムリミットがある。そのときに俺が幹部と立ち会ったら戦います)」
一週間のタイムリミット。
そのリミットが刻一刻と迫る中、鉄格子の中で牙を研ぐ伝説の義賊たち。
ベスパが気づいた時には、すでにその心臓部に、最強の獣たちの爪が食い込んでいるはずだ。
「にゃあ(……アイリス姉さん。もうすぐ、この街の汚れを全部掃除して帰るからね)」
僕は闇の中で黄金の瞳を光らせ、地下施設に響く不穏な軍靴の音を数え始めた。
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地下貯水施設の湿った空気は、鉄錆と安酒の匂いで淀んでいた。
僕はヌーベが運んできたケージの隅で、マンチカンの短い手足を器用に折りたたみ、ただの「愛玩動物」を装いながら耳を尖らせていた。猫の聴覚は人間の数倍鋭い。広大な地下空間に反響する男たちの話し声は、僕にとって極上の、そして最悪の情報源だった。
「……おい、聞いたか? マンティのところの『庭師』、あの死体愛好家のオネブがやられたらしいぞ。カリスとかいう義賊の女の仕業だって噂だ」
「ああ、それだけじゃねえ。ベスパ様の側近中の側近、あの怜悧なアニル様まで死んだって話だ。マンティ本人が動いたらしい……。信じられるか? 均衡が崩れてるんだよ」
焚き火を囲む武装した男たちの顔には、隠しきれない不安が影を落としていた。彼らはベスパの恐怖に縛られているだけの、いわば「使い捨ての駒」に過ぎない。自分たちが仕える主が、仲間を平然と切り捨てる狂人であることを、彼ら自身が一番よく理解していた。
「……俺たち、本当にこのままベスパ様に付いていって大丈夫なのか? あの人は、いざとなったら俺たちの家族ごと、この街を焼く気だぞ。救いなんて、どこにもねえ……」
ケージの中で、僕の黄金色の瞳が細くなる。
「にゃあ(……家族を人質に取られた連中の、末端の動揺か。ベスパめ、恐怖だけで統治しようとするから、こうして綻びが出るんだ)」
「……静かにしろ、バカ野郎! 聞こえたら衛兵に憲兵団ども、それか月下狂牙に消されるぞ!」
リーダー格の男が、周囲を警戒しながら声を潜めた。その視線が、雑用として床を掃いていたヌーベを一度通り過ぎ、再び焚き火へと戻る。
「俺たちが今やらされてるのは、単なるテロじゃねえ。南の大陸の主要五都市……その地下深くに『魔力集積爆弾』を配置することだ。ベスパ様の合図一つで、魔力が一気に共鳴し、大陸の半分が文字通りの火の海になる。……拒否すれば、俺たちの故郷が最初に見せしめにされるんだ。やるしかねえんだよ、この地獄を完遂するまではな」
ヌーベは雑用をこなすフリをしながら、男たちが時折視線を向ける、錆びた鉄机の上の巻物を横目で追っていた。あれが爆弾の配置図だ。
「にゃあ(……五都市同時爆破か。想像以上に規模がでかいな。ベスパの野郎、本当にこの大陸を更地にして、一から自分の『放棄された帝国』でも作るつもりか)」
「(ルウさん、あなたの目論見通り全都市放棄化計画は本当でしたね)」
「モグ……(ルウ、聞いたか? 地下を掘り返して爆弾を埋めるなんて、俺たち林業屋や土木屋への冒涜だ。地脈が泣いてるぜ)」
フォルトの念話に怒りが混じる。
「モグモグ……(静かにしろフォルト。地脈より先に、俺たちの毛が焼かれる心配をした方がいい。爆弾の起爆スイッチがどこにあるか、ヌーベに探らせるんだ)」
アストが冷静に軌道修正するが、その鼻先は微かな怒りでピクピクと動いていた。
その時だった。
地下施設全体を揺るがすような重低音が響き、アジトの入り口にある重厚な鉄扉が、まるで熱したナイフを通したバターのように、内側から溶け落ちて崩れ去った。
「――ソルの野郎に言われて、ここに向かったけどよぉ。実験ができなくなっちまうのはイラつくよなあ」
――この匂い、燃え上がる炎の気配。まさか......。
「あーあ、ひっでえな。湿気くせえアジトだ。これじゃあ俺の大事な斧が錆びちまうじゃねえか。なあ、お前ら?」
凄まじい熱風が吹き抜け、男たちが悲鳴を上げながら後退する。
炎の渦を割り、赤々と輝く火の粉を撒き散らしながら現れたのは、444人リストにその名を刻む『冥府の羽音』の幹部――ドラア。
筋骨隆々の背中には、熱を帯びてマグマのように赤く拍動する巨大な『火炎重戦斧』を担いでいた。
「おい、ゴミ共。作業の進捗はどうだ? ベスパ様はお急ぎだ。もし予定より一秒でも遅れてるなら、計画の変更だ。お前ら全員、ここで炭の彫刻にしてやるよ。材料は現地調達ってわけだ」
ドラアが重戦斧を地面に叩きつけると、地下施設全体が悲鳴を上げるように揺れ、コンクリートの床が溶岩のように赤く変色し始めた。周囲の気温が、一気に生命を脅かすレベルまで上昇する。
「……俺は火遊びが大好きでね。特に、命令を聞かない『裏切り者』を焼く時の、あの香ばしい匂いは最高だ。おい、リーダー。配置は終わったんだろうな?」
男たちは震え上がり、声も出せない。
ドラアの放つ暴力的な熱量は、単なる魔力ではない。それは「破壊すること」に一切の躊躇がない、純粋な狂気の温度だ。
「モグ……(ムカつく匂いだな。おい、あの筋肉ダルマ。俺たちを焼きウサギにするつもりか? 冗談じゃねえぞ)」
フォルトの念話が殺気立つ。
「モグモグ……(ルウ、ヌーベ。今の俺たちはウサギと猫だ。人間の頃の10分の1も力が出ない。このままドラアと正面衝突したら、一瞬で消し炭だぞ。その前に、なんとかしてくれよ参謀さん……!)」
アストが、これまでにない焦りを滲ませる。
ヌーベは「ベル」としてのポーカーフェイスを維持しながらも、その額からは一筋の汗が流れていた。ドラアの直感は鋭い。少しでも「動物が人間の意志を持っている」と悟られれば、その瞬間にケージごと火炎の餌食になる。
「にゃあ(……待て、動くな。ドラアはバトルジャンキーだ。戦いの気配には敏感だが、取るに足らない雑草には興味を持たない。ヌーベ、あいつに爆弾の最終確認をさせろ。その隙に、僕が配置図を……)」
僕はケージの格子に爪を立て、熱風に煽られる毛並みを逆立てながら、黄金の瞳をドラアの背中に向けた。
伝説の義賊たちが、一介の愛玩動物として、煉獄の焼却者と対峙する。
僕たちの「一週間」は、まだ始まったばかりだというのに、最悪の強敵が目の前に立ちはだかっていた。
(アイリス姉さん。……どうやら、お掃除しなきゃいけない『燃えないゴミ』は、思ったよりデカいみたいだよ)
僕は暗闇の中で、一瞬だけ鋭い牙を剥いた。




